越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

The Two Ichi

2017年10月05日 | キューバ紀行

The Two "Ichi"
Yoshiaki Koshikawa


   In the evening, walking along the downtown Havana, I saw a lot of     boys are playing baseball on a street full of holes.


   I checked the UN population estimate (January 2010), but the          percentage of young people (under 15 years old) to Cuba's total            population (11.2 million) is 17%.

   Since Japan is 13%, it seems that there are not many                      Cuban kids in particular.


   Downtown Havana is a densely populated area with many                 kids, but there are also many adults and elderly people.


   I was surprised at the sight that the young kids half naked                   playing the baseball, are using the cap of plastic bottle and the stick.


  When I think about it, in Japan as well, after the war, I was                doing so-called "triangular baseball" without a second base                 in narrow lanes and shrine precincts.


  I asked the boys to borrow me the stick and let me stand in the box. Before the pitcher threw it, I tried to pose a bit.

  I turned the stick straight towards the pitcher and touched the           right arm with the palm of the left hand.
  A boy shouted to me, "Ichiro!"
  I nodded at the the boy, as if to say “Leave it to me, I will                 bang it off to the Havana Bay.”
 

  The World Baseball Classic (WBC) is to be held once every four years, and the Cuban state-owned television will broadcast not only the game of home country, but also many other games of the foreign countries including Japan.


  So, the Cubans know not only Ichiro Suzuki but Matsuzaka,              Darvish, Iwakuma and many other Japanese professionals.

  At one time, a Cuban friend pointed out to me that one of                my relatives had appeared in the WBC.
  At first, I thought "Who is it?"  But I immediately realized that              it was SOFTBANK Hawks’ "Uchikawa." 

  Writing our names in kanji is quite different, but the sounds               of Uchikawa and my name (Koshikawa) resemble each other.               

  For the Cubans pronounce  “shi” of Koshikawa  as "chi" and                   call me "Kochikawa."
 

 The Cubans are familiar not only with baseball players, but also            with other Japanese people.


 Regardless of the field, who is the most well-known Japanese                in Cuba?  

 It is Shintaro Katsu as he performed “Zatoh Ichi (Ichi the Blind          Maseur)” in the film.

Professor Mario Piedra of the University of Havana                                

 explained that in 13 years since 1967,  13 "Zatoh Ichi"                   

 series were screened in a big hit.                 

 People over the age of 60 were always watching as they were young. 

 The man in charge of the promotion also recites that "the last             row of the crowd made in front of the movie theater could not               be seen."

  Well, the imposter Ichiro struck out awkwardly. The cap of the plastic bottle made an irregular move and he was not able to hit it at all.


  An old man sat on the entrance of the house along the street,            seeing the whole scene. When I tried to take a stick back to                 the boys,  the old man called to me "Ichi !" 


  I got a good excuse. I immediately closed my eyes on the spot.  With support of a stick like a blind man, I slowly staggered a couple of steps.

  * This is a translation of a part of my book.

 

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ロベルト・コッシーのキューバ紀行(16)年末は、アフロの儀式の連続

2015年10月30日 | キューバ紀行

(写真)ボベダ・エスピルアル(聖水のコップ)

年末は、アフロの儀式の連続

  キューバのハバナに来てまだ2週間だが、年末は儀式がそこかしこで行なわれている。

 儀式といっても、キリスト教みたいにどこか決まった教会や礼拝堂でやるわけではない。民家の中でプライベートにおこなうので、つてがないと入れない。

 私が泊まっているのは、ニューヨーク・シティのロア・イースト・サイドみたいに、道路はごみだらけで人でごった返すハバナの下町。

 私のために「オルーラの手」という入門式をおこなってくれた司祭(ババラォ)は、二十歳ちかく年下だが、私の「パドリーノ(代理父)」である。

 そのパドリーノのパートナー(妻というと語弊がある。正式な結婚をしていないからだ)が民宿を経営して、そこが私の定宿になっている。

 だから、まるで私塾に寝泊まりしているようなもので、分からないところがあれば、すぐに師匠に訊くことができる。家で儀式があるときは身近で見ることができる。

 夜遅くハバナに到着した日に予約もなしに訪ねていき、泊めてもらった。お土産アディダスのスニーカーを渡して談笑していると、師匠が言った。

 「あさって、入門式がある。三日目のイファ占いだけど」

 ということは、きょう動物の生贄の儀式をおこなっていたわけだ。何を屠ったのか訊くと−−−−

 「雄鶏を8羽」という返事だった。

 12月4日(土)が聖女バルバラの祝日であることもあり、その週末には行事が相ついだ。

 カトリック教会の聖女バルバラはアフリカの小さな神様(オリチャ)の一人で、雷・火・太鼓などを司る「チャンゴ」と習合している。守護霊が「チャンゴ」である師匠の腹違いの妹の家で、夜遅くまでチャンゴに捧げるフィエスタがあった。

 そこは対岸の街レグラやカサブランカへ向かうフェリの渡しがあるハバナ湾のちかくにある集合住宅。それは、黒木和夫監督の映画『キューバの恋人』(1969年)の中で、若いハンサムボーイの津川雅彦がハバナの街で引っかけた(と思った)女性を訪ねていくアパートによく似ていた。四階にある部屋の入口に立っていると、満艦飾の洗濯物が干してある中央の吹き抜けの部分を、テレビの音や、誰かが人を呼ぶ声などにまじって、どこか下のほうの部屋で行なわれている太鼓(タンボール)の儀式の音や歌声が、まるで火山の噴火のように勢いよく下から突きあげてくる。

 実は、夕方、その近所でチャンゴに捧げる太鼓儀式があった。くだんの家に行ってみると、演奏はバタと呼ばれるサンテリアの太鼓ではなく、箱型の打楽器カホンと、ギラと鉦だった。キューバ東部のやり方だという。

 玄関から入った突きあたりの壁に、死者の霊に捧げる聖水「ボベダ・エスピツアル」が飾られていた。小さなテーブルの奥の方に、赤い服をまとった黒人人形が鎮座しており、葉巻が添えられている。面白いのは、宗教的な混淆をしめすかのように、中央の聖水の入ったコップの中には、磔のイエスの十字架が入っている。その他のコップにはバラの花が入っていた。中央の大きな花瓶には、薄いピンク色のグラジオラス、花弁の小さなひまわり、香りのよい白い花アスセナ、緑色のアルバカ、紅色のバラなど、色とりどりの花が飾られていた。壁に飾られたアレカと呼ばれる扇状の葉や、セドルの小枝と葉が鮮やかな緑の森を演出していた。彼らは都会の狭苦しい部屋を広大な緑の野原や森に変える創意工夫の名人である。

 翌日の夕方には「死者の霊に捧げるカホン」という憑依儀式があり、カホンや鉦の音、ラム酒や葉巻に誘発されて、神がかりになる人が続出した。

 儀式の最後のほうで、儀式をとりしきっていた司祭(サンテロ)自身が死者の霊に取り憑かれて、いきなり私を中央に引きずりだして、皆が取り囲むなかで、私のめがねを乱暴にはずし、死者の霊の口伝をほどこした。

 死者の霊が私に対して、現在の仕事のほかにもう一つ仕事をやっているのか、と訊く。私が小さい声でやっていると応じると、現在か将来においてそうとう金が儲かるという、うれしいお告げだった。そのためにも、亡くなった祖父のために、花やろうそくや線香を捧げる必要がある、と司祭は付け加えた。

 翌日には、私が泊まっている民宿の居間で、ある女性の依頼で、師匠が女性の娘の守護霊であるオチュン(愛や出産や黄金を司る神様)に動物の血を捧げる儀式をおこなった。女性の娘はスペインに住んでいるので、母親が代わりに依頼にきたのだ。師匠の若い息子も司祭として参加して、彼らは部屋の一角にゴザを敷き、イファの占いをおこなってから、雄鶏3羽と雌鳥1羽を生贄にした。それらの血をオチュン(黄色い容器)に捧げ、その後、その上に大皿を乗せ、カカリヤと呼ばれる白い石灰粉をまぶしたパンを添え、ろうそくを灯して1週間ほどオチュンに祈りを捧げるのである。

 その日の夕方には、小1時間ほどバスに揺られてマリアナオ地区に行き、やはり守護霊がオチュンである若い女性のために、ごみで汚れた川のそばで雌鳥の血をオチュンに捧げる儀式をおこなった。生贄にした雌鳥はそのままどぶ川に流した。

 これがほぼ一週間の出来事である。

 はたして、あの「死者の霊に捧げるカホン」の夜に、司祭が死者の霊に代わって私に語ってくれたことは、真実なのだろうか。

 キューバにはこういう諺がある。「真実は、嘘つきが語ったものでも、なんとも信じがたいものだ」と。

 真実とか嘘とか、そうした二分法の思考にとらわれると、ハムレットのように解決策のない泥沼におちこむ。私は真実であれ嘘であれ、ともかく司祭の有り難い言葉を信じることにした。

 

(「死者のいる風景——−ハバナの12月」『ミて 詩と批評』第117号、2011月冬)

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ロベルト・コッシーのキューバ紀行(15)おしゃべりと議論

2015年10月30日 | キューバ紀行

(写真)中央公園の「ホットコーナー」。野球狂たちの議論風景

おしゃべりと議論

  キューバ人は、おしゃべりが大好きだ。

 おしゃべりというより、あるテーマについての議論と言ったほうがいいかもしれない。

 別にあらたまった会議の席ではない。ごくありふれた日常生活のひとときに、興味や信条を共にする者たちが、三、四人以上集まると、この手の議論が始まる。

 内容は政治やスポーツ、芸術、宗教、コンピュータのこと、なんでもござれだが、あちこち別の分野に飛んだりしない。ひとつのテーマについて、休みなく二、三時間やりつづける。

 自分の主張を、声の大きさやセンチメンタルな泣き言ではなく、深い蘊蓄(うんちく)を傾けるながら訴える。

 日本では初等教育から高等教育まで、「ディベート(討論)」という科目がないため、こうした論理的な思考の訓練はおこなわれない。

 そのため、一般的に言って、日本人は情緒に訴えることは得意でも、議論は苦手だ。しかも、日本文化の中には理路整然としたモノの言い方を嫌う風潮がある。論理的な思考に付いていけない者は、それを「屁理屈」や、世間知らずの「学者の物言い」として退けがちだ。往々にしてそうした非理知主義は国粋主義的な思想に結びつきやすい。愛国主義に理由や理屈など、いらないからだ。

 それに対して、キューバ人は理屈が好きだ。たとえば、一九五九年にキューバ革命に成し遂げた革命軍の指導者、フィデル・カストロは、ハバナの革命広場に集まった群衆の前で、数時間に及ぶ演説をおこなったという。

 十九世紀末のスペインからの独立の際に、アメリカに介入を許し、二十世紀はアメリカの属国としての位置を余儀なくされた。アメリカの大企業が進出し、経済的には潤ったが、貧富の差、人種差別、女性差別、教育の不均衡など、癒しがたい社会問題を抱えていた。それを正すための革命だった。そうカストロは革命の意義と正当性を訴えた。

 政治家の演説として、その長さは有名で、党大会で10時間にも及ぶ演説をおこなったり、国連でもダントツの長演説をおこなっている。

 キューバの集会で原稿を見ないで演説するカストロも偉いが、ずっと立ったままで聴いている市民はもっと偉い。よくも飽きずに聴いていられるものだ。

 カストロが議論を得意とするのは、驚くに値いしない。大学時代に法律を学び、弁護士をめざしたカストロは、一九五三年にモンカダ砦(サンティアゴの国軍基地)襲撃に失敗して逮捕されたとき、法廷で、弁護士として自分自身の弁護をおこない、無罪を勝ち取っている。論理立てて議論を進めるだけでなく、必ず歴史的事実と統計的数字を持ち出す、その頭脳の明晰さと記憶力のよさには舌を巻く。

 だが、それはひとりカストロだけの能力ではなさそうだ。

 ハバナの中央公園に行けば、「エスキーナ・カリエンテ(ホットコーナー)」と呼ばれる一角で、プロ野球に関して何時間も口角泡を飛ばして議論している人たちがいる。さながら野球百科事典のような人たちが、持っている知識を最大限に活用して、互いに反対意見の人を論破しようとする。

 だから、キューバ人と議論するには、よほどの勇気と準備がいる。

 キューバとの国交を回復したアメリカの外交官たちは、そのことを思い知るだろう。

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ロベルト・コッシーのキューバ紀行(13)どうなるキューバの二重経済(その2収入編)

2015年10月23日 | キューバ紀行

(写真)自転車タクシー、ハバナ旧市街

どうなる二重経済(その2 収入編)

キューバ人の友人たちは、配給物資だけでは足りないと言う。だから、人民ペソや兌換ペソを使って不足している品物を買い足して、いろいろとやり繰りをしている。  

だが、月給だけではきついはずだ。キューバ市民の平均的な月給は、500人民ペソ(2,580円)ぐらいだという。先の一覧表に挙げた商品を手に入れるには、どう見ても圧倒的にお金が足らない。きっと何かほかに収入源があるに違いない。  

2013年の冬あたりから個人ビジネスが目立ってきた。表立って目にするのはパラドールと呼ばれる食堂や立ち食いのカフェテリア、音楽や映画をコピーしたCDやDVDの店、床屋、黒人宗教グッズの店だった。  

2015年の夏は、さらに業種が増えていた。ハバナの街は、役所に登録して正式にやるにせよ、もぐりでやるにせよ、これまで抑えつけられてきた商売への意欲に満ちている。一気にビジネスチャンス到来というわけだ。  

商売はスペイン語で「ネゴシオ」と言うが、誰もが「ネゴシオ」の方法を模索している。もちろん、女性も例外ではない。むしろ、女性のほうが熱心かもしれない。  女性の商売と言えば、伝統的に外国人観光客相手の民宿や、カフェテリア、小さい食堂の経営などだが、いまではサンダルや靴、女性服やアクセサリーの仕入れと販売、マニキュア師やペディキュア師、美容師、美容植毛師など、それぞれの能力や資金に応じてやるようになっている。  

実入りも税金も高い民宿経営と違って、これらの女性ビジネスは、「もぐり」のほうが多いかもしれない。資金も少なく、収入も一件につき、2~5兌換ペソ(258~645円)と比較的少額だから。面白いのは、長髪の女性が自分の髪を切ってもらい、それを美容師に売る手もあるということだ。美容師が美容植毛のために使っている外国産の髪は化学繊維なので、本物が好まれるという。  

もちろん、元手のない女性にとって古典的な商売と言えば、売春だ。ヒネテラと呼ばれる売春婦は、プロも素人もいるが、観光客相手に20兌換ペソ(2,580円)が相場だという。こちらは外国人向けのホテルの入口にたむろして声をかけられるのを待つか、ナイトクラブで挑発したり誘惑したりする。  

だいぶ昔のことだが、イギリス作家のグレアム・グリーンは1957年から1966年まで6度もキューバに滞在したという。なぜそれほどキューバに引きつけられたのか? という質問に、グリーンはこう率直に答えている。

「淫売屋だよ。わたしは淫売屋に行くのが好きだった。好きなだけ麻薬を、好きなだけ何でも手に入れられるという考えが好きだったのだ」(1)  

一方、1979年にアメリカに亡命したキューバ作家は、革命後のハバナを次のように称する。

「かつて観光客や娼婦たちはハバナのことをカリブのパリと呼んでいたのに、もはやそうは見えない。今はむしろ、テグシガルパやサンサルバドルやマナグアといった中米の国の首都、生気のない低開発の都市のひとつのようだ」(2)  

(写真)ハバナ旧市街の花屋

男性の場合、伝統的に50年代のアメリカ車を所有してタクシーの運転手や、自動車やパンクの修理、盗んだ商品(ラム酒や葉巻)の転売、街を歩いての野菜や果物やパンなどの「物売り」などが多かったが、いまは、Wi-Fiカードの転売、コピーした海賊版DVDやCDの販売、白タクなど、こちらも能力と資金に応じてやっている。Wi-Fiカードの転売の場合、1枚につき1兌換ペソ(129円)上乗せして客に売る。または、客を大勢集めて、ひとりにつき1兌換ペソずつ徴収して、同じカードのIDとパスワードで一斉に有効時間いっぱいネットサーフィンさせる新手の商売も現われた。もちろん、これは違法であるが、人間はいろいろなことを思いつくものだ。  

ハバナでも、サンティアゴでも、物売りが住宅街にやってくる。スーパーやコンビニが発達したおかげで、日本ではずっと昔に姿を消してしまった風物であるが、私の子供の頃は、納豆売りや豆腐売りなどが街をにぎわしていた。男が大きなバケツを提げて、「アボガドに、タマネギに、マンゴー!」と、よく通る声で歌うように叫びながら、歩いていく。ピー、ピー、と警官の呼笛みたいなけたたましい音を立てるのは、パン売りだ。調子はずれの童謡のメロディを途切れなく鳴らしているのは、アリスクリームキャンディ売り。一軒家とかマンションの一階に住んでいる人はいいが、2階以上に住んでいる人はわざわざそのためだけに下に降りていくのはつらい。ほとんどの建物にはエレベータなどついていないから。そこで、物売りをいったん呼び止めてから、ベランダから紐に吊るしたカゴとかビニール袋を降ろして買う。当然ながら、物売りの取り分を数ペソ上乗せしているため、品物は店で買うよりちょっとだけ高い。それでも、わざわざ遠くまで買に行く手間がはぶけるから、結構ニーズはある。いずれにせよ、物価が安いから、こうした商売が成り立つのだろう。

註 1 グレアム・グリーン、マリ=フランソワーズ・アラン(三輪秀彦訳)『グレアム・グリーン語る』(早川書房、1983年)、90ページ。

2 エドムンド・デスノエス(野谷文昭訳)『低開発の記憶』(白水社、2011)、15ページ。

(参考) <個人商売のケース>

女性の稼ぎ方 ビニール袋売り(1個) 

1ペソ(利益0.5ペソ 2.5円)

ピーナッツ売り(1本) 1ペソ(利益0.5ペソ 2.5円)

家の掃除/洗濯(1日の手取り) 25ペソ(129円)

民宿経営 1人1泊20~35CUC(2,580~4,515円)

服・サンダル・靴の転売(1個の利益) 3~5CUC(387~645円)

マニキュア/ペディキュア 15~25ペソ(75~129円)

マニキュア/ペディキュア(マッサージ付き) 25~50ペソ(129~258円)

人工美爪の接着 125~375ペソ(645~1,935円) 

髪染め(スタイリストの名声による) 160~250ペソ(800~1,250円)

眉墨で眉をいれる  20CUC (2,580円)

アイライナー/リップライナー(1列) 5CUC(645円)

植毛(人工の髪か人間の髪) 20~100CUC(2,580~12,900円)

売春 20CUC(2,780円)

 

男性の稼ぎ方 

物売り(1個の利益) 2~5ペソ(10~25円)

床屋(客一人につき/簡単な髪型) 15~25ペソ(75~125円)

床屋(客一人につき/手のこんだ髪型) 3~5CUC(387~645円)

乗り合いタクシーの運転手(客ひとりにつき)10~20ペソ(50~100円)

白タクの運転手(客一回につき) 5~20CUC(645~1,280円)

海賊版CD・DVDの販売  25ペソ(130円) 

Wi-Fiカード転売(1枚の利益) 1CUC(129円)

小エビ1kg(闇市)  10CUC(1,290円)

大きい真鯛(闇市)7CUC(903円)

*もちろん、値段は地域や季節、技術の有無などに大きく異なる。これはほんの一例にすぎない。

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ロベルト・コッシーのキューバ紀行(12)どうなるキューバの二重経済(その1消費編)

2015年10月22日 | キューバ紀行
(写真:売り歩いていた漁師から買った真鯛二匹、約800円と900円)
 
どうなるキューバの二重経済(その1消費編)
 
キューバ国民は、二つの貨幣を使いこなしている。  

基本的には、キューバ・人民ペソで買い物をする。1ペソ(独立時の英雄ホセ・マルティの顔が刻まれた紙幣と硬貨)や3ペソ(チェ・ゲバラの顔が刻まれた硬貨)のほか、10ペソ、20ペソ、50ペソ、100ペソの紙幣があり、公営の商店や公営バスのほか、民営の野菜市場、民営の乗り合いタクシーなどで使う。  

そうした人民ペソの店のほかに、1993年から2004年までは「ドルショップ」と呼ばれる、主に外国人観光客向けの国営店があり、そこではアメリカドルを使っていた。いま、その店ではCUC(セウセ)と呼ばれる兌換(だかん)ペソで取引がおこなわれている。

いわば、二重経済制の世界だ。市民は国営の換金所で、キューパ・人民ペソと兌換ペソを交換し、巧みに二つの通貨を使いこなす。  

外国からの観光客は、換金所で自国の通貨(たとえば、円)を兌換ペソに換金する。世界の為替レート(対ドル)と連動していて、円高だと兌換ペソの取り分が多いが、円安になると少なくなる。観光客は、基本的に兌換ペソの店で買い物をするので、いわゆる「第三世界」での搾取をそれほど楽しむことができない仕組みになっている。(1)  

それはともかく、キューバ市民は配給制で基本的な食料を手に入れる。それで足りない分(パン、卵、肉、チーズ、石鹸、衣料品など)を人民ペソの店から買い、さらに贅沢品(シャンプー、化粧品、電化製品、ブランドの靴や服)を公営の兌換ペソの店で手に入れる。  

キューバ市民の平均的な月給は、500人民ペソ(2,580円)ぐらいである。人民ペソの店での買い物は、日本人からすれば、ひどく安く感じられる一方、兌換ペソの店の買い物は日本の店と変わらない印象だが、キューバ人からすれば、どうだろうか。  

たとえば、卵は1個1.1人民ペソ(5.5円)である。1日1個食べると計算すると、1カ月で33~34人民ペソ(165~170円)になる。その金額だけを日本人が見ると、とてつもなく「安い」と感じるかもしれないが、収入に占めるその割合を計算してみると、それは平均月給の6.6パーセントぐらいに当たる。いま月収が34万円の日本人がいるとして、その月収の6.6パーセントは、22,440円である。1カ月の卵代にそれだけかかったら、発狂するのではないだろうか。(2)  

兌換ペソの店で売っている商品は、おそろしく高く映る。挽いたコーヒー豆を真空パックの袋詰めにしてある「カフェ・クビータ」は、230gで3.20兌換ペソ(413円)もする。スターバックスのコーヒー豆よりは安いが、これだけでキューバ人の月収の16パーセントが消えてしまう計算だ。  

まして、闇市で小エビを買うとなると、1kgで10兌換ペソ(1,290円)である。それは月収の半分に当たる。  

とはいえ、キューバ人も、公営の兌換ペソの店で、けっこう買い物をしている。見ていると、バラ売りのキャラメル数個とか、料理用のパウダーとかトマトピューレとか国産ビールとか「プランチャオ」と呼ばれるラム酒の小箱とか、せいぜい1兌換ペソ以内の買い物が多いのだが・・・。

ペソの店と兌換ペソの店の値段比較表(2015年夏)  

<キューバ・人民ペソの店>

公営教育(小学校~大学)・・・無料

 公営病院・・・無料   

公営墓地での埋葬・・・無料   

公営葬儀屋での火葬代・・・380ペソ(1,960円)   

米450g(配給)・・・0.9ペソ(4.5円)   

白砂糖450g(配給)・・・0.15ペソ(0.75円)

電気代(1カ月)・・・5~7ペソ(25~35円)

丸パン・・・1ペソ(5円)

卵10個・・・11ペソ(55円)   

映画館(入場料)・・・2ペソ(10円)

プロ野球(入場料)・・・1ペソ(5円)

公営バス代・・・0.5~1ペソ(2.5~5円)

公営バス代(冷房付き)・・・5ペソ(25円)  

国産タバコ(「ポルラール」)・・・7ペソ(35円)

国産缶ビール(「カシケ」)・・・20ペソ(100円)

ラム酒700ml(「ロンダ」)・・・60ペソ(300円)

百円ライター・・・10ペソ(50円)

民営の野菜市場のアボガド(大)・・・7ペソ(35円)

料理用の青いバナナ(一房)・・・10ペソ(50円)

キャベツ、大1個・・・12ペソ(62円)

タマネギ450g・・・15ペソ(75円)

豚肉(背肉)450kg・・・35ペソ(175円)

豚肉(赤味)450kg・・・45ペソ(225円)

民営のピザショップ(チーズとハム入り)・・・20ペソ(100円)

民営食堂、炊き込みご飯とチキン1皿・・・35ペソ(175円)

民営カフェ、エスプレッソ・・・1ペソ(5円)  

民営カフェ、マンゴの生ジュース・・・5ペソ(25円)

民営乗り合いタクシー・・・10~20ペソ(50~100円)

公営の書店、芥川龍之介の短編集(スペイン語訳)・・・8ペソ(40円)

源氏物語(スペイン語の抄訳)・・・8ペソ(40円)  

チェ・ゲバラの演説集(460ページ)・・・20ペソ(100円)

 

<兌換ペソの店(闇市も含む)>  

公営店のヨーグルト4個パック・・・1.8~2.4CUC(232~310円)  

冷凍チキン(胸肉1kg)・・・3.5CUC(451円)  

ゴーダチーズ(1kg)・・・8.1CUC(1,044円)  

スパゲッティ(国産400g)・・・0.85CUC(110円)

コーヒー豆(「クビータ」230g)・・・3.20CUC(413円)

国産ビール(「クリスタル」)・・・1CUC(129円)  

外国産ビール(「ハイネケン」)・・・1.90(245円)

ラム酒700ml(「ハバナクラブ」)・・・3.80CUC(490円)  

国産シャンプー500ml・・・1.95CUC(251円)

外国産シャンプー350ml・・・1.75CUC(226円)  

外国製スニーカー(「ナイキ」)・・・100CUC(12,900円)  

外国製電動バリカン(Dayton)・・・31.50CUC(4,064円)  

国営タクシー(市内)・・・5~10CUC(645~1,290円)  

国営タクシー(ハバナ空港から市内へ)・・・20~25CUC(2,580~3,225円)  

闇市の小エビ1kg・・・10CUC(1,290円)  

漁師から、釣ったばかりの真鯛(大1匹)・・・7CUC(903円)  

漁師から、釣ったばかりの魚(中10匹)・・・5CUC(654円)

 

註1 2015年8月14日の為替レート、129円→1CUC(兌換ペソ)、1CUC→24人民ペソで計算

   2 「国税局 平成23年分民間給与実態統計調査結果について」によると、日本人(男女)の平均給与は409万円。それを12カ月で単純に割って月収に直すと、34万円となる。      

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ロベルト・コッシーのキューバ紀行ーー2015年(11)急速に変化する通信事情

2015年10月14日 | キューバ紀行

(写真:スマホを使って、路上のWi-Fiスポットでネットをする若者たち、ハバナのベダド地区)

急速に変化する通信事情

越川芳明 

 いま、確実に変化していることがある。ネット事情である。

 キューバでは、少し前まで限られたエリートしかインターネットできなかった。しかも、電話回線を使っていたので、すごくのろかった。

 ADLSや光ファイバーが導入されるまでは、日本だって電話回線を使ってネットに入っていたのだが、その時代に戻った感じである。

 と同時に、ここ数年のあいだに、携帯電話が普及していた。アメリカやヨーロッパで使われなくなった旧世代の携帯やスマホを手に入れた若者が、路上でメールをしたりする姿は、ハバナでは当たり前になっていた。だが、それはあくまで携帯電話の回線を使ってのものだった。

 この夏の7月から、キューバ政府も思い切った手を打った。ハバナの各地域の公園でWi-Fi(無線LAN)を利用できるようにしたのだ。全国的には、そうした場所は35カ所あるらしい。人々は「エテクサ」(キューバ電信電話公社)で、1時間2CUCのカードを買う。カードの裏には、それぞれ8桁のIDとパスワードがしるしてある。30日間有効である。

 旧市街の「中央公園」から歩いて五分ほどにある、セントロ地区のサン・ミゲール公園には木が生い茂り、週末には衣類を扱う露店が出て大勢の人でにぎわう。いまは、平日の昼間だが、人々が木陰の下のベンチに腰をおろし、スマホでネットサーフィンに興じている。木や壁にもたれてタブレットをいじっている人もいる。ノートパソコンを膝の上に乗せている人もいるが、それは少数派である。

 キューバでは、国家による情報統制が行なわれている。新聞も政府公認の新聞しかない。新聞は、建前というか政府に都合のよいことしか言わない。だから、市民には本当のところは分からない。だが、Wi-Fiの導入によって、市民はいろいろな情報も手に入れることができるようになっている。

 いま、公園でWi-Fiをしているほとんどの人が、遠距離にいる知り合いや家族とチャットや、「スカイプ」に似た「モノMONO」と呼ばれるアプリを使って無料のテレビ電話をやっているようだ。その気になれば、世界の政治、ファッション、政治経済、スポーツなど、知りたい情報はいくらでも取ることもできる。

 だが、これは、キューバ政府が怖れることではないだろう。というのも、テレビ放送では、海外のニュースばかりを流す専門チャンネルがあり、国民が世界の動向に疎くなるということはない。

 むしろ、足りないのは、国内の動向に対する報道のほうだ。統制されているのはこちらのほうの情報だ。

 これまで政府は新聞やラジオ、テレビという古典的なメディアを使って、国民を啓蒙してきた。いわば、上から下への垂直的な情報の流れである。しかし、携帯やタブレット、パソコンを使った新しいメディアは、その流れを水平にする。それらのツールを使えば、誰でも発信することができるからだ。

 これからは、それまで受け手でしかなかった市民が身近な情報や自分の意見を発信し、双方向的でやり取りをし始めるだろう。

 キューバは、いうまでもなく共産党独裁の政治体制を取っている。中国で市民のデモがツイッターから始まったように、不満分子のツイッターが反政府デモを誘発することもある。キューバ政府が怖れるのは、今年1月に釈放したばかりの少数派の「政治犯」たちが、アメリカの支援を受けておこなう煽動活動ではないだろうか。

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ロベルト・コッシーのキューバ紀行ーー2015年(10)キューバとアメリカ(その4)

2015年10月12日 | キューバ紀行

(写真:デンバーに移住するキューバ人の一家、米国大使館の近くで)

アメリカとキューバ(その4)  

越川芳明

アメリカ大使館の近くにある公園には、初めて入国査証(ビザ)の申請のために訪れた人も、すでに大使館員との面接を済ませ、申請が受理されてビザを取りにきた人もいた。2度目に訪れたとき、いろいろと話が聞けた。  

25歳だというが、とても落ち着いた感じの白人女性は1週間前に申請を済ませて、ビザを取りにきていた。4年前から夫(30歳)がフロリダのタンパに住んでいて、ようやく一緒になれるのだという。  

恰幅のいい中年の白人女性(45歳)は、初めて申請に来た。この10月で50歳になる夫が1年前にアメリカに亡命した。彼女も夫の住むマイアミに移住したいのだという。  

50歳ぐらいの混血女性は、ハバナ空港に近いボジェロ地区に住んでいる。初めて申請にきた。親族らしい人たちが彼女を囲んで、話を聴いていた。女性によれば、彼女の夫、娘夫婦、娘夫婦の子どもたちだという。彼女の弟がフロリダに暮らしていて、家族全員で移住したいのだという。みなでフロリダのディズニーワールドに行くみたいに、期待に胸をふくらましている感じだった。  

30代の白人女性は、夫の代わりに短期滞在用のビザを取りにきた。夫がメソジスト系(プロテスタント)の教会の仕事で、オハヨオ州に行くのだという。あなたは同行しないのですか?と訊くと、私は行かない、とあっさりと答えた。こうした手続きには慣れた感じだった。  

この小さな公園は、まるでいろいろな人々の思惑や不安や希望が交錯するジャングルだ。とはいえ、ここにいる人たちには、ちょっと前までキューバが閉塞状況にあったとき、ボートや筏でメキシコ湾流を渡ろうとした人々の切羽詰まったようなところはない。少なくとも飛行機でアメリカへ旅するだけの経済的な余裕がある人たちだった。  

ビザを申請するにせよ、受け取るにせ、みな午後1時に来るように指示されていた。ようやく1時半をすぎた頃に、大使館のゲートから赤いビブスをつけた白人女性が公園のほうにゆっくりと歩いてくる。いま大使館で働いているキューバ人は3000名と言われるが、そのうちの1人だ。女性は、ビザを申請にきた人のグループと取りにきた人のグループに分かれ、2列に並ぶように命じる。初めて申請にきた人は4、5名。それに対して、ビザの受け取りにきた人は20名以上いた。

赤いビブスの女性に率いられ、彼らはまるで囚人みたいに一列になってぞろぞろと大使館のゲートのほうへ歩いていく。真上から太陽が彼らを容赦なく照らす。  

これは、親しい友人から聞いた話だが、アメリカに旅するのは比較的容易になっているようだ。一度、滞在許可が得られれば、何度も行き来できるようだ。ちなみに、その友人の知り合いは、3カ月ほどテキサス州のヒューストンに滞在して、そこで働いてカネを稼ぎ、いったん帰国して1カ月ほどキューバにいて、またアメリカに出稼ぎにいく。手に職があるので、それほど過酷な労働条件にさらされないという。  

私は、それ以外に二つの出稼ぎのケースを思い出す。ハバナのサントスワレス地区に住み、タクシーの運転手をしているアーノルドは、いま53歳だ。数年前に弟が単身でフロリダに出稼ぎにいった。最初、マイアミに行ったが、その町でカストロ体制のキューバへの反感、経済難民への冷たい視線を感じて、さらに北の都市へいき、そこのタイヤ工場で働いた。休むことなく働いたが、暮らしはちっとも上向かなかった。  

アーノルドは、「上向く」という意味で「プログレソ」という単語を使った。英語で言えば「プログレス」。進歩、発展、向上という意味である。確かに、月給が約20ドル(約2500円)のキューバより、ずっと稼ぎはある。だが、衣食住にかかる費用も想像以上だった。休みの日もキューバにいるときみたいに、のんびりできなかった。おまけに、健康保険に入っていないので、病気はできない、怪我もできない。そうした緊張感で、まるで仕事やカネの奴隷になった気分だった。それで、3年ほどでそんな暮らしに見切りをつけて、貯めたカネを持ってキューバに帰国した。いまは兄のアーノルドがそのカネの一部で57年型のシボレーを買い、タクシー運転手をやって、弟の家族をふくめ、一家を支えている。贅沢はできないが、ほどほどの稼ぎはある。弟には孫もできて、いまは幸せだ。  

ハバナ湾の対岸の街グアナバコアに住むオダリスは、30代半ばの白人女性だ。母親の家に、夫と生まれたばかりの息子と同居している。数年前に、彼女はマイアミでひと稼ぎしようとキューバを離れた。もちろん、名目は親族への訪問である。マイアミではホテルのメイドをした。しかし、毎日、同じ肉体労働の繰り返しで、うんざりした。カネも思ったほど儲からなかった。それで3カ月の滞在期限が切れると、キューバに戻ってきた。アメリカに不法滞在するのは意味がないと思ったからだ。稼いだカネを元手に、ときどきメキシコやベネズエラに行って、安い女性服を仕入れてきて、それを転売している。もはやアメリカに出稼ぎに行く気はない(1)。  

大使館の向かい側で写真を撮っていると、ある家族がゲートの回転ドアから勢いよく出てきた。中年の両親と中学生ぐらいの息子が2人、白人の家族である。道路を渡ってきた彼らに、フェリシダデス(おめでとう)と声をかけると、両親は破顔一笑した。マイアミですか?と訊くと、デンバーだと言って、また笑う。  

冬は雪に覆われるロッキー山脈にある都市だ。標高は1600メートルもある。何でまたそんな寒いところへ? と失礼な質問をすると、夫の弟がいるので、そこへ家族で移住するのです、と嬉しそうに母親が答える。私が息子のひとりに、英語はできるの?と訊くと、全然できません、と笑う。これから勉強します。でも、スキーができるね、と二人の息子に言うと、彼らは微妙な顔をした。  

デンバーは人口63万人の大都市だからそんなことはあり得ないだろうが、将来、またこんな風に彼らに出会うことができたら、ぜひ話を聞いてみたいものだ、と思った。

註 1 ここでは、米国に「出稼ぎ」に行きキューバに戻ってきた人たちの話を収録しているので、アメリカ生活にあまりポジティヴな感想はあまりない。キューバから米国に「移民」した人の話は、牛田千鶴氏の論文(『アメリカのヒスパニック=ラティーノ社会を知るための55章』(明石書店)所収)や、四方田犬彦氏の『ニューヨークより不思議』(河出文庫)の第二部などに詳しい。  

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ロベルト・コッシーのキューバ紀行ーー2015年(9)キューバとアメリカ(その3)

2015年10月11日 | キューバ紀行

(写真:アメリカ大使館前に並ぶ人々 2015.9.1)

(3)キューバとアメリカ(その3) 

越川芳明

2015年7月20日、国交正常化交渉の結果、ハバナのアメリカ大使館が再開された。それまでスイス大使館に間借りするかたちの「利益代表部」だった。

だが、人々はそれまでも「アメリカ大使館」と呼んでいた。建物も場所も変わらない。ただ、大使がいないだけだった(1)。

海岸通りにあるアメリカ大使館に行ってみた。9月初旬の朝早くと、1週間後のお昼すぎに。いずれも35度を越す真夏日で、道を歩いているだけで、汗が吹き出てしまう。まるでサウナの中でフィットネスをしているような感じだ。

大使館から300メートルくらい離れたところに、うっそうとした大木に覆われた小さな公園があった。人々が木陰に群がっていたが、近くの別の役所への申請者もかなり混ざっていた。

数年前のこと。90年代初頭の経済不況を背景にしたフェルナンド・ペレス監督の名作『永遠のハバナ』(2003年)に想を得て、キューバで知り合った人々に「唐突な質問ですみませんが、あなたの夢は何ですか?」と、訊いてまわったことがある。

ほとんどの人が異口同音に、外国に行ってみたい、と答えたものだった。

 じゃ、どこへ? と訊くと、たいがいの人が、どこでもいいから、とにかくキューバを一度は出てみたい、と答えたものだった。

それほど閉塞感が強かったのである。

長引く経済停滞で、毎日のように、太陽は燦々と射しているのに、人々の心の上にはどんよりとした雲が覆っているかのようだった。 

もちろん、社会のエリート層をなす政治家、役人、医者、スポーツ選手、学者、芸術家などは例外である。海外からの招聘があれば、キューバを出ることは簡単だ。だが、私が質問したのは、そうした少数のエリート層ではなかった。

小さな公園のベンチに腰をおろす老女がいた。老女と一緒にいるのは、13歳の孫娘とその母親だった。老女の息子が、8年前に単身、アメリカに亡命した。いまはマイアミで別の女性と結婚しているという。こちらでも、妻は別の男と結婚している。

老女によれば、孫娘だけがアメリカに移住するのだという。少女は英語が話せない。いくら父親がいるとはいえ、海の向こうで待っているのは、他人の家庭である。こちらで実の母親と暮らしているほうがずっと安心なのではないか。この移住に関して、母親も娘も口数は多くない。老女がすべてを私に説明してくれた。少女はすでに申請を済ませ、ここ一週間毎朝ここに来て、入国査証(ビザ)が降りるのを待っているのだという。

経済不況による移住によって、こうして家族がばらばらになり、と同時に、別のパートナーやその連れ子と一緒に新しい家族を作り直すケースがいくつも見られる。キューバでは、とくに都市部で、血のつながりに寄らない家族が増えているようだ。

このことは、必ずしもデメリットばかりではない。日本では、昔からよく「血は水よりも濃い」と言われ、血のつながりの大切さが強調されるが、血は濃いほど、逆に働くこともある。遺産相続などで、きょうだいのあいだで骨肉の争いを繰りひろげられる例が多く見られる。また、血のつながりに甘えて、自分の子供をおもちゃにする親もいる。

たとえ血のつながりがなくても、新しい両親がそれぞれの連れ子たちをいたわり、連れ子同士が仲良くしさえすれば、家族として機能する。キューバは、そんな血のつながらない家族の実験場である。古い因習にとらわれないという意味で、キューバ革命はいまもつづいている。

註1 在キューバアメリカ大使の任命には、上院議会の承認が必要。過半数をしめる共和党の反対があれば、大使不在の大使館となる。

 (参考)

革命以後のキューバから米国への移民の流れ

第1波:1959年1月~1962年10月(4年間弱)

 富裕層・中間層の政治亡命。

 24万5千人。白人が98%

 ’61年4月亡命キューバ人による軍事侵攻(プラヤヒロンの戦い)

 

第2波:1965年~73年4月(7年半) 

 29万7千人。マタンサス州カマリオカ漁港の開放。

 ’66年11月:米国1年以上の滞在者に永住権(キューバ人調整法)

「フリーダム・フライト」バラデロからマイアミへ

 

第3波:1980年4月から5カ月

 カーター政権による受け入れ。12万5千人。

 4割が黒人。7割が男性で独身。米国に親類縁者なし。

 ハバナの西マリエル港からの出港を許可(マリエトス)。

 10万人がマイアミに。中に2万人の犯罪者や精神異常者も?

 

第4波:1990年~94年9月(約9カ月)

 特別期間(経済不況)

 筏やボートに乗った難民32万2千人。

 

*牛田千鶴「在米キューバ系移民社会の発展とバイリンガリズムーーフロリダ州マイアミ・デイド郡を事例として」南山大学ラテンアメリカ研究センター編『ラテンアメリカの諸相と展望』(行路社、2004年)pp.116-144を参考に作成。

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ロベルト・コッシーのキューバ紀行ーー2015年(8)キューバとアメリカ(その2)

2015年10月11日 | キューバ紀行

(写真:キューバの花、ベダド地区)

(4)キューバとアメリカ(その2)

越川芳明

1991年以降、米国からキューバへの渡航は、家族訪問を目的とするキューバ系アメリカ人だけに限られていたが、国交正常化の動きに合せて2015年から、渡航目的が学術、芸術、取材、人道支援、スポーツ、貿易など12の分野に拡大された。  

だが、渡航規制は、すでに2014年の夏に緩和されていた。おそらく試験的に。  

ハバナの閑静なベダド地区にあるマンションに映像作家ミゲル・コユーラ(1977年生まれ)を訪ねたときだった。彼はグッゲンハイム奨励金を得て、ニューヨークで暮らしながら、『セルヒオの手記————ユートピアからの亡命』(2010年)を完成させ、それはサンダンス国際映画祭でプレミア上映された。その後、数々の賞も受賞したが、奨励金が切れて帰国していた。  

彼のスタジオ=自室を訪れたのは、次作『コラソン・アスール(青い心)』の中に、彼自身が作った日本風アニメが出てきて、日本語による吹き替えを頼まれたのだ。2、3個の短いセリフだが、映画全体の説明をしてもらい、その問題のシーンを見せてもらい、スペイン語で書かれた紙を渡され、それを自分なりに日本語に訳して映像シーンに合わせる。日をあけて2日間訪れて、作業に付き合った。還暦を過ぎてからアニメの吹き替えをやるなどとは、夢にも思わなかった。しかも、自分の娘に殺される父親の役だから、もの好き以外のなにものでもない。  

2日目には、彼の家に頻繁に電話がかかってきて、作業は何度も中断を余儀なくされた。ミゲルによれば、研修の名目でキューバにやってくるアメリカ人だという。

『セルヒオの手記』は、自由を求めて米国に亡命したキューバ知識人を扱ったものだ(1)。主人公は、亡命先の米国でも自分の居場所を見いだせず、宙ぶらりんの状態のまま人生を無為に過ごす。キューバも米国も、どちらもユートピアになり得ないという意味で、両国の関係史を論じるには格好の「テクスト」かもしれない。ハバナでの映画鑑賞や監督との質疑応答などをリストアップして学術研修会の形を取り、それを渡航理由にするのだろう。ミゲルによれば、マイアミから船で毎週のようにやってくるのだという。  

これは2014年夏の話である。その年末に、海外からの観光客は、過去最高で300万人を超えた。『グローバル・トラベル・ニュース』によれば、国交正常化のニュースが出て以来、観光客はさらに急増しているという。キューバ統計局(ONEI)は、2015年の上半期の外国人旅行者がすでに170万人に達し、前年比で15.3%増である、と公表した。とりわけ、5月は24万人弱の外国人が訪れ、それは前年比で21%増である、と。夏には、さらなる増加が見込まれるので、年間でも前年を上まわるに違いない。  

いまのところ、得意先はカナダ、ドイツ、フランス、英国、イタリア、アルゼンチン、ベネズエラなどである。だが、これから米国が上位に食い込んでくるのは必至である。フロリダからの船便に加えて、ニューヨークから格安航空会社の「ジェットブルー・エアウェイズ」がチャーター便を飛ばしている。ロサンジェルスからもアメリカン・エアが2015年12月からチャーター便を週一便だが、飛ばすことを決めた。

 チェ・ゲバラが誰か、知らない若者が増えている。いつまでも、「革命の国キューバ」というコンセプトにあぐらをかいているわけにはいかない。あるいは、リゾートビーチだけがウリではない。観光省は自然を楽しむエコツーリズム、学会研修、アウトドア、文化・歴史遺産など、旅の多様性を打ち出して、外国からの集客に躍起になっている。  

観光業が主要産業であるキューバにとって、外国人観光客の急増は好ましいことにほかならない。だが、世界がどんどん均質化(アメリカ化)していくなか、マクドナルドとスターバックスがまったくない街並みには、それなりに魅力はある。  

だが、あの海岸通りに、ふたつ会社のロゴが掲げられ、そこに外国人観光客や成金のキューバ人がたむろするようになるまで、そう時間はかからないかもしれない。

註 1 

この映画は、エドムンド・デスノエスの小説(『大開発の記憶』)に基づく。デスノエスの前作を基にグティエレス・アレア監督が制作した『低開発の記憶』では、キューバに取り残された知識人を語り手にしている。キューバでも宙ぶらりんの状況は一緒だった。つまり、「キューバのブルジョアのことを考えるたびに、口から泡を吹くほど腹立たしくなる」とアメリカに影響されたブルジョワ的価値観を否定しながら、かといって、語り手の「僕」はキューバ革命の社会主義的イデオロギーを信奉しきれない。アメリカ資本主義の虜になって亡命に走る者たちを愚かだと感じるほどにはインテリだが、しかし政治活動に走るタイプではない。いわば、どっちつかずの非政治的なダメ男。自虐のユーモアがデスノエスのお家芸だ。

 

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ロベルト・コッシーのキューバ紀行ーー2015年(7)キューバとアメリカ(その1)

2015年10月09日 | キューバ紀行

(写真:ハバナ、ベダド地区の猫、「国交回復はオイラの生活にも及ぶのかな?」)

キューバとアメリカ(その1)

越川芳明

2014年の12月半ばに、世界のマスコミは、キューバとアメリカの国交回復のための交渉を大々的に報じた。もちろん、日本のマスコミも例外ではない。それ以来、2015 年7月20日の大使館の再開まで、日本のマスコミがこれほど両国の関係について紙面を割いたことは、最近ではめずらしい。世界同時多発テロ事件以降に、キューバにある米軍のグアンタナモ基地でおきた「テロ容疑者」への拷問事件を除けば、の話だが。  

オバマ大統領は、在位中の「遺産」作りのために、54年も続いた国交断絶にケリをつける決断をしたとも言われているが、それは正しいし、正しくもない。実は、2008年に「Change, Yes, We Can(変化をもたらすことができる)」を合い言葉に大統領に就任して最初におこなった政策のひとつが「制裁の緩和」だった。2009年4月に、キューバ系アメリカ人の渡航や家族への送金を承認したのである。  

これは共和党出身の前ブッシュの「孤立政策(キューバを孤立させる)」から大きく「転換」した「関与政策」(キューバと付き合う)」だった。  私がそれを実感したのは、サンティアゴ・デ・クーバのアントニオ・マセオ国際空港でハバナ行きの便を待っていたときだった。なんと「フロリダ行き」の便の掲示があったのだ。正直、これには驚いた。2008年に初めてキューバに行ったとき、ハバナの宿にニューヨーク在住のアメリカ人が泊まっていて、国交がないから、わざわざメキシコ経由でやってきたと話していた。1962年からアメリカ人のキューバ渡航は禁止されている。  

というわけで、私は好奇心に駆られて、フロリダ行きの列に並んでいた人に、フロリダまでいくらですか? あちらへ旅行で行かれるのですか、それとも移民するのですか? などと図々しく訊いてみた。フロリダまでは片道500CUC(その頃のレートで、5万円ぐらい)、久しぶりに帰省した家族を送りにきたので、自分があちらに行くのではない、という答えだった。それはそうだ。5万円と言えば、キューバ人にとって大金である。  

そのとき、キューバ系アメリカ人には、細いながら、そうしたパイプがあることを知ったのである。ちなみに、ハバナのホセ・マルティ国際空港では、そうした光景は見られない。私たち外国人は国際便が発着するす第1ターミナルや国内便が発着する第3ターミナルを使うが、もう一つ、第2ターミナルという謎のターミナルがあり、キューバ系アメリカ人を乗せたアメリカの飛行機はそこを使っているようなのだ。  

それはともかく、オバマの「関与政策」は、順風満帆(まんぱん)とは言えないようだ。反対勢力がいるからだ。反カストロ派の亡命キューバ人は言うまでもなく、彼らの利益を代表するフロリダ選出の上下両院議員、伝統的に共産主義アレルギーの共和党など。彼らは、グアンタナモ基地の返還や「禁輸措置」解除に反対している。  

だが、微妙なねじれもある。まず、共和党の支持母体のひとつである産業・経済界がオバマの「関与政策」を後押ししていることだ。たとえば、全米商工会議所のトーマス・ドナヒュー会頭は、禁輸措置の解除を求める旨の声明をただちに発表している。読売新聞(12/19/2014)によれば、ドナヒュー会頭は、すでに春先にキューバを訪問し、国家による統制経済が弱まっている状況を視察したという。「中国などがキューバに接近するなか、米産業界には現状のままではビジネスの機会に乗り遅れるという危機感がある」というのが消息筋の見方だ。だから、共和党が「関与政策」に賛成する可能性もある。  

さらに、米国在住のキューバ人の中にも、微妙なスタンスの相違がある。かつて政治亡命したキューバ人は革命政府の転覆を目指したが、米国生まれの2、3世の世代が増えてきて、反カストロ感情が弱まっているようだ。さらに、80年代以降にキューバから逃げて来た難民は、故郷への思いが違う。60年代の亡命キューバ人にとって理想のキューバとは、富裕層が快適にすごしたかつてのキューバだが、難民キューバ人にとって、それは理想郷ではない。革命後に、自分たちが受けることができた教育や治療のことを思えば、貧困に喘ぐことさえなければ、革命以後のキューバの方がいいのだ(1)。

註1 伊藤千尋『反米大陸』(集英社新書)によれば、「マイアミのキューバ系市民90万人のなかでも、革命直後の60年代にアメリカに逃れた政治亡命者は、今や少数派だ。80年代に押し寄せた経済難民や、90年代以降の『出稼ぎ』が、今は多数派を占める。亡命者の子どもたちは、自分をキューバ人でなく、アメリカ人だと考えている。経済難民や『出稼ぎ』は、本国の家族に送金し、年に一度は帰国する。キューバを訪ねるキューバ系アメリカ人は、年間約12万5000人にも上っている。彼らのほとんどは、アメリカによるキューバ経済制裁に反対だ」(189ページ)

(参考) 米国とキューバの最近の関係

2013.6~11 カナダで互いの工作員の釈放をめぐって、両国が秘密交渉

2014.3 オバマ大統領、バチカンでローマ法王と会談

2014夏 ローマ法王、両国首脳に親書、人道問題の解決をうながす

2014.7 プーチン露大統領、習近平中国国家主席がキューバ訪問。とくに、習国家主席は、自国の艦艇(ミサイル駆逐艦)の派遣を確認。のちにキューバがそれを撤回。

2014.10 ローマ法王、両国代表団を招待。 

2014.12.16 両国首脳、国交正常化交渉開始をめぐって電話交渉。政府高官による発表

2014.12.17 両国首脳による声明

2015.1.12  キューバ、政治犯53人の釈放完了

2015.1.21.~22 第1回両国高官協議(ハバナ) キューバ移民問題(米、脱出者の受け入れ)

2015.2.27 第2回両国高官協議(ワシントンDC)

2015.4.11 米州首脳会議の開かれているパナマで、キューバ、アメリカ両国首脳会談

2015.4.14 オバマ大統領、議会に、キューバの「テロ支援国の指定」(1982年~)の解除を通知。

5月29日に解除が発効。キューバへの軍事物資輸出禁止、経済援助禁止、国際金融機関の融資規制などが解除。ただし、「キューバ経済制裁強化法(ヘルムズ・バートン法)」*などによる制裁は継続。

2015.3 EU外相、キューバ訪問。カストロ議長らと会談

2014.4 スペインの財界代表団、経済界の幹部を連れてニューヨーク州知事がキューバを訪問。 英国とキューバが経済協定締結。

2015.5.2 日本の岸田外相、キューバ訪問。ラウル・カストロ議長と会談。商社や金融、医療など、日本企業20社25名も同行

2015.5 オランド仏大統領、キューバ訪問。カストロ議長と会談。「(米国の)制裁解除に向け、できるかぎりのことを行なう」と述べる。

2015.5.19 キューバ政府、米国内で銀行口座を開設。

2015.7.20 米国、キューバ国交回復。54年ぶりに互いの大使館を再開。

2015.8.14 ケリー米国務長官、キューバ訪問。

2015.9.29 米国、キューバ両国首脳が国連本部で会談。

* 「キューバ経済制裁強化法(ヘルムズ・バートン法(1996年) 」キューバ革命で米国民から接収された土地や資産への投資など経済活動を行なった外国企業の役員や家族の米国入国を拒否する条項などを持つ。第三国にキューバへの投資をさせないため。解除には、米議会の手続きが必要。

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ロベルト・コッシーのキューバ紀行ーー2015年(6)長蛇の列

2015年10月09日 | キューバ紀行

長蛇の列    

(写真:マリアナオ地区の小学生たち)

越川芳明

ハバナでは、人々が道で大勢たむろしている風景をよく見かける。   

日本では「長蛇の列」と言うが、だいたいまっすぐ並ぶ方式である。キューバ人は同じ蛇でも、大雑把にとぐろを巻いている感じである。バス停でもアイスクリーム屋でも、仮に大勢の人が待っているところへ行くとしよう。キューバ人ならば、必ず「ウルティモ?」と、大声を張りあげる。  

最後の人は誰ですか? という意味だ。自分より一つ前で待っている人が誰であるかが分かれば、どこか日陰を見つけてそこで待てばよい。炎天下できちんと列を作って、いつ来るかもしれないバスや自分の順番を待っているより、ずっと合理的だ。そういう意味では、キューバ人(ハバナッ子)は、ラテンアメリカの中では、情に訴えるより、割り切ったモノの考え方をする人たちかもしれない。  

数年前のこと。キューバの大学から研究者ビザ用の招聘状を送ってもらい、東麻布のキューバ大使館で三カ月滞在のビザを作ってもらった。だが、ハバナの空港の税関では一カ月分の滞在しか認めてもらえなかった。市内の税関事務所で更新の手続きをすれば、問題ないと言われた。そこで、期限が切れる一週間前に町の税関を訪ねると、例によって大勢の人が待っていた。  

ようやく自分の番が来たと思ったら、この件では別の税関に行かないといけない、と言われた。そこで、そちらの税関に行ってみた。そこでも大勢の人が待っていた。ようやく自分の番が来た。思ったら、こんどは大学の国際課に行くように言われた。人に道を訊きながら二つの税関をはしごしても、まったく進展がなかった。がっかりすると同時に、不安にもなった。  

社会主義の官僚制は最悪だ。グティエレス・アレア監督の『ある官僚の死』(1966年)という映画では、叔父の死体の埋葬をめぐって、役所のたらい回しの犠牲になる主人公が登場する。そうした役人たちの体質は何年経っても変わらないのだ。役所では、仕事柄、業績主義を取りにくい。市民に喜ばれるどんなに立派な仕事をしたところで、給料や昇級には影響しない。上司に喜ばれる仕事をする者だけが得をする。それは多かれ少なかれ資本主義社会でも同じかもしれないが、市民の声を聞くシステムのない社会主義社会では、権力のピラミッドの底辺に質(たち)のわるい小役人たちが跋扈する。上司には楯を突けないので、市民に対してわざと仕事を遅らせて意地悪をする。意地悪をしたところで、罪に問われないのだから平気である。力の弱い市民は、心づけという名の賄賂を渡して、仕事をしてもらうことになる。  

長蛇の列と言えば、最近では、ハバナのオビスポ通りの「エテクサ」(キューバ電信電話公社)のオフィスの前は、いつも黒山のような人だかりである。電話回線を引きたい人、インターネットをやりたい人、携帯電話を始めたい人、電話代を払いたい人などが、いろいろな目的で道路に群がっている。でも、いちばん多いのは、携帯電話を始めたい人だろう。  キューバ人は待つことに対して、合理的なモノの考え方をすると同時に、 相当に我慢強い印象を受ける。待たされることに慣れているというべきか。  

実は、私たちも、携帯電話のない時代には待つことを厭わなかった。たとえば、私たちは学生時代、駅前で待ち合わせをして、30分や1時間ぐらい待っていても平気だった。ご親切にも、駅には小さな黒板があって、「5時半まで待ったが、先に行くぜ。YK」とか、書き置きをしたものだ。40年前のことである。  

いま、キューバでは急速に携帯電話が普及してきている。市民の時間感覚も、当然、変化するだろう。やがては待つことに我慢できなくなるかもしれない。  

「ほかのラテンアメリカの国では、「アオリタ(英語でナウ)」というと、「いま」を意味するけど、キューバでは「アオリタ」というのは、「あさって」を意味するかもしれない」。キューバの友人はそう言って、キューバ人の時間感覚を笑う。  

ということは、あの小役人は、仕事を遅らせて私に意地悪をしたのではないかもしれない。そうした緩い時間感覚の中に生き、私みたいにあくせく仕事をすることに意味を見いだせなかっただけなのだろう。

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ロベルト・コッシーのキューバ紀行ーー2015年(5)死者の声

2015年10月08日 | キューバ紀行

(写真:パンの木の実 ハバナのラリサ地区)

死者の声      

越川芳明

ビクトルの母親が亡くなったらしい。ある朝、師匠が私にそう告げた。ビクトルは師匠の子供の頃からの親友である。実は、ビクトルも司祭歴10年のババラウォである。  

若い頃は商船の船員をしていて、日本をはじめアジアにも旅したことがある。スペイン語以外にも、英語も堪能だ。プッシーとか、人前で絶対に言ってはいけないスラングもいろいろと知っているが、もちろん、普段はそんな言葉は使わない。  

ハバナのマリアナオ地区にあるビクトルの母親の家は、何度か訪ねたことがある。広い通りに面した小さな二階建ての家で、周囲に金網を張り巡らしていた。金網には植物の蔓が巻きついて、日除けの役目を果たしている。  

私と師匠は、乗り合いタクシーを降りると、ビクトルの家まで歩いていく。儀式の前にちょっと寄っていくのである。入口のドアのすぐ向こうにある小さな部屋で、冷たい水をもらい、喉をうるおしながら仕事の打ち合わせや世間話をする。そんなときに、母親が奥の部屋からぬっと顔を出して、私たちと挨拶をかわす。  

彼女がどんな顔つきをしていたのか、思い出そうとしても、記憶がはっきりしない。むしろ、彼女はすでに死者の仲間入りをしているかのように影が薄い存在だった。  

人間の死をめぐっては、あるアメリカ作家が面白いことを言っていた。その作家によれば、人間は長く生きていると、魅力的な穴があいてきて、その穴から死者たちが招き入れられるのだという。体の中が死者たちで一杯になったら、その人間は死ぬ。死んだ人間はどうなるのか。別の人間の魅力的な穴を見つけ、その中に招き入れられるのだという(1)。

ハリウッドであれば、ゾンビ映画に仕立てそうなこの発想には、はっとさせられた。いつの頃からか、私は生きている人より死んだ人のほうに惹かれるようになった。果たして、私には魅力的な穴はあいているのだろうか?  

夕食をとってから、私たちはマリアナオ地区へ向かった。師匠のパートナーと、高校三年生の娘も一緒である。外はすでに真っ暗だった。  

薄暗い葬儀場の前の通りには、いくつかのグループが散らばって、ひそひそ話をしていた。まるで獲物を襲ったあとのハイエナみたいに未練が残り、その場から立ち去れないでいるようだった。  

私と師匠だけが外の石段をのぼり葬儀場の中に入っていく。師匠は奥まった方へ廊下をどんどん歩いていく。すると、右手に壁を取り払った葬儀室が見えてくる。棺が上座に置かれている。棺に直角をなすように2列に親類縁者が向かい合うようにすわっている。廊下にも椅子がおいてあり、葬儀室に入りきれない人々がすわっている。音楽はいっさいかかっていない。人々の囁き声だけが、夏の夜の虫の音のように耳に響いてくる。  

ビクトルは廊下の椅子にすわっていた。師匠と私はそこまでに歩いていき、一人ずつビクトルとハッグをした。彼は赤い目を腫らしている。私はティッシュに包んだ紙幣をポケットから出して、ハッグするときに彼にそっと手渡した。ビクトルは、何のことか分からず一瞬ためらったが、それを受け取った。キューバには香典という考えはないのかもしれない。 でも、そんなことはどうでもいい。 

私たちは棺までいき、蓋があいているところから、ビクトルの母親の死化粧を見た。私は、そのとき初めてビクトルの母親の顔を見たような気がした。乾いた肌に白粉が塗られていて、古びたチョコレートみたいだった。黒地に白っぽい粉が浮いている。頬と唇にうっすらと紅をさしていた。でも、死者の顔には、まるで永遠の生命力があるかのようだった。きっとこうした生命力のある死者が、魅力ある生者の中に招き入れられるのだろう。  

私たちは空いている席にすわった。となりの葬儀室でも、静かに死者との最後の夜を過ごしていた。  

しばらくすると、師匠が立ち上がった。私たちはもはやビクトルには挨拶せずに外に出た。師匠のパートナーと娘が待っていた。彼女たちはやって来たものの、死者と対面するのが怖いと言う。ちょっとしんみりとなった。外にいる人たちはその場から立ち去れないのではなく、彼女たちと同じ理由で中に入れないのかもしれなかった。  

私は景気づけにある提案をした。近くの店でアイスクリームをおごる、と。それはひょっとしたら、私の口を借りて出たビクトルの母親の声だったかもしれない。アイスクリームと聞いて、二人の女性の顔には笑みが浮かんだ。  

註1 ハリー・マシューズ(木原善彦訳)『シガレット』(白水社、2013)、369ページ。

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ロベルト・コッシーのキューバ紀行ーー2015年(4)無駄足は無駄足ではない?

2015年10月07日 | キューバ紀行

(写真:ハバナのマリアナオ地区から来たという大家族)

無駄足は無駄足ではない?  

越川芳明

確かにキューバは経済停滞が著しい。日本に比べれば、店にはモノが少ない。まず、どこの店に何があるか、捜す必要がある。だから、買う気がなくても、ときたま店の中を覗いて、どの店にどんな品物があるか、在庫を知っておくことは大切だ。  

いざと言うときに、無駄足を避けることができるから。  

だが、実は、無駄足は無駄足ではないかもしれない。  

キューバ人は、街で友人や知人たちと挨拶をかわしたあと、細かい情報交換をしている。これもモノ不足が常態化しているから、その対応策と言うべきだろうか。目指す品物に出くわせなくても、そうやって新たな情報や品物を得られるかもしれないから、無駄話もばかにできない。  

あるとき、街で得てきた情報をもとに、師匠がカンピスモ(キャンピング)に行かないか、と私を誘う。きれいなビーチに行って、二、三日のんびりバカンスを過ごそう、というのだ。もちろん、師匠にはそんな経済的な余裕はない。もし私が行こうと言えば、旅費は私が負担することを意味する。  

「どのくらいかかるのか」と尋ねると、にやりと笑って、「それがものすごく安い」と答える。さらに、「どのくらい」と突っ込むと、8人乗りの貸し切りの自動車(運転手付き)と、寝室2つと台所のついた一軒家をまるごと貸し切るという。「3泊しても、たったの160CUC(約20,640円)さ」  

人のカネをアテにしながら「たったのXXX」という言い方が少々気になるが、確かに、世界的なリゾートであるバラデロ(マタンサス州)のホテルで過ごそうと思ったら、交通費・食事込みで、1人1泊3万円はくだらない。  だから、この「バカンス」はひどく格安に思える。昔から、日本では「安物買いの銭(ぜに)失い」とか「安物は高物」と言うではないか。安物買いは、かえって損をする。  

だが、師匠によれば、向かう先はプラヤヒロンだという。バラデロはキューバ島の北側、メキシコ湾流に面したビーチだが、プラヤヒロンは南側、カリブ海に面したビーチだ。ハバナ市内から200キロほど。高速道路を車で飛ばせば、2時間半ぐらいで着く。  

プラヤヒロンは、英語では「ピッグズ湾」とも呼ばれ、キューバ革命直後の1961年4月に、亡命キューバ人からなる部隊がCIA(米中央情報局)の支援を受けて武力侵攻を試みた歴史的な舞台だ。彼らはカストロの指揮する革命軍の反撃に遭ってあえなく敗れ去る。  

ビーチから100メートルほど離れたところに博物館があり、庭には当時の戦車が2台、戦闘機が1機飾られている。戦没者の名前を刻んだ慰霊碑があり、フィデル・カストロの言葉が添えられている。「いま、どんな場合でも、死にゆく者は、キューバの人として、プラヤヒロンの人として死ぬだろう。それだけのために、真理のために、放棄できない独立のために」と。  

しかし、プラヤヒロンの浜辺には、かつての戦場の面影はひとつもない。ビーチから1キロほど離れたところに住宅地があり、ほとんどの家が民宿をやっているか、レンタルハウスの看板を出していた。  

ビーチは遠浅で、200メートル沖に大きく長い堤防が走っていて、波がビーチに押し寄せないようになっている。キューバ人は冷たい水が苦手のようで、温泉のようにぬるくなった水に浸かってのんびりしているのが好きなようだ。  

浜辺を歩いていくと、水に浸かっている黒人女性の家族から、「中国人(チノ)!」と呼びかけられた。見るからに、祖母を中心に母と叔母、娘といった感じである。  

私が「前にいる日本人!」と、応じると、彼女たちはケラケラと声で笑った。「背後にいる中国人(は不吉)」というキューバの諺をひねってみたのだ。  

彼らはそれほど裕福そうに見えないが、一軒家を貸し切って、格安のバカンスを楽しんでいるのだろう。カネがなくてもモノがなくても、人生は楽しめる。幸福のかたちは、ひとつではない。彼女たちの笑顔がそのことを表わしていた。

 

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ロベルト・コッシーのキューバ紀行ーー2015年(3)モノを大切にするわけ

2015年10月06日 | キューバ紀行

(写真:ハバナのベダド地区の野菜市場、大きいキューバのアボガド)

モノを大切にするわけ

越川芳明 

  キューバでは、一日のうちに必ず水道の水が出なくなる時間帯がある。だから、たいていの家庭は貯水タンクを備えている。ちょくちょくある停電も困る。しかし、停電も、考え方次第ではポジティヴに捉えることができる。テレビも何も見られないのだから、さっさとベッドに入るしかない。そうすれば、一日の疲れを癒す睡眠時間が長く取れるし、パートナーがいれば、愛を確かめる時間ができる。

 確かに、キューバでは、ガスや水道、電気、道路、電話、インターネットなどのインフラが整備されているとは言えない。

 とはいえ、インフラ整備が遅れていることは、果たして「不幸」なのだろうか。

 確かに、私たちは「不便」でない生活のほうがよいと感じる。私たちは18世紀の蒸気機関の発明を転機にして、生活の快適さや効率のよさを追い求めつづけてきた。いま先端産業はハードな重工業からソフトなハイテクへとシフトしているが、「不便」は「不幸」、「便利」は「幸福」といった基本的な「等式」は変わらないままである。

 果たして、産業文明の根底にあるそうした「等式」は、正しいのだろうか。

 インターネットが整備されて便利になったが、真夜中に同僚からどうでもいいメールが届き、目が覚めてしまい眠れなくなった。そういうグチをこぼした友人がいる。

 あるとき、私の同僚の一人が、『赤毛のアン』の中にあるエピソードを教えてくれた。アンのいる村にも電話が開通することになり、どこの家でも「便利さ」を求めて、電話を引くことに躍起になる。約100年前のことだ。他人の家の出来事が手に取るように分かるようになる。だが、一人だけある老女が電話回線を引くのを拒む。老女は最新の情報機器を「モダン・インコンビニエンス」だと言い切る。私の同僚はその老女の言葉を「現代の不便」という直訳でなくて、ほかにうまく意訳できないか、思い悩んだという。そして、とうとう「便利は不便」という日本語訳を思いついた。

 キューバは慢性的なモノ不足に悩まされている。キューバ政府は、それを米国の経済封鎖のせいだという。60年代からずっとその被害を被ってきたのだ、と。確かに、その通りかもしれない。だが、賢明な庶民は怒りを募らせたりしない。そんな口実は何十年も聞かされてきた。アメリカに腹を立てても、腹はふくれないのだ。むしろ、庶民はモノを捨てないで、大切にする習慣を身につけた。

 そうした姿勢が端的に表れているのが、米国に亡命した富裕層が置いていったアメ車の存在である。世界広しといえども、50年代のクラシックカーが現役で走っているのはキューバぐらいなものだろう。ガソリンが恐ろしく安かった時代に製造されたので、ボディは重たく頑丈な鉄板だ。内装は現在の所有者によって改造されていて、応接間のソファみたいなゴージャスな座席から硬い木板まで千差万別。ダッシュボードのメーター類はまったく動かないが、オーディオデッキは必ず取り付けてある。それにメモリーフラッシュを差し込んで、レゲトンやサルサなどを大音響でかき鳴らす。ボンネットを開けてもらわなくても、エンジンは分かる。たいてい日本製か韓国製、あるいは英国製かドイツ製だ。モノがなければ、人は工夫をする。修理の技術も磨かれる。

 一方、日本では、スーパーの売り場に象徴されるようにモノが溢れている。モノがたくさんあることが「幸福」であるかのような幻想をつくりだしている。だが、すべての現象には利点があれば、欠点もある。モノの欠点は、人間の欲望と同様に、キリがないということだ。だから、モノに取り憑かれた人間は幸せになれない。この辺でいいや、と満足できないから。

 いま、日本ではそうした行き過ぎた消費生活を見直す「里山資本主義」という思想が語られ始めている。モノが必ずしも幸福をもたらさない、ということを私たちは学んだ。それに対して、キューバは、いま社会主義から限定的な市場主義へと舵を切り、いわば「プチ消費主義的」な世界へ移行しようとしているように見える。

 

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ロベルト・コッシーのキューバ紀行ーー2015年(2)男女の付き合い方

2015年10月04日 | キューバ紀行

(写真:サンテリアの入門者であるイデ=腕輪を見せる少年@ハバナ旧市街)

男女の付き合い方

越川芳明 

 ハバナのような大都市では、子供の数が多い。セントロと呼ばれる街の中心部を歩いていて、なんとなく活気を感じるのは、そうした若い熱気が溢れているからだろう。十代後半で子供を産んでいる女性も少なくない。日本には「子宝」という表現があるが、キューバにも「子どもは、最高の家宝である」という格言がある。

 ところで、キューバ人は一生のうちに何度くらい結婚し、離婚しているのだろうか? 

 身近にいる友達を見ていると、一生のうちに、少なくとも3~4回は伴侶を替えているような気がする。キューバ人の平均寿命は、男76歳、女80歳なので、子供が産めるのをだいたい16歳以上とすると、だいたい16~20年に一度は結婚相手を替えていることになる。もちろん、これは一般論であって、都市部のインテリ層や貧困層では、パートナーを替える頻度は平均値より高くなるかもしれない。

 面白い統計がある。キューバ人の離婚率を扱ったものだ。ハバナ大学人口統計学研究センターのマリア・エレーナ・ベニテス研究員によると、1970 年には 結婚した100 組につき 22 件余の離婚があったが、1981 年には 39 件、2009 年には 64 件と増えた。つまり、離婚率は1970 年から 2009 年までに、ほぼ 3 倍になったという。結婚したカップルの6割以上が離婚しているのである(1)。

 スペインやイタリア、南米の諸国では、カトリック教会で結婚をすると、あとで厄介なことになる。カトリック教会が離婚を認めていないからだ。キューバ社会も、革命(1959年)以前はカトリック教会の支配が強い家父長制社会だった。そんな社会では、結婚は女性にとって、一種の「就職」だった。女性は経済的な安定を得るために結婚したのだ。「革命前の結婚は、愛情でするわけではなかったから、逆に長くつづいた」。そういう逆説を述べるのは、私の親友で、彼自身これまでに5度結婚したというマリオ・ピエドラ教授(ハバナ大)だ。

 だが、革命後、富裕層と結びついていたカトリック教会は権力を失う。結婚や離婚は公証役場への届け出だけで済むようになる。しかも、革命社会は、貧富の差をなくすことをめざし、女性の社会進出をうながす。カトリック教会の「倫理」や、生活の糧というくびきもなくなり、女性が経済的な力をつけ、離婚し易い社会へと移行する。結婚は「打算」ではなく、愛情だけでするようになる。愛は熱しやすく冷めやすい。

 身近にいる若いカップルを例にとってみよう。ハビエル君(22歳/1993年生まれ)は、キューバ生まれの白人で、4歳のときに両親と共にコロンビアに移住。ボゴタ育ちだが、国籍はキューバだ。両親は離婚し、母親と共に2008年に帰国。父親はいまフロリダのタンパでハビエルの祖父と住み、レストランで料理人をしている。ハビエルは一度米国で暮らしたことがあり、グリーンカード(永住権)も取得。だが、移民したいとは思わない。母親はリゾート地に家を建て、観光客向けの民宿を経営する予定。ハビエルは年に20度くらい、外国に女性服やアクセサリーの仕入れに出かける。

 一方、アンナさん(25歳/1990年生まれ)は、英語も話す頭の回転の速い早い白人女性。大学では心理学を学んだという。両親ともに医者だ。母親は麻酔医としてベネズエラに派遣されたあと、米国のネブラスカ州オマハへ移住。父親はハバナで整形外科医をしている。彼女は、ハバナの郊外ボジェロ地区にあった祖父の家を相続している。ハビエルとは約1年の付き合いで、いわばビジネスパートナー。ハビエルが海外で仕入れてきた服などを、彼女が女性のネットワークで売りさばく。夢は結婚と子供を作ること。実は一度、祖父の家を相続するために書類だけの偽装結婚をしている。子供も、いままでカネ稼ぎで忙しく作っている暇などなかった。来年の9月にハビエル君と結婚し、海外にに仕入れを兼ねてハネムーンに行く予定という。

 これまでの革命社会と違い、二人のあいだには「商売」という思惑が絡んでいる。だから、その思惑がうまく行っているかぎり、二人の関係は安泰かもしれない。いま、キューバでも個人ビジネスが解禁になって、そうしたカップルが増えてきているように思える。

 註

1 サラ・マス(安井 佐紀訳)「キューバ式離婚事情」、キューバ女性連盟機関誌『女性たち』第 538 号、2011 年 5 月 12-18 日号。とはいえ、この離婚率の算出法には問題があり、ある年の婚姻届出件数を離婚件数で割っただけで、婚姻したカップルが離婚したとは限らないのである。国連は別の算出方法を取っていて、年間離婚件数を10月1日現在の人口総数で割り、それに1000を掛ける。それによれば、2010年度の世界の離婚率のリストは、1位ロシア(4.7)、2位ベラルーシ(4.1)、3位ラトビア(4.0)とつづき、キューバは、ベルギーと並び7位(2.9)にすぎない。ちなみに、離婚が多いとされる米国は4位(3.6)、日本は圏外(2.0)である。

 

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