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映画評 小林且弥監督『水平線』

2024年04月24日 | 映画
底辺の生活者から死者の弔い方を考える
映画評 小林且弥監督『水平線』
越川芳明

二〇一一年三月十一日の東日本大震災から、まもなく十三年目を迎えようとしているが、いまだに避難生活を余儀なくされている方々が約二万八千人(復興庁 2023)もいる。つまり、大震災は終わっていない。

本作は、ポスト3・11の福島の港町を舞台に、津波で妻が行方不明になった中年男性(井口真吾)と、水産加工場で働くその娘(奈生)を中心に展開する。

真吾はもともと漁師であったようだが、いまは海洋散骨の個人会社(寄り添い散骨 ウィズユー)を営んでいる。
東北では震災のあと多くの遺体を弔わなければならなくなり、海洋散骨の需要が増えたらしい。

全国的に見ても、海洋散骨は、自宅葬や樹木葬、永代供養墓などと同様、この十年あまりで急激に広がりを見せているようだ。

こうした主人公の職業設定ひとつをとってみても、本作は日本社会の家族制度の弱点を鋭く突いている。

海洋散骨の近年の広がりについて、村田ますみ(一般社団法人日本海洋散骨協会代表)は、これまでの日本におけるお墓を含めた相続のあり方が、少子高齢化の影響を大きく受け、変容を余儀なくされていると指摘している。

「お墓のような祭祀財産は、分割して相続することができないため、現行民法第 897 条【祭祀に関する権利の承継】では、『祖先の祭祀を主宰すべき者が承継する』と規定されています。(中略)しかし、核家族化が進行して子供の数が減っている現在、お墓を継承する後継ぎ(墓守)のいない家が増えています。2015 年の国勢調査では、(中略)全世帯の実に6 割が、単身あるいは二人世帯という社会構造になっています。墓守のいない人々の、お墓の悩みは切実です。(中略)継承者を前提としている従来のお墓のシステムが制度的に現在の家族の状況に適合しないケースが増えていることから、永代供養墓や海洋散骨のような、継承者を必要としない遺骨の行き先が求められているといえます」(報告「海洋散骨の現状と広がっている背景」日本生活学会第46回研究発表大会 公開シンポジウム「弔いと生活―死をめぐる現在をとらえる―」『生活学論叢』35 号 2019年)

あるとき、真吾はいわくつきの遺骨を預かることになる。依頼人は松山という若者で、兄の遺骨を散骨してほしいと真吾に頼む。

松山がいくら払ったかわからないが、松山の前に、一人暮らしの老婆が真吾に将来の自分の遺骨の処理を依頼して、一万円で請け負わせるシーンが出てくる。

いずれにしても、家族が乗船せずに散骨する「代行委託プラン」の場合、三万円から五万円が相場のようだから、真吾の会社はそうとう格安だ。

真吾自身も老婆に、業界最安値と説明していた。

慎吾の顧客は、高齢者や生活困窮者など、社会の底辺で暮らす人たちだ

ここに日本社会の別の問題が浮かびあがってくる。現在、海洋散骨が人気を博す別の理由があるのだ。

従来のお墓での埋葬に比べて、圧倒的にコストが安いのである。

監督自身も、海洋散骨の実態は「(いまの日本社会における)貧富の格差」を顕在化させる、と述べている。

そうはいっても、ともすれば閉鎖的な日本社会では海洋散骨業は反発も受ける。だから散骨業者も低姿勢である。

「散骨が新しい葬送方法である点、ご遺骨を海に撒くという特殊な行為である点などから、散骨について否定的な見解をお持ちの方々もいらっしゃるという事実も真摯に受け止めなければいけません」(一般社団法人日本海洋散骨協会のウェブページより)。散骨業界も会社も、いまだ日陰の存在と言わざるを得ない。

散骨と「風の電話」

しかし、これまで述べてきたことは、本作の社会学的な側面にすぎない。もっと注目すべき思想的な問題をこの映画は提起している。

人間にとって、死とは何か、という根源的な問題である。

死んだひとの肉体は、ただのモノなのか? 果たしてひとには魂があるのか? もしそうだとするならば、肉体は滅びても、魂は生き延びるのか? 

津波によって、真吾の妻は亡くなった。

遺体は見つからなかったので、本当は亡くなったどうか不明だ。

真吾は不在の妻があるときひょっこりと帰ってくるかもしれない、という想いを抱いているらしい。

だから、妻がいたときと同じように、毎日を淡々とすごす。

仕事が終われば、夜はスナックに通って、酒を飲んでカラオケに興じる。

ここで私たちは岩手県の佐々木格氏が自宅の敷地に設置した「風の電話」を思い出す。

生存者が震災で亡くなった家族への想いを風に乗せて伝えられるように設置された電話ボックス。

多くの被災者たちがボックスの中に入り、回線のつながっていない電話を手に取り、行方不明になった家族と魂の会話をおこない、心を癒されたという。

おそらく真吾は、お客の散骨のために船で海に出ていくたび、まわりに誰もいない沖で、目に見えない「風の電話」を使って妻と会話をしているはずだ。

一方、娘の奈生は母の死を消化しきれていない。

母の急な「喪失」が心の中に大きな空洞を作っているようだ。

奈生がアルバイトの休憩時間に岸壁にすわり海を眺めてタバコを喫うショットが何度も出てくる。

母の肉体は海のどこかで朽ちているはずだが、奈生には母と会話をする「風の電話」がない。

だから「骨などに価値はない。心が大事」という父に対して、「母の骨がほしい、たとえひと欠けらでも」と、父に訴える。生きるヨスガとなるモノが必要なのだ。

小さい「声」と大きい「声」

そうした違いがあるとはいえ、父娘とも、この社会では見えない存在で、「声」が小さく、スポットライトが当たらない人たちだ。

だから、私たちはかれらの「声」に耳を傾けなければならない。

このふたりに比べれば、「声」の大きい登場人物がふたり出てくる。

ひとりは都会からやってくる江田というジャーナリストだ。

江田は、松島という男の持ち込んだ遺骨は十二年前に世間を騒がした通り魔殺人事件の犯人のものだと告げ、そんな殺人者の骨を大勢の被災者が眠る海に撒いていいのか、と真吾に詰め寄る。

さらに、犯人に娘を殺されたという母親を連れてきて散骨をやめるよう迫り、応対にこまる真吾を動画に撮りSNSで拡散させる。

被害者の代弁者と称して、江田は「政治的正しさ(正義)」を盾にして、ずかずかと真吾の心の中に入り込んでくる。

もうひとりの、隼人という漁師の若者は、普段から漁師仲間の声を代表しているという口ぶりで真吾の仕事にケチをつけるが、犯人の遺骨を海に撒いたりしたら、また風評で魚が売れなくなってしまう、と真吾に苛立ちを爆発させる。

真吾は共同体の同調圧力にも晒されるのだ。

真吾は果たして、そうした内外の圧力に負けて、娘の願いにも折れて、殺人犯の遺骨の散骨をやめてしまうのか。

いま私たちは、先祖とのつながりはおろか、身近な死者との絆も失いつつある。

まるで老人の虫歯を抜くように、日本列島のあちこちで「墓じまい」がおこなわれている昨今、本作は私たちに現代の弔いのあり方を考えさせてくれる、非常にタイムリーな映画である。
(『思想運動』二〇二四年三月一日号)

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