越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

村上春樹『1Q84』をどう読むか

2009年07月21日 | 小説
「卵と壁」を超える瞬間
――村上春樹『1Q84』を読む
越川芳明


 村上春樹のエルサレム賞受賞と受賞式出席でのスピーチがマスメディアを賑わせたのは、まだ記憶に新しい。村上の英語スピーチは、「さすが世界のムラカミ!」という単純で好意的なものから、「どうせだったら、卵を壁に投げつけるパフォーマンスぐらい見せてほしかった」という皮肉なものまで、日本人の間でいろいろな反応を引き起こした。

 しかし、私にとっては「卵と壁」をめぐる「文学的な表現」が一人歩きしていた印象が強い。
「もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます」
 そう村上は受賞の席で言った。

 私が初めにテレビや新聞などのニュースでその言葉を聞いたとき一番奇異に感じたのは、マスメディアが揃って、その文学的な表現を、村上によるイスラエル政府批判と受けとっていたことだ。報道関係者は、イスラエル軍によるガザ攻撃に言及しているとして、壁がイスラエル軍で、卵がパレスチナ市民、という単純な構図を思い描いたのだ。

 だが、私はそう受け取らなかった。そうした文学的(多義的/曖昧)な表現では、壁というのは、過激なシオニストたちにだけでなく、イスラム原理主義者にもなりうる。その場合、卵は自爆テロの犠牲になるイスラエル市民をさす。さらに言えば、その表現は、硬直した原理主義一般に対する批判にもなりうる。つまり、「世界のムラカミ」は「私は原理主義が嫌いです」みたいな、分かりきったことしか言っていないのではないか。

 そのときの私の直観では、村上はパレスチナ市民の味方であることを表明したのではない。だから、イスラエル政府があらかじめ村上のスピーチ原稿を読んだとしても、手直しを要求するまでもなかった。

 立野正裕は、私の知るかぎり、村上の受賞スピーチに対して最も苛烈で正鵠(せいこく)を射た発言を行なっている。立野は、ある雑誌に載せたエッセイの中で、「暴力を前にしてあえて自らを卵になぞらえてみせる人間の声が、少しも伝わってこない。これを日本の報道のように、ガザ攻撃批判と言うのは笑止である」と、断言する。

 さらに、村上やソンタグなどの文学者をふくむ有名人を利用する権力システム(それはイスラエル政府にかぎらない)への批判を行なう藤永茂の言葉、「異端的な発言が許されるのは、それを赦しておくことが『言論自由社会』のイメージに貢献する限りにおいてであって、もし実害が生じて、全体の勘定がマイナスになれば、即刻停止ということになる筈です」という言葉を援用しながら、立野は次のように述べるーー。

 「村上が事前に送った原稿が削除や手直しを要求されなかったのは当然だろう。壁と卵をめぐる村上の言葉は前もって検閲するまでもまかったのだ。なぜなら、まさにこういうふうに中辛くらいの味付けで語ってほしい、と「壁」が願ったとおりに「卵」はしゃべって来たにすぎないのだから」(『社会評論』一五七号、二〇〇九年)

 立野の言いたいことは、たとえ村上の発言がどんなに「文学的」な表現でなされたとしても、村上はイスラエル政府によって「政治的」に利用されてしまったということだ。村上のほうも、ノーベル賞への布石としてエルサレム賞受賞を利用した。両者にとって、「世界のイスラエル」と「世界のムラカミ」を宣伝するいいチャンスだった、と。


 村上春樹の『1Q84』は、一九九五年に地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教をモデルにした寓話として読める。一九七九年に山梨の山中に宗教法人化した「さきがけ」という団体と、その教祖とも呼ぶべきリーダーが出てくる。(ちなみに、オウムの宗教法人化は一九八九年だ)。

 そうした宗教カルト団体は、当然のごとく原理主義的な存在だが、小説の主人公の一人、青豆という名の三十歳になる女性は、そうした原理主義的な存在への嫌悪感を隠さない。

 都内の公立図書館へ行き、新聞の縮刷版で一九八一年に起こった事件を調べているうちに、「エジプトのサダト大統領暗殺」の記事を発見して、宗教がらみの原理主義者たちに対して「一貫して強い嫌悪感」を抱く。「そういった連中の偏狭な世界観や、思い上がった優越感や、他人に対する無神経な押しつけのことを考えただけで、怒りがこみ上げてくる」のだった。

 その少しあとでも、原理主義者は唾棄すべきものとして、「便秘」と比べられる。「便秘は青豆がこの世界でもっとも嫌悪するものごとのひとつだった。家庭内暴力をふるう卑劣な男たちや、偏狭な精神を持った宗教的原理主義者たちと同じくらい」

 なぜか? なぜそれほどまでに青豆は原理主義者に嫌悪感を抱くのか?

 宗教カルト団体「さきがけ」が壁だとすると、果たして、青豆は、ちょうどイスラエルで村上が英語でカッコよくタンカを切ったように、壁につぶされる卵の側に立つ人間なのだろうか。

 だが、青豆をめぐる物語は、それほど単純ではない。

 少しまわり道をしよう。この小説は、青豆と、彼女と対になる同年齢の主人公、川奈天吾を中心にして、家族の絆や精神的なよすがを失った現代日本人の内面を追いかける新しいタイプの<時代小説>のおもむきを持つ。

 広告代理店の台頭やワープロの普及に象徴される、後期資本主義(情報・消費主義)の到来を彷彿とさせる一九八〇年代半ばを背景に、その市民生活を逐一描写しながら進む。だから、村上文学の意匠としてというより、そうした時代精神の反映として、ファッションや料理、音楽、文学、映画の比喩や言及が交えて語られるのは、小説の内的欲求といえよう。

 だが、この小説はなぜこれほど長くなければならないのか。

 これまでの新聞や雑誌での絶賛の嵐にもかかわらず、私にはこの小説は冗漫に感じられる。一つには、たとえばピーター・ケアリー『ケリー・ギャングの真実の歴史』やオルハム・パムク『雪』と違い、この小説は比喩やアナロジーやメタファーがばらばらに一人歩きしていて、有機的な機能を果たしていない。まるで一つひとつの筋肉の鍛え方は素晴らしくても、全体的には均整のとれていないボディビルダーの体を見ているように、ちぐはぐな印象を受ける。

 さらに、重要なことに、小説を読み進めるうちに次第に明らかになるように、主人公の秘密の開示にあたって、あまりに驚きが少なすぎる。だから心地よいのだ、という読者もいるだろう。最初に謎かけがあり、次第にその謎が解けていくミステリの語り形式の、それが醍醐味だ、と。

 だが、この小説では、主人公の内面の秘密まで、後づけの説明でたいていのことは分かってしまう。だから、後づけの説明に触れることは、この小説に礼儀を欠くことになる。しかし、後づけの説明、すなわち粗筋を語って興味がそがれ、主人公の内面まで分かってしまうとすれば、そのようなものが果たして小説といえるのか。ライトノベルとどう違うのか。


 そろそろ青豆と原理主義的な存在をめぐる話に戻ろう。読者にとって驚きの少ない物語展開の中で、ほとんど唯一といってよいくらいの驚きのシーンが<Book2>の半ばに訪れる。

 それについて語る前に、いくつかの基本的なことについて触れておこう。

 まず、青豆自身が原理主義的な精神を抱えた人間だったということだ。彼女はいわば、内に壁を抱えた卵だった。単なる卵でも単なる壁でもない、複雑な内面を持つ人間だった。

 彼女の出自には、エホバの証人を思わせる「証人会」というキリスト教の原理主義団体がかかわっている。両親が輸血拒否や国家祭事の拒否をはじめ、過激な信仰による戒律を守り、彼女も十歳までその信仰に基づいた生活を送らされてきた。十歳のときに、信仰と決別したとはいえ、それが体に染みついている。

 だから、青豆の原理主義者への批判は、自己批判の色合いを帯びている。だが、あるときまでは、彼女はそれに気づかない。われわれ読者も。そのあるときというのが、<Book2>の半ばなのだ。

 青豆は元来、武闘派である。現在はスポーツクラブのインストラクターをしているが、中高、大学とソフトボール部に属していた。友人らしき者はいないが、生涯でただ一人、親友と呼べる女性がいた。その名を大塚環といい、彼女は同じ高校のソフトボール部に属していた。大塚環は大学のサークルの先輩に無理やり強姦されるが、彼女に代わって、青豆はその男の先輩に個人的な制裁を加えた。先輩のアパートの部屋をバットで完全に破壊した。その後、大塚環が不幸な結婚をして、家庭内暴力から自殺に追い込まれたときには、彼女に代わって元夫に制裁を加え、特製のアイスピックで死に至らしめる。そこにあるのは「弱者のため」という論理であり、正しいことをしたという感慨しかない。

 一方、麻布の「柳屋敷」に住む老婦人もまた、いわば、壁によってつぶされる卵の側に立つといった受賞スピーチの村上に近い立場にいるといえるかもしれない。老婦人は、原理主義的な宗教カルト団体のメンバーに対して、「人格や判断能力を持ち合わせていない人々です」と、断じて憚らない。

 老婦人は家庭内暴力の犠牲になっている女性や子供たちに緊急避難所としてアパートを開放し、青豆には私怨からではなく、「もっと広汎な正義のために」と、家庭内暴力をふるう「卑劣な男たち」の殺人を依頼する。だが、その社会正義への揺るぎない信念は、青豆の言葉を借りれば、老婦人が取り憑かれている「狂気に似た何か」(あるいは、「正しい偏見」)を思わせる。

 老婦人は青豆に対して、仕事のあとに、必ず「あなたは間違いなく正しいことをしました」と、ねぎらいの言葉をかける。ここでは、老婦人にとっても青豆にとっても、正義と悪の境界はあきらかだ。まるで、藤田まことの『必殺仕置き人』を見ているように。


 私が驚きといったのは、そうした卵=正義、壁=悪といった単純な構図が崩れる瞬間が訪れるからだ。

 老婦人が最後に青豆に制裁を依頼する対象となるのがカルト集団のリーダーと目される男だ。老婦人が得た情報によれば、この男は、老婦人のシェルターに脱出してきた、子宮を破壊された少女つばめをはじめ、四人の初潮前の少女をレイプしているらしかった。老婦人にとって、このリーダーは「歪んだ性的嗜好を持つ変質者」であり、この世から抹殺すべき悪だった。

 都内の一流ホテルに出向いた青豆が目にした男は四十代後半から五十代前半で、巨体だった。一通り筋肉マッサージをほどこし、いつもの作業に取りかかろうとしたが、青豆はアイスピックの最後ひと突きができない。

 その男が青豆に語ったところでは、月に一、二度全身の筋肉が硬直し、麻痺状態になる。その奇病は教団では、恩寵/神聖な証と見なされ、その間、勃起したかれと十代の少女たちが後継者を生むために交わる儀式が行なわれている。それが巫女の務めである。交わりはリーダーの肉体を滅びへと向かわせるが、教団はそれを「恩寵」の代償であると考える。だから、ただの世俗的な意味でのレイプではない、と。

 リーダーの男は安楽な死を待ち望む。青豆が殺しにきたのも知っている。青豆はアイスピックのひと突きができない。この男がただの原理主義者でないから。おそらく青豆は自らの内なる原理主義に気づいたから。その男の中に自分の姿を見たのだ。

 最終的に、青豆はこのカルト団体のリーダーを死に至らしめることになるが、自分が老婦人のいうように「正しいことをした」と納得できない。

 「世界のムラカミ」は、イスラエルで多義的な「卵と壁」のメタファーを使って日本のマスコミ煙に巻いたが、この本の著者である村上春樹は、この<驚きのシーン>で、カルト団体のリーダーに象徴されるカリスマに引きつけられる空虚な現代日本人の姿を描いて、「卵と壁」の単純な構図を超えたのだ。

(『村上春樹『1Q84』をどう読むか』河出書房新社、2009年、199-203頁)
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書評 カズオ・イシグロ『夜想曲集 五つの音楽と夕暮れをめぐる物語』

2009年07月16日 | 小説
たそがれの音楽をモチーフにした短編集
カズオ・イシグロ『夜想曲集 五つの音楽と夕暮れをめぐる物語』
越川芳明

 カズオ・イシグロは、若い頃、聖歌隊で歌い、バンドでギターを弾き、夢はプロのミュージシャンになることだったという。
 
 本作は、そうしたアマチア演奏家としての著者の経験が活かされた短編集だ。

 単に、音楽や演奏家についての蘊蓄(うんちく)が小説の中にちりばめられているだけではない。

 たそがれを連想させる「夜想曲」をモチーフにして、長年連れ添った夫婦のあつれきやすれ違いがチェーホフの短編のように巧妙にほのめかされる。

 五つの短編は、すべて一人称の語り手によって語られるが、生計のために妥協を余儀なくされている演奏家たちだ。

 冒頭の短編「老歌手」の語り手のように、ベネチアのサンマルコ広場のカフェで、観光客のために『ゴッドファーザー』のテーマを一日に九回も演奏しなければならないといったように。

 また「モールバンヒルズ」には、ティーロとゾーニャという名の、スイス人の中年夫婦が出てくる。

 夏のリゾート観光地で、スイス民謡やヒットソングなどを演奏して生計を立てている。

 レストランの支配人からスイスの民族衣装を着るよう指示され、夫はそれを「スイス文化の一部」であると楽天的に割り切るが、妻はなぜ暑苦しい衣装を着なければならないのか不満だ。

 著者は、一流ではないミュージシャンを通して、商業世界での成功とは何かを問うている。

 特に、「老歌手」と4番目の「夜想曲」。語り手も舞台もまったく異なる2編には、隠れた細工がなされている。

 両作にシナトラなどと並び称される有名歌手の妻という設定で、リンディ・ガードナーという女性が登場する。

 「老歌手」では、中西部の田舎からスターの妻になるという夢を持ってカリフォルニアにやってきて、その夢を果たすが、結婚で破局を迎えている。

 「夜想曲」では、破局を乗り越えた彼女がいる。努力を信じる彼女と、才能がありながらくすぶっている語り手のミュージシャンとが、成功をめぐって追突する。

 この情報化社会の中で、演奏家が成功するために必要なのは天賦の才なのか、努力なのか。
 
 作品の多くに中年夫婦が登場するが、夜想曲がすべて暗い演奏になるとは限らない。

 「天才」とおだてられた若手の演奏家の落ちぶれた姿を語った最後「チェリスト」のように、ペシミスティックな帰結を迎えるものもある一方、2番目の「降っても晴れても」のように、波風が立った中年夫婦の仲裁を頼まれた男を語り手にしてコミック調に展開、明るい見通しをうかがわせながら終わるものもある。

『時事通信』2009年7月5日
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スポーツコラム(2)学生ボクシング

2009年07月10日 | スポーツ
過日、水道橋の後楽園ジムに出向いて、ボクシングを見ました。

プロのボクシングではなく、アマチアのボクシング。関東学生ボクシングリーグです。

野球やラグビーや箱根駅伝のように、テレビ放映される花形スポーツと違い、学生ボクシングは確かに地味なマイナースポーツです。喩えて言えば、華やかなバラではなく、アジサイのような存在です。

でも、リングサイドには、数は多くないものの、熱心なファンが詰めかけていて気合いのはいった声援を送っていました。
まるで軍の司令官が部下に命令するかのように、みな名前の呼びつけです。さん付けなどでは、呼びません。

威張っているようですが、それがスポーツ選手への礼儀です。畏怖と愛情をこめて、呼びつけで応援するのです。さん付けでは、他人行儀です。

この雰囲気は、スポーツ好きにはちょっとたまりません。お祭りイヴェントではなく、スポーツの試合を見に来ている人たちの、見えない「個」の連帯みたいなものが漂っています。

話はズレますが、去年の夏、キューバで過ごしたとき、ちょうど北京オリンピックの最中で、日本のテレビではあまり見られないボクシングが盛んに放映されていました。

野球や女子バレーや陸上競技とならんで、ボクシングは人口1100万人の小国キューバが力を入れているスポーツで、メダルをいくつも獲得しました。アマチアボクシングは、マイナースポーツではないのです。

それにしても、生のボクシングを見るのは、今回が初めてでした。ちょっとハマりました。

明治大学のゼミの3年生の中に、ボクシング部の鈴木悠介君がいます。いつか応援にいきたいと思っていました。ゼミから3年生の女子2名(有馬加奈君、安斎由里奈君)、男子2名(対馬匠君、武本亮君)も参加してくれました。

その日は、大東大との対戦です。それぞれ7人ずつ出場の、ベスト・オブ・セブンのルール(4勝したほうが勝ち)。

まず、ライトフライ級のサウスポー田河君が登場。第3ラウンドにダウンを奪われ、判定負け。明大としては苦しいスタートを切った。

つづくフライ級は、サウスポーの工藤君が、第1ランドにTKO(RSC)勝ちして、明大に立ち込めた暗雲を払いのけた。

3番目に登場したバンタム級の、わがゼミのホープ鈴木君は、左ストレートをいくつも放ち、優位に立ったが、ローブローの注意を再三受け、次第に相手の注文にはまって、打ち合いに。結局、第3ラウンドまで戦いはもつれ込んだ。

辛うじて判定勝ちをもぎとったが、西尾コーチによれば、もっと楽に勝てたかもしれない、とのことだった。あとで、ローブローの注意について本人に聞いたところ、試合中、打ってないのに、相手の選手がしきりに「金玉打った」とレフリーにアピールしていたとのこと。とはいえ、「前回の平成国際大の格上の選手とやって勝った時のほうが、できがよかった」と、反省の弁も。

だが、これで対戦は明大の2勝1敗に。4人目、フェザー級の伊達君は、第3ランドにダウンを奪われ、判定負け。2勝2敗になり、先行き不透明に。

5人目、ライト級の酒井君は、第1ラウンドに反則を取られ,苦しいスタートを切ったものの、右ストレートが冴えて、判定勝ち。

6人目、ライトウェルター級の坂田君も判定勝ちし、これで4勝2敗となり、明治の勝利が確定。

7人目、ウェルター級の金原君は、二階級差(自身は一階級あげ、相手は一階級下げて)のハンデにもかかわらず第1ラウンドは軽快なパンチを浴びせていたものの、第2ラウンドに大東大の石川君の鋭いパンチを浴び、TKO(RSC)負け。試合が終わってから悔し泣きしていた姿が印象的だった。


西尾コーチによれば、大東大は、去年度の優勝チーム。今年は各校の実力が非常に接近しているらしく、最下位に低迷しているということでした。明大もこの試合に負けていたら、あやうく3部降格の憂き目にあうところでした。

TKOシーンも互いに一つずつありました。一度リングにあがったら、誰も助けてくれません。それだけに、学生ボクシングは、昨今少なくなりつつある肉食系の男子のスポーツだと実感しました。








 
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