越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

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映画評 今泉力哉監督『アンダーカレント』

2024年02月01日 | 映画
水の中に隠された秘密ーー今泉力哉監督『アンダーカレント』
越川芳明

関口かなえは、下町で「月乃湯」という公衆浴場を経営している。昨夏に父が亡くなり、その後を継いだらしい。風呂屋さんの二代目である。

ほとんどの銭湯が燃料として重油を使っている昨今、めずらしく薪(まき)を焚(た)いてお湯を沸かしている変わりダネだ。薪焚きは人手がかかる。薪割りと薪をくべる作業を誰かが担当しなければならない。客からすれば非常に贅沢な風呂である。

薪焚きというのは、この映画の重要なモチーフである。

新しく銭湯に雇われる堀という、謎めいた無口な男の、その人となりを表すのに最適である。最初に持参した履歴書には「甲種危険物取扱者免状」や「特級ボイラー技士免許」をはじめとして、さまざまな資格が記されていた。にもかかわらず、小さな個人経営の銭湯で、チェーンソーで薪を作ったり、それを窯(かま)の中にくべたりという、地味な作業をコツコツとこなす。不器用で実直な性格であることが作業ぶりからわかる。

だが、なぜこの銭湯で働かねばならないのか、謎は深まるばかりだ。

そもそも新しく人を雇わなければならなくなったのは、四年ほど生活を共にしたかなえの夫が突然、行方をくらましたからだった。地元の銭湯組合の旅行に出かけたおり、誰にも何も告げずに蒸発してしまったらしい。

近親者の失踪というのは、しばしば文学作品に見られるテーマである。

人間存在の謎を問うのに最適だからだろうか。たとえば、十九世紀アメリカ文学を代表する作家のひとりに、ナサニエル・ホーソーンがいる。
ホーソーンの短編「ウェイクフィールド」では、十年間一緒に連れ添った夫が、ある日こっそり失踪する。
「夫は旅行に出ると偽って、自宅の隣の通りに間借りし、妻にも友人にも知られることなく……二十年以上の年月をそこで過ごしたのである」

作家は、そんな「奇人」の行動に対して「共感力に訴える」と理解をしめす。誰しも「現実逃避」の欲望があり、そうした衝動を抱えて生きているからだ。
「人はみな、自分はそんな狂気に走らぬとわかっていても、誰か他人がそうしても不思議はないと感じるのである」

かなえはある日、偶然スーパーで遭遇した大学時代の友人、菅野に事情を打ち明け、彼女に探偵を紹介される。のらりくらりとして頼りなさそうな探偵役のリリー・フランキーがいい(コミカルでシリアスな)味を醸し出す。

それはともかく、その探偵はかなえから聴き取りをしたあとで、夫のことを「過去をすっかり消したいか、足がつかないようにしたのですな」と、断定的に述べる。
むかついたかなえは、あなたに夫の何がわかるの?と噛みつく。そのとき、探偵は何気なく「人をわかるってどういうことですか?」と尋ねる。

探偵から二週間ごとに報告される夫の新事実によって、かなえはいかに自分が夫を知らなかったかを思い知らされる。

そう思ったとき、あるシーンがフラッシュバックする。客のいない浴場で、かなえと夫が浴槽の縁にこしかけ、話をしているシーンだ。
かなえが、いずれはバーナーで重油を燃やす方式にしたほうがいいかもね、子供だってできるかもしれないし、薪だと手間がいろいろとかかるから、といったようなことを夫に話す。
夫は何か言いたそうにするが、その言葉を飲み込んでしまう。

夫だけではなく、かなえは自分自身すらもわかっていなかった。冒頭、浴場の掃除を終えたあと、浴槽の縁にすわっていて、後ろ向きにお湯の中に沈んでいく夢のようなシーンが出てくる。
プロットとはまったく関係なく、こうした水の中に仰向けに沈んでいくシーンがその後も何度か出てくる。
それはかなえ自身もわからない、もうひとりの自分が顕(あらわ)れる瞬間かもしれない。少女時代に水をめぐる恐ろしい事件で負った心の傷が、押し込めていた心の奥底から、本人の意識を突き破ってくるのだ。

タイトルの『アンダーカレント』とは、水の「底流」とか表面の思想や感情と矛盾する「暗流」という意味であるという断り書きが作中で提示されるが、それはかなえの意識下に眠る、本人も自覚していない「怪物」のことだろう。
それこそが水の中に隠された秘密なのだ。と同時に、それは堀という男の中に押し込められていた秘密をも示唆するにちがいない。

本作は、かなえが銭湯を再開させる六月から、探偵が見つけ出してきた夫と再会する十一月までの半年間を扱う。
夫の失踪をきっかけに、かなえは水をめぐる認識論的な不安に陥り、自分のアイデンティを問い直す。

一方、最後に登場する夫は、自分のアイデンティティをめぐり、さらに深い不安を抱えている。かなえと再会した夫は、自分というものがわからない、と正直に打ち明ける。
どうして失踪したのか、と問うかなえには、自分はうそつきだった、みんなうそが好きで、本当のことなど知りたくないんだ、と言う。
それでは自分に言ったことも全部うそだったのか、という問いには、自分でもよくわからない、あまりにうそを重ねてきたから、誰かに求められる自分でいることができて、そうやって過ごしたから、と答える。

うそと真実との境界はつねに曖昧である。ひとりの人間の内部も曖昧である。履歴書のようにきちんと整理できるわけではない。
何気ない日常生活の中で、そうした曖昧な人間存在に対する不安を描き、しかもそれを飼い慣らす方法をやさしく最後に示唆する優れた映画である。



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