越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

書評 ロベルト・ボラーニョ『2666』

2013年01月11日 | 書評

砂漠のような小説

ロベルト・ボラーニョ『2666』

越川芳明

 この小説を読むと、時々、巨大な砂漠に迷いこんだみたいな印象を受けるかもしれない。だが、読解のための鍵がないわけではない。

 その鍵とは、メキシコの北の国境地帯に位置するサンタテレサという架空の都市だ。そこで一九九三年頃から頻繁に若い女性をターゲットにした殺人事件が起こっているという。

 モデルになっているのは、自由貿易協定で関税を免除された多国籍の工場が乱立するフアレス市だが、実際の被害者の数は一説に四千人とも言われ、人権擁護組織「国際アムネスティ」がメキシコ政府に本格的な捜査を促したほどの重大事件である。

 とはいえ、「犯罪の部」と題された第四部を除けば、この女性殺人事件とはまったく無縁に見える。たとえば、第一部は、謎のドイツ人作家アルチンボルディを研究するヨーロッパの学者たちの物語でしかない。だが、それもやがて噂を頼りに作家を探しにいく、学者たちのメキシコ旅行の話へと発展し、さらに最後の第五部まで来ると、作家自身のサンタテレサ行きとゆるやかに交錯する仕掛けになっている。

 さて、そうした仕掛けは自動車で言えばエンジン部分に当たる。高性能エンジンを動かすにはハイオク・ガソリンが必要で、それはボラーニョ一流の偏執狂な語り口だ。

 つまり、この小説の醍醐味は、作家が次々と披露するマニアックなエピソードにある。

 放浪のチリ人学者アマルフィターノが裏庭の物干に幾何学の本を吊るして、夜ごとそれを眺める狂気の瞬間。敬愛する詩人を求めて失踪するその妻の破天荒な放浪の物語。さらに、その妻が墓地で関係を持つ異常性愛の男の物語。精神病院の女性院長が語るさまざまな恐怖症の話。無学でありながら悩める若者たちに慕われる女の薬草医の知恵。戦場から脱走し名前を変えて作家となる青年の運命など、枚挙に遑(ルビ:いとま)がない。

 そんなわけで、私たちにとって『2666』という砂漠は、局所的な犯罪事件として現わるグローバルな問題に関心を寄せながら、そこでの放浪=読書を楽しむためにある。

『週刊文春』2013年1月17日号、128ページ


書評 ロベルト・ボラーニョ『2666』

2013年01月08日 | コラム

世界へとつながる「周縁」

ロベルト・ボラーニョ『2666』

越川芳明

 

 テキサス州エルパソ市のダウンタウンから十分ほど歩き、米墨国境を越えフアレスに入ると、十字架を象った「慰霊碑」が立っている。一九九三年頃から頻繁に起こっている女性失踪殺人事件に抗議し、地元やアメリカ側の人権活動家たちが作ったものだという。被害者は四百人、あるいは四千人とも言われ、犯人に関しても単独説、複数説があり謎に包まれている。

 ロベルト・ボラーニョの大作『2666』は、活動家たちが「フェミサイド(女性をターゲットにした大量虐殺)」と名づけるこの事件を中心にして、万華鏡のようにさまざまな模様を描き出す。その模様は五つに大別できる。「批評家たちの部」「アマルフィターノの部」「ツェイトの部」「犯罪の部」「アルチンボルディの部」と題されていて、その大きなパターンの中に、さらに小さなバリエーションが存在し、模様は無限に増殖してゆく。

「批評家たちの部」は、一九二〇年生まれとされるドイツ人作家アルチンボルディをめぐる四人の研究者たちの物語だ。彼らはフランス人、スペイン人、イタリア人、イギリス人と、いずれも非ドイツ語圏の人間で、二十歳前後の頃に、それほど有名でない作家の作品に出会っているらしい。母語への翻訳を試み、論文を書き、学会で交流を深める彼らのうち一人は女性で、彼女を軸にして友情と性愛をめぐる複雑な愛憎劇が繰り広げられる。やがて彼らは、謎の女性殺人事件が起こっているメキシコのサンタテレサ市(フアレス市がモデル)に、アルチンボルディを探しに出かける……。

 「アマルフィターノの部」に登場するのは、ピノチェトのクーデターでアルゼンチンに亡命した、アマルフィターノというチリ人。彼もアルチンボルディの研究者だ。バルセロナの大学で教鞭をとっていたが契約が切れて、サンタテレサの大学に移る。そして同じくサンタテレサにやってきた前述のヨーロッパ人研究者たちに出会う。ヨーロッパの研究者たちにとって、アマルフィターノは非常にネガティブで、人生を諦めたような男に映る。

 「フェイトの部」に登場するのは、ニューヨークのハーレムに拠点をおく黒人系雑誌の編集者、フェイト。黒人ボクサーの試合を取材するようスポーツ部から依頼され、サンタテレサを訪れる。ホテルで彼は、チューチョ・フローレンスという記者と知り合いになった。フェイトは十代後半の女性・ロサとも知り合うが、彼女はアマルフィターノの娘で、チューチョによってコカイン漬けにされようとしている。娘が殺人事件の被害者になることを怖れる父の頼みで、フェイトはロサを北へ脱出させる。

 「犯罪の部」にはノンフィクション・ノベルの手つきも感じられる。一九九三年から起こっている女性殺人事件を事細かに追いかけ、警察と富裕層と犯罪者の癒着などが描かれる。この部で興味深いのは、メキシコのカトリック文化における「神聖嫌悪」という病気についてのエピソード。これが教会や偶像の破壊などを引き起こし、フアレスの女性殺人事件にも複雑に絡んでいく。

 「アルチンボルディの部」では、二十世紀のはじめに遡り、数奇な人生を辿るハンス・ライターなる人物を追う。彼はプロイセンの片田舎で幼少時を過ごし、職を転々とする。ルーゴ・ハルダーというボヘミンアンな青年に感化を受けたり、戦争に巻き込まれたりする。そして一九九五年。ハンスの妹・ロッテのもとにメキシコの弁護士から電話がかかる。彼女の息子・クラウスが、サンタテレサの女性殺人事件の容疑者として刑務所に収監されているというのだ。ロッテは何度かメキシコを訪れるうち、偶然、アルチンボルディなる作家の本と出会い、アルチンボルディとは兄ハンスだと確信する。ロッテは兄と再会を果たし、息子の一件を彼に託す。そしてアルチンボルディ=ハンスが、ようやくサンタテレサを訪れることになる……。

 なぜボラーニョはこの女性殺人事件に焦点を当てようとしたのだろうか?

 ジャーナリストの伊高浩昭氏によれば、フアレスの女性殺人事件には複数の要因があるという(二〇〇六年一月の立教大でのシンポジウム)。その要因とは、

(1)一九九四年に発効した北米自由貿易協定により、米墨国境のすぐ南の土地に保税加工工場(マキラドーラ)ができ、中米諸国から貧しい移民が仕事を求めてやってきて、犯罪のターゲットとなりやすい状況に置かれた。

(2)フアレスにはメキシコ最大のドラッグマフィアが存在する。麻薬密売人や中毒者による女性への暴行の可能性。

(3)メキシコ文化に内在する女性蔑視、女性虐待の傾向。

加えて言えば、メキシコ警察の腐敗や、大物政治家や富裕層の存在も事件に関係しているという説もある。

 二〇〇四年十二月号の本誌でも、斉藤修三氏がこの事件に触れている(「ボーダーに消えた少女」)。斉藤氏は、とりわけ(1)の要素に強者の論理を見て、低賃金で雇われる貧者/弱者/女性が犠牲になっていると指摘。「どんなにグローバルな問題でも、ローカルな現象として出てくる」と、地元活動家の言葉を引用する。

 この言葉は、ボラーニョが『2666』を書いた動機を連想させる。チリで生まれ、メキシコへ亡命し、バルセロナをはじめヨーロッパ各地を放浪したボラーニョ。彼はきっと知っていたのだろう。メキシコの作家たちが書こうとしなかったこのメキシコ固有の社会問題が、どこかで世界でつながっていることを。第一世界と呼ばれる先進諸国の富を生み出す「現代の奴隷制」の舞台である、請負工場やゴミ集積場で起こっている女性殺人事件こそ、小さな周縁が世界とつながっていることを証明するものだということを。

『すばる』2013年2月号