越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

書評 目取真俊『目取真俊短編小説選集』1、2、3(影書房)

2014年08月07日 | 書評

「異臭」を放つ偉人たち 『目取真俊短篇小説選集』(1、2、3)影書房

 越川芳明   

  昨年の10月、すでに初冬の気配のするシカゴを訪れた。紅葉もほとんど散った寒々としたシカゴ大のキャンパスで日本文学を研究する人たちの集まりがあり、目取真俊の作品について話した。実のところ、余計なお世話だが、頭の柔らかいアメリカ人がいれば、目取真俊の作品を英語に翻訳してくれるように頼もうと思っていたのだった。  

  そのときすでに目取真俊の短篇選集は2巻刊行されており、その2冊を携えて会場に乗り込んだ。だが、アメリカ人研究者の意識の高さに驚かされた。「世界の警察」とうそぶき、弱小国の独裁者に武器を提供したり、民主化運動を押しつぶしたりしてきた自国の政府に批判的な研究者が多いせいだろうか、米軍基地のある沖縄で執筆する文学者への関心は高かった。しかも、同じパネルで「人類館事件」(演劇)についての発表をおこなった沖縄人四世カイル・イケダ氏(バーモント大助教)らが、すでに目取真を含めた、沖縄の作家や詩人たちの英訳に着手しており、それが間もなく刊行されるという。  

  このたび、3巻そろった短篇選集を通読してみて抱いた感想を述べておく。いくつもあるが、論点を3つに絞って話を進めるよう。  

      一つめは、いま述べた翻訳にかかわる問題だ。それは出版社をめぐるものと、翻訳技術をめぐるものとがある。出版社に関して言えば、イケダ氏らの行なっているような「沖縄文学」という括りだと、アメリカでは地域研究の一環と見なされて、出版社は割と探しやすいかもしれない。とはいえ、目取真は沖縄が生んだ優れた作家に違いないが、「沖縄文学」といった狭い括りの中に閉じ込めておくべき作家ではない。目取真作品の単独の翻訳が出れば、もっと広いコンテクストの中で、たとえばメキシコのボラーニョやトルコのパムクといった、他国のすぐれた作家たちと一緒に論じることができるようになるだろう。村上春樹を遥かにしのぐ作家が日本にまだいるということが、外国の文学者に分かるはずだ。だから、今回の選集を定本にして、まず目取真の短編集の英語訳を出してほしい、と述べた。  

     次に、方言の処理など、翻訳技術をめぐる難関もある、シマ言葉と呼ばれる「方言」と「標準語」が入り交じる目取真作品特有の難しさは、標準語だけで書かれた作家の比ではない。それだけに、イケダ氏らの訳している作品の一つが、「面影(*ルビ:うむかじ)と(*ルビ:とぅ)連れて(*ルビ:ちりてぃ)」だと聞いたとき、思わず笑みがこぼれてしまった。というのも、この作品は「魂込め(*ルビ:まぶいぐみ)」や「群蝶の木」などと共に、いち早く翻訳が出てほしいと願っていた作品だったからだ。  

    「面影と連れて」は、目取真にしてはめずらしく大人の女性を語り手に据えた小説である。しかも、家族や共同体から周縁に追いやられたその女性が「霊力(さー)」の高さを発揮する物語でもある(だからといって、「救われるいい話」とは限らないのだが・・・)。  

     この作品以外にも、「内海」や「帰郷」、「ブラジルおじい」などの中にも、神懸かりの能力を持ち、死者と交流する「霊力(*ルビ:せじ)」の高い人物が多く出てくる。それは、死者の霊が生者の間近にいる沖縄の文化土壌を文学にみごとに活かした例であり、「オキナワン・マジックリアリズム」と呼べるものだ。しかし、その一方で、目取真はブームとしての超能力、商売としてのユタに対しては釘を刺す。「オキナワン・ブック・レヴュー」という、スタニスラフ・レムの『完全な真空』ばりの、架空の書評集の体裁をとった「短編」によって、なにがなんでも沖縄万歳式の「沖縄ナショナリズム」や「大琉球時代への回帰」を風刺している。  

      二つめは、目取真俊の小説の魅力についてである。目取真の小説は、権力に虐げられた歴史を語る「叙事詩」と、リリカルな詩情に訴える「叙情詩」の魅力を併せもち、知と情に訴えてくる。辺野古への基地の移設問題を持ち出すまでもなく、いまやどんな片田舎の町でも、アメリカ主導のグロバリゼーションや、本土の政治権力や利権と分ちがたく結びついており、権力ピラミッドの最下層の人間がそうした権力の犠牲になっている。目取真は、そうしたことをただ指摘するだけでなく、その一方で、犠牲者がそうした障害をすり抜ける<エピファニー>の瞬間を提示する。たとえば、「伝令兵」という作品では、基地に駐留する米兵三人に追われる主人公が、沖縄戦のときに亡くなった沖縄の若者の浮遊する魂に救出される話だ。艦砲射撃の犠牲になった「鉄血勤皇隊」の「伝令兵」の魂がさまよっているという設定だが、この作品の言外の意味は、沖縄戦は終わっていないということだ。そうしたメッセージは、「水滴」や「魂込め」や「群蝶の木」など、かつて沖縄戦を経験した老人たちを主人公にした代表作にも見られるが、こちらは、あとを絶たない米兵による少女暴行事件、現代の基地問題と絡めたところが斬新である。   

     三つめは、優れた文学には必ず見られる逆説のレトリックが冴えわたっているということだ。「異臭」を放つ老人たちの「活躍」が目につき、しかも「異臭」は、特別な意味を帯びている。通常、小さな集落では、「異臭」を放つ変人たちは住民から白い目で見られ、排除される存在だが、目取真作品では、「異臭」は、彼らが「偉人」であることを表わす「聖痕」である。  

    「平和通りと名付けられた街を歩いて」の老女ウタは、痴呆症で失禁しても分からず、あたりに鼻をつく匂いを放つ。「群蝶の木」の老女ゴゼイは、何日も同じ着物を着っぱなしで、その異臭が遠く離れたところにも漂ってくる。「馬」に出てくる掘っ建て小屋に住むよそ者の老人は、「珊瑚の腐ったような」匂いのする髪を伸ばしている。「ブラジルおじいの酒」の老人は、「魚の腐ったようないやな匂いのするシャツ」を着ている。共同体の周縁に追いやられたそうした老女や老人が、異常とも言える厳戒体勢をかいくぐって、過激派もなし得ないような「革命的な行為」をおこなったり、共同体のご都合主義的な「秩序」を撹乱したり、自分を理解する数少ない少年を助けたり、貴重な知恵を授けたりするのだ。  ついでに付け加えておけば、少年のホモセクシュアリティ(「魚群記」「赤い椰子の葉」「黒い蛇」「水滴」など)も、いま述べた痴呆症患者、狂人(*ルビ:ふりむん)、娼婦、よそ者など、社会の底辺で生きる主人公たちの放つ「異臭」と同様に、逆説的な意味を帯びる。  

      今回の短篇選集は、これまで未収録作品も収めており、目取真俊のファンにはたまらない企画だ。影書房からは、すでに『虹の鳥』と『目の奥の森』といった挑発的な長編小説も刊行されており、これで目取真作品はすべて読めるようになった。まとも読書人が、「沖縄文学」という括りではなく、単独で目取真作品と向かい合える時が来たことを率直に喜びたい。 (『図書新聞』2014年3月1日号)    

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映画評  ジョエル&イーサン・コーエン監督『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』

2014年08月05日 | 映画

猫を連れたフォーク歌手ーー『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』

越川芳明     

 アコースティック・ギターの澄んだ響きに煙草の煙。六〇年代のニューヨーク、グリニッジヴィレッジ。売れない芸術家やミュージシャンが安アパートに住んでいる。  フォーク歌手のルーウィン・デイヴィスは、そうした安い家賃さえも払えずに、その日暮らし。友人たちのアパートを転々と渡り歩き、リヴィングのソファーに寝かせてもらう。  

 一九六一年の〈ガスライト・カフェ〉のライブシーンが印象的だ。ルーウィンが歌うのは、絞首刑になる男のつぶやきを歌った「首を吊るしてくれ」だ。  

 首を吊るしてくれ ああ 首を吊るしてくれ  そうすりゃ オサラバさ  もうすぐ死ぬ俺さ  縛り首は構わないが  長いあいだ 墓に横たわる  哀れな男   世界中を渡り歩いた俺さ  

 これはルーウィンのオリジナル曲ではなく、伝統的な「フォークソング」だ。それでも、あたかも彼のオリジナル曲のように聞こえてくる。人間を善悪の二分法で決めるピューリタン的な発想からは生まれてこない、「犯罪者」の視点の歌だ。神(宗教/倫理観)による「上から目線」ではなく、大衆の「下から目線」で歌われる、まさに人民の歌(ルビ:フォークソング)。  

 ルーウィンがライブ演奏をおこなうヴィレッジの〈ガスライト・カフェ〉は、暗く湿っぽくボヘミアン的な雰囲気が特徴で、一九五七年にオープンした。バスケットを廻して客に投げ銭をもらう方式で、新進のミュージシャンの登竜門であり、やがてボブ・ディランやホセ・フェリシアーノなども出るようになった。だが、そもそもは、詩「吠える」によって物議を醸すアレン・ギンズバーグら〈ビート世代〉の詩人連中が、パフォーマンスをおこなう店だった。  

 ルーウィンは、金持ち階級の者たちが住むアップタウンの大学教授の家にもたまに泊めさせてもらっていた。朝、主人のいない家から出て行くときに、教授の猫が外に逃げ出してしまい、なんとか捕まえたものの、玄関のドアはロックされてしまっており、仕方なく教授の愛猫を連れて、また別の友達の家へ向かう。ギターを背負い、片手に足手まといの猫を抱いたルーウィンの姿は、彼の人の好さを表わしていると同時に、前途多難な道を象徴している。  

 ルーウィンは、起死回生を狙って旅に出る。新人の売り出しに成功しているシカゴのメジャーレコード会社に直接出向いて契約を結ぼうとするのだ。ニューヨークからシカゴまでは、仕事で知り合った男の紹介により、ある二人組の車に乗せてもらう。ガソリン代を折半するという約束だったが、ガソリン代も食事代もたかられる始末。  一緒に旅するのは、相当に変てこな二人組だ。後部座席にどっかと腰をおろしているのは、帽子をかぶり黒めがねをかけた白髭の老人だ。人を見下すようにステッキで肩をつつき、嫌みなことをずけずけとルーウィンに言う。一方、運転手は寡黙な若者で、名前はジョニー・ファイヴといい、老人によれば、彼の「付き人」だという。  

 あるとき、寡黙なジョニー・ファイヴがぼそっとピーター・オーロフスキーの詩を口ずさむ。

 もっと もっと とベッドは泣き叫んだ もっと話して ああ 世界の重さを受けとめたベッドよ あらゆる失われた夢が お前にのしかかる ああ ヘアの生えないベッドよ ファックされない あるいはファックされるベッドよ ああ あらゆる世代のベッドの欠片が お前にこぼれ落ちる  

 オーロフスキー「私のベッドは黄色に包まれた」(一九五七年)の一節だ。いうまでもなく、オーロフスキーは、五〇年代から七〇年代までギンズバーグのパートナーだったビート詩人。  

 シカゴのメジャーレーベルの社長、バド・グロスマンがルーウィンの演奏を聴いたあとに、彼に言う。「君は決して下手じゃないが、金の匂いがせんな」と。  

 コーエン兄弟はなぜ六〇年代の売れないフォーク歌手に焦点を当てた映画を作ったのだろうか。  

 アメリカの資本主義は、六〇年代以降、過度の情報消費主義へと向かい、歌手も質よりも量(レコードやCDの売り上げ)重視の方向へ向かう。いまや世界は、情報資本主義から金融グローバリズムにまでつき進んできている。  

 それに対して、「ビートニク」「対抗文化」の思想は、競争よりも協調、自然の征服よりは自然との共生、物質文化よりも精神文化の重視を謳う。  ベトナム戦争後遺症の男を登場させた(『ノーカントリー』や『ビッグ・リボウスキ』)コーエン兄弟らしい、アメリカの主流文化への「ノー!」を、ソフトに、しかし的確に突きつけた映画だ。 (『すばる』2014年4月号)

 

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書評 中村文則『A』

2014年08月05日 | 書評

巨悪につながる小さな「悪意」--中村文則『A』

越川芳明  

  十三の作品からなる短篇集だ。初出の媒体も時期もまちまちだが、不思議なことにテーストが変わらない。それは、作家の才能の表れなのか、それとも作家の不器用さの表れなのか。いや、作家は自分の不器用さすらも才能に変えてしまう、力技をときに発揮するのだ。  

  言うまでもなく、中村ワールドに特徴的なモチーフの一つは、個人の内面(悪意)による裏切りだ。登場人物たちは内なる「裏切り者」の仕業で、身体に異状をきたす。急に心臓の鼓動や呼吸が速くなったり、嘔吐したり、胸が苦しくなったりする。たとえば、都会の繁華街でストーカーまがいの行為をそれと自覚せずに行なう、短篇「糸杉」の「僕」や、会社の女性を飲みに誘い出して妻には語れない自分の本心を語る、短篇「嘔吐」の「僕」など、彼らは自分の内面(悪意)というミクロな世界の「謎」を追いかける。  

  とはいえ、この短篇集で、私が個人的に最も堪能したのはそうした「心理ミステリ」ではなく、「黒い諧謔」に彩られたグロテスクな作品だった。  

  中でも、「A」はピカ一の短篇だ。外地での日本軍の行動をテーマにしたもので、語り手は見習い士官。彼は「山東省」で、ある「講習」を受ける。上官や部下の前で、刀を持たされ、一人の中国人の首を刎(*ルビ:は)ねさせられるのだ。最初はとうてい人など殺せないが、何かの拍子に刀を振り下ろしてしまうと、それまでの自分でなくなる。彼は上官たちによって、中国人を殺す「勇気」と「度胸」を褒められ、部下の者たちから畏怖の眼差しを向けられる。  軍隊という特殊な世界では、敵を殺すことが、倫理的に善であり正義である。だから、見習い士官は、上官たちから「我々の仲間」になったと言われたとき、「誇り」さえ感じる。  

  だが、小説家はそうした狭い社会で通用するだけの「善」や「正義」をいったん宙づりにする必要がある。  

  短篇「妖怪の村」では、天下りした役人の作った企業が国から特殊な任務を委託されて税金を独占的に吸い上げるといった社会の巨悪が描かれる。  巨悪はそれだけで独自に存在するのではなく、私たちの内なる小さな悪意と結びついている。巨悪の真っただ中にいて、それを描くことができるのは、正義を標榜する大手マスコミではなく、中村のような小説家のみだ。(『週刊現代』2014年8月16・23日合併号)

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