越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

映画評 ファティ・アキン監督『RHEINGOLD ラインゴールド』

2024年04月25日 | 映画
獄中ラッパーの誕生
ファティ・アキン監督『RHEINGOLD ラインゴールド』
越川芳明

 「2010年シリア」という字幕が流れ、鉄のフェンスがある荒地を一台の軍用トラックがやってくる。

トラックは放牧の羊の群れを追い散らすようにして、要塞の塀の中に入っていく。

そこは収容所で、トラックから手錠をかけられた三人の男が降りてくる。

まずは三十歳近くのクルド人の主人公ジワ。
幼馴染みのパレスチナ人のサミー、そしてクルド人のミラン。
お互いに「兄弟」と呼び合う仲だ。

ジワとサミーはドイツで大きなヘマをして莫大な借金を抱え込む。

一発逆転をねらい、金(きん)の輸送車を襲って、ミランのコネで外国への横流しに成功。

だが、強盗仲間のひとりの軽はずみな行為で足がついてしまう。

中東に逃げるもドイツ当局の執拗な捜査によって、シリアの山岳リゾートで捕えられる。

三人はシリアの収容所に八か月半年ほど勾留される。

数々の非人道的な拷問にも屈せず、金のありかを吐かない。

ドイツへと強制送還され、シュトゥットガルトで裁判になる。

それぞれ七年から八年までの禁錮を言い渡される。

皮肉にも、時間がたっぷりある刑務所にいるあいだに、ジワのラッパーとしての才能が開花する。

ひそかに獄中で自作のヴァースを録音し、塀の外にいる知り合いのプロデューサーの協力で人生初のCD制作に漕ぎつける。

CDのジャケットにつけられているラッパーの名前も「カター415」。

「カター」というのは、クルド語で「危険な奴」という意味で、415は、ジワの囚人番号。

まさに獄中ラッパーの誕生だ。

ドイツにおける少数民族クルド系のラッパー。

もともとジワの父はイラン在住のクラシックの作曲家で、母も名家の出で音楽家だった。

しかし、一九七〇年代末の「イラン革命」によって、親欧米体制のパプラヴィー朝が打倒され、欧米の娯楽(とりわけ、音楽)は禁止される。

クルド人は、イランでの自治権の獲得をめざしたが、ホメイニ師の革命政府によって弾圧され、山岳に立てこもり戦闘状態になった。

そんな戦闘のなかでジワは生まれる。

三歳のときに、逃亡先のイラクで、両親と一緒に監獄に入れられる。

ジワは後日、実の娘に向かって「人生で最初の記憶は刑務所だった」と、述懐する。

ジワは生まれてから一箇所にとどまることがない。

まるでクルド民族の遍歴をなぞるかのように、めまぐるしく各地を転々とする。

幼児の頃にイランからイラクやドイツのボンへ亡命。

少年時代には麻薬密売人として少年刑務所に入れられ、出所後オランダ(アムステルダム)へ渡る。

そこでは音楽院で音楽ビジネスを学びながら、ミランのコネを使って、警備会社を設立して、クラブに用心棒を独占的に派遣することに成功。

しかし、ジワは自己のレーベルを作ることを夢見てドイツに舞い戻る。

その際、コカインの密輸に失敗し多大な借金を抱え、強盗事件を引き起こし、中東各地をさまよったあげくにシリアの山岳地帯で逮捕される。

そうした波瀾万丈の半生が、ラップのヴァースに活かされている。
 
ママは父親代わり/ストリートが俺の手本
当時はつるみ 今は金(きん)を探す/多くを見てきた あらがえなかった
 (中略)
一〇ユーロで俺らはメジャー/敵がくれた名前はカター
五〇〇万儲かる話/俺の場合 大赤字
アムスのマフィアに大借金/首をかけて借金返済
助かったが代償は巨大/沈黙は金だから

さて、クルド人は中東のトルコ、シリア、イラク、イランなどの各国が接している山岳地帯(クルディスタン=クルド人地区)に住んでいる。

その人口は、三千五百万人から四千八百万人といわれている。

ジワやミランの家族のように、ヨーロッパにも亡命している。一言でいえば、国境をまたいで暮らす民族。

多くがイスラム教徒だとはいえ、敬虔とはいえない世俗主義者(日々の祈祷をおこなわない)といわれる。と同時に、仲間意識が強く結束は固い。

とはいえ、この映画では、クルド人の戦闘は両親のそれ以外は描かれない。

むしろ、ヨーロッパに暮らすジワのサバイバルゲームに焦点を当てている。

本作は、実在の人物ジワの自伝をもとにしているが、独自の脚色・変更も行われている。

とりわけ、ふたつのクラシック音楽が注目に値する。

それらは親子の愛情というテーマに結びついているからだ。

ひとつには、ジワの父親の作曲した、「ペルシャ音楽とヨーロッパ音楽の融合」をめざした交響曲がジワの人生の節目のシーンに流れてくる。

父に反発しているとはいえ、ラッパーとしてのジワに多大な影響を与えたことは否定できないからだ。

もうひとつは、本作のタイトルの「ラインゴールド」に見られる。

もちろん、これは一九世紀のドイツの作曲家ワーグナーの大河オペラ『ニーベルングの指環』の、序夜『ラインの黄金』に由来する。

ニーベルング族(死者の国)のアルベリヒは、ライン川の川底の黄金を守る乙女たちに、世界を支配することができる黄金の指環を作るには愛情を断念する必要があると知らされる。

アルベリヒは愛情を捨てさる決心をして、ラインの黄金を乙女たちから奪い、指環を作る。その「ニーベルングの指環」をめぐって、いろんな神々や巨人族が画策する。アルベリヒは奪われた指環に呪いをかけて、結局、それを手にした巨人族の兄弟は殺し合いになる。

そんな神話時代の物語と同様、現代ドイツを舞台にした本作でも、世界を支配できるという黄金をめぐる争いに、ジワをはじめとする登場人物たちが翻弄される。

最後に、ジワは幼い娘に、本当に黄金を盗んだりしたのか?と問いただされ、「大昔にね」と答える。

さらに、その黄金はいまどこにあるのかと聞かれ、ジワはそっと娘に耳打ちする。

「ライン川の川底に眠っていて、三人の乙女が守っている」と、答えたに違いない。

それは、結局は手にしてはいけないモノであったというメッセージだったのかもしれない。


映画評 小林且弥監督『水平線』

2024年04月24日 | 映画
底辺の生活者から死者の弔い方を考える
映画評 小林且弥監督『水平線』
越川芳明

二〇一一年三月十一日の東日本大震災から、まもなく十三年目を迎えようとしているが、いまだに避難生活を余儀なくされている方々が約二万八千人(復興庁 2023)もいる。つまり、大震災は終わっていない。

本作は、ポスト3・11の福島の港町を舞台に、津波で妻が行方不明になった中年男性(井口真吾)と、水産加工場で働くその娘(奈生)を中心に展開する。

真吾はもともと漁師であったようだが、いまは海洋散骨の個人会社(寄り添い散骨 ウィズユー)を営んでいる。
東北では震災のあと多くの遺体を弔わなければならなくなり、海洋散骨の需要が増えたらしい。

全国的に見ても、海洋散骨は、自宅葬や樹木葬、永代供養墓などと同様、この十年あまりで急激に広がりを見せているようだ。

こうした主人公の職業設定ひとつをとってみても、本作は日本社会の家族制度の弱点を鋭く突いている。

海洋散骨の近年の広がりについて、村田ますみ(一般社団法人日本海洋散骨協会代表)は、これまでの日本におけるお墓を含めた相続のあり方が、少子高齢化の影響を大きく受け、変容を余儀なくされていると指摘している。

「お墓のような祭祀財産は、分割して相続することができないため、現行民法第 897 条【祭祀に関する権利の承継】では、『祖先の祭祀を主宰すべき者が承継する』と規定されています。(中略)しかし、核家族化が進行して子供の数が減っている現在、お墓を継承する後継ぎ(墓守)のいない家が増えています。2015 年の国勢調査では、(中略)全世帯の実に6 割が、単身あるいは二人世帯という社会構造になっています。墓守のいない人々の、お墓の悩みは切実です。(中略)継承者を前提としている従来のお墓のシステムが制度的に現在の家族の状況に適合しないケースが増えていることから、永代供養墓や海洋散骨のような、継承者を必要としない遺骨の行き先が求められているといえます」(報告「海洋散骨の現状と広がっている背景」日本生活学会第46回研究発表大会 公開シンポジウム「弔いと生活―死をめぐる現在をとらえる―」『生活学論叢』35 号 2019年)

あるとき、真吾はいわくつきの遺骨を預かることになる。依頼人は松山という若者で、兄の遺骨を散骨してほしいと真吾に頼む。

松山がいくら払ったかわからないが、松山の前に、一人暮らしの老婆が真吾に将来の自分の遺骨の処理を依頼して、一万円で請け負わせるシーンが出てくる。

いずれにしても、家族が乗船せずに散骨する「代行委託プラン」の場合、三万円から五万円が相場のようだから、真吾の会社はそうとう格安だ。

真吾自身も老婆に、業界最安値と説明していた。

慎吾の顧客は、高齢者や生活困窮者など、社会の底辺で暮らす人たちだ

ここに日本社会の別の問題が浮かびあがってくる。現在、海洋散骨が人気を博す別の理由があるのだ。

従来のお墓での埋葬に比べて、圧倒的にコストが安いのである。

監督自身も、海洋散骨の実態は「(いまの日本社会における)貧富の格差」を顕在化させる、と述べている。

そうはいっても、ともすれば閉鎖的な日本社会では海洋散骨業は反発も受ける。だから散骨業者も低姿勢である。

「散骨が新しい葬送方法である点、ご遺骨を海に撒くという特殊な行為である点などから、散骨について否定的な見解をお持ちの方々もいらっしゃるという事実も真摯に受け止めなければいけません」(一般社団法人日本海洋散骨協会のウェブページより)。散骨業界も会社も、いまだ日陰の存在と言わざるを得ない。

散骨と「風の電話」

しかし、これまで述べてきたことは、本作の社会学的な側面にすぎない。もっと注目すべき思想的な問題をこの映画は提起している。

人間にとって、死とは何か、という根源的な問題である。

死んだひとの肉体は、ただのモノなのか? 果たしてひとには魂があるのか? もしそうだとするならば、肉体は滅びても、魂は生き延びるのか? 

津波によって、真吾の妻は亡くなった。

遺体は見つからなかったので、本当は亡くなったどうか不明だ。

真吾は不在の妻があるときひょっこりと帰ってくるかもしれない、という想いを抱いているらしい。

だから、妻がいたときと同じように、毎日を淡々とすごす。

仕事が終われば、夜はスナックに通って、酒を飲んでカラオケに興じる。

ここで私たちは岩手県の佐々木格氏が自宅の敷地に設置した「風の電話」を思い出す。

生存者が震災で亡くなった家族への想いを風に乗せて伝えられるように設置された電話ボックス。

多くの被災者たちがボックスの中に入り、回線のつながっていない電話を手に取り、行方不明になった家族と魂の会話をおこない、心を癒されたという。

おそらく真吾は、お客の散骨のために船で海に出ていくたび、まわりに誰もいない沖で、目に見えない「風の電話」を使って妻と会話をしているはずだ。

一方、娘の奈生は母の死を消化しきれていない。

母の急な「喪失」が心の中に大きな空洞を作っているようだ。

奈生がアルバイトの休憩時間に岸壁にすわり海を眺めてタバコを喫うショットが何度も出てくる。

母の肉体は海のどこかで朽ちているはずだが、奈生には母と会話をする「風の電話」がない。

だから「骨などに価値はない。心が大事」という父に対して、「母の骨がほしい、たとえひと欠けらでも」と、父に訴える。生きるヨスガとなるモノが必要なのだ。

小さい「声」と大きい「声」

そうした違いがあるとはいえ、父娘とも、この社会では見えない存在で、「声」が小さく、スポットライトが当たらない人たちだ。

だから、私たちはかれらの「声」に耳を傾けなければならない。

このふたりに比べれば、「声」の大きい登場人物がふたり出てくる。

ひとりは都会からやってくる江田というジャーナリストだ。

江田は、松島という男の持ち込んだ遺骨は十二年前に世間を騒がした通り魔殺人事件の犯人のものだと告げ、そんな殺人者の骨を大勢の被災者が眠る海に撒いていいのか、と真吾に詰め寄る。

さらに、犯人に娘を殺されたという母親を連れてきて散骨をやめるよう迫り、応対にこまる真吾を動画に撮りSNSで拡散させる。

被害者の代弁者と称して、江田は「政治的正しさ(正義)」を盾にして、ずかずかと真吾の心の中に入り込んでくる。

もうひとりの、隼人という漁師の若者は、普段から漁師仲間の声を代表しているという口ぶりで真吾の仕事にケチをつけるが、犯人の遺骨を海に撒いたりしたら、また風評で魚が売れなくなってしまう、と真吾に苛立ちを爆発させる。

真吾は共同体の同調圧力にも晒されるのだ。

真吾は果たして、そうした内外の圧力に負けて、娘の願いにも折れて、殺人犯の遺骨の散骨をやめてしまうのか。

いま私たちは、先祖とのつながりはおろか、身近な死者との絆も失いつつある。

まるで老人の虫歯を抜くように、日本列島のあちこちで「墓じまい」がおこなわれている昨今、本作は私たちに現代の弔いのあり方を考えさせてくれる、非常にタイムリーな映画である。
(『思想運動』二〇二四年三月一日号)

書評 ロサ・モンテーロ『世界を救うための教訓』

2024年04月23日 | 書評
世界を救うための寓話
書評 ロサ・モンテーロ『世界を救うための教訓』
越川芳明

スペインの首都マドリードを舞台にした現代小説だ。

交互にめまぐるしく視点を変え、サスペンスあふれる小説の前半には、主要人物がふたり出てくる。

ひとりはマティアスという男で、四九歳になるタクシードライバー。

三十年以上連れ添った十七歳年上の妻を亡くしたばかりだ。

妻の残した捨て子の犬二匹と暮らしているが、孤独感は癒しがたく、「世界は難破船の残骸のように漂う」と感じている。
 
一方、ダニエルは、救急センター棟に勤めている四十五歳の医師。

ばりばりのキャリウーマンである妻マリーナとの十五年間に及ぶ結婚は破綻している。

かれは妻の目を盗んでコンピュータゲームに没頭。素性のわからない女性たちと、アバターを使ってヴァーチャルセックス(サドマゾプレー)に耽る。

冒頭で、作家は人間を二つのタイプに分類している。

「人々は夜、ベッドにもぐりこむことを楽しむ人々と眠りにつくことに不安を覚える人々に分かれる」と。

確かにマティアスもダニエルも、その日の暮らしに行き詰まる困窮者ではない。

にもかかわらず、夜に眠りにつくときに不安を覚えるタイプなのだ。

なぜふたりは不安を覚えるのか?

マティアスはアルコール依存症の母に育児放棄され、不幸な少年時代を送ったという。

盗みを働き少年院に入れられたり、マリファナに溺れたりするストリートキッズだった。

かれがいま深夜勤務を望むのは、母の代わりにかれを育ててくれた最愛の妻を失って、孤独の夜を直視できないからだ。

ダニエルは医療補助者だった父のようになりたくないからという不純な理由で医者になったものの、二十年間まったく研鑽を重ねることなく、怠惰に生きてきた。

深夜勤務を選ぶのは金のためだ。だが、昼夜逆転の生活で、不眠症とうつ病に陥ってしまう。

周縁に追いやられた人物
小説の後半には、このふたりのほかにスペイン(キリスト教)社会の周縁に追いやれた人物たちが登場する。

いわば社会の底辺に生きる「見えない人たち」が持っている、もう一つの価値観が提示される。

ひとりはマティアスから人種にまつわる偏見で暴力を振るわれてしまうモロッコの少年ラシッド。

かれはのちにイスラム原理主義に染まり、自爆テロに走る。

本国では理工系の優秀な学生であったが、スペインで差別に遭ううちに、「西洋人はみんなそうだ。人種差別主義者で、攻撃的で、抑圧者で、帝国主義者だ。(中略)アラブ人の敵であり、虐殺者だ」と、過激思想に走るようになる。

さらに、若いアフリカ人の娼婦ファトマが登場する。

シオラレオーネからの難民で、パスポートも滞在許可証も売春宿のオーナーに奪われてしまっているようだ。

そんな社会的な弱者である彼女だが、マティアスやダニエルにはない精神的な強さがある。

その基礎になっているのは、故郷で培われた輪廻転生の思想だ。

彼女のそばには、つねにペットのヤモリがいる。

彼女と弟は七万五千人もの死者を出したシエラレオーネの内戦(一九九一年から二〇〇二年まで)に巻き込まれたが、弟はそのとき殺されてしまった。

ヤモリは死んだ弟の精霊だと、彼女は信じている。

その後、難を逃れたスペインでさまざまな男と関係をもたされて、彼女は父親のわからない子を身ごもってしまうが、その子を弟の生まれ変わりだと信じて産む決心をする。

性善説の寓話
本書は前半、妻の急死を不審に思ったマティアスによる担当医ダニエルの誘拐・拘束という、犯罪小説めいた面白い展開を見せる。

しかし後半、あるメッセージ性を有した寓話へと変化する。

それに寄与するのは七十すぎの老女セレブロの存在だ。

彼女はかつて最年少で主任教授の座を射止めたものの、弟子の大学院生による(おそらくパラハラの)告発でその座を追われたらしい。

いま醜くなった老女は酒場でマティアスに、不当に冷遇を受けたと思える二十世紀の科学者をめぐって、独自の講釈を垂れる。

なかでも、とりわけアーロン・フィールドマンというユダヤ人科学者の唱えた仮説が興味深い。

かれはナチスから逃れてアメリカに渡り、ロス・アラモスでの原爆実験「マンハッタン計画」に参加したという。

実在の人物であるオッペンハイマーと同様、この科学者は敵国ナチスドイツよりも早く、敵国にまさる破壊力を持つ武器を作るという使命を帯び、原爆の開発にかかわった。

だが、戦争末期においてその武器の使用に恐怖を覚え、パラノイアに陥ったという。

フィールドマンの学説は「コップの理論」と呼ぶもので、老女いわく「人間の行動は物理的世界、地球とほかの生き物の現実に影響力をもつということだった。

(中略)生き物はエネルギーをもった統一体を形成していると言われる。

あらゆる生き物は何らかの形で、ハエからローマ法王まで、お互いに影響を及ぼしている。

そして我々がしたことに依存しながら、ものを秩序立て、調和を作ろうとする。

さもないと物事が混乱し、不安定と混乱への道を解き放つことになるからである」

世界は調和に向かうのか、それとも混乱に向かうのか? 

その二つの可能性のうち、作家は、たとえ匿名のものでも小さなものでも、「良い行いは世界をより良くする」と信じているようだ。

終盤のマティアスの慈善行為も、ダニエルの改心もそんな作家の性善説に基づいたものであり、「世界を救出するための方法」であるに違いない。

いま(二〇二四年四月)世界に目を向ければ、ロシアとウクライナの戦争は膠着状態のままである。

イスラエルのガザ攻撃よるパレスチナ人の殺戮は三万人を越え、まったく歯止めがかからない。

フィールドマンの学説で言えば、世界は確実に悪い方向に向かっている。

だからこそ、われわれ一人ひとりが良い行動をとらなければならない。

これは作家がそういう倫理的なメッセージをこめた寓話である。