越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

鶴橋のコリアタウン

2010年02月28日 | 音楽、踊り、祭り
大阪大正区につづいて、生野区鶴橋のコリアタウンを訪れました。

アーケード街にずらっとキムチ屋や八百屋や肉屋が並んでいて、市場としてそうとう楽しいです。もともと平安以前に百済系の人たちが移りすんでいたそうです。入口の御幸森神社の縁起にそう書いてありました。

「豊田商店」という韓国食品雑貨店で、強壮人参酒をつくるべく、オモニから「朝鮮人参」を安く仕入れました。(写真 左手ににぎった<ビニール袋>)

二個買っていったらといわれましたが、一個だけにしておきました(笑)。

商売の上手な、しかし嫌みのないすてきな女性でした。また、機会があれば行きたいところです。

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関西の沖縄人地区

2010年02月28日 | 音楽、踊り、祭り
大学の「文化継承学」というプログラムで、大学院生3人を引率して、大阪の沖縄人地区である大正区をフィールド調査しました。

平尾地区の商店街を見てまわり、アーケード街を抜けたところにあるそば屋で「ウチナーそば」を食べました。

折しもテレビ放映されていたオリンピック女子フィギュア-の決勝をみながら、一杯600円のそばで、2時間も「ゆんたく」をしてしまいました。
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トークショー@青山ブックセンター

2010年02月13日 | 音楽、踊り、祭り
管啓次郎さんとのトークショー、無事終了しました。

5,6人ぐらいだったら、どうしようと思っていましたが、満員御礼で、ホッとしました。会場に来てくださった方々、ありが

とうございました。

ゼミの3年生や、大学院生もいっぱい来てくれ(動員をかけたからね)、おまけにすてきな花まで、もらってしまいました。

この花をくれた二人には、あとで二倍おごらねばならないでしょう。それから、バレンタインのチョコももらっちゃいまし

た(お義理かな?)。

管さんが、ニューメキシコのアコマ族の居住地(メサの上の)の写真を見せてくださると聴いていたので、僕は下地勇をはじめ

方言で情感を表現するCDをいくつか用意していきました。管さんは、空のきれいなニューメキシコのたくさんのプエブロ

インディアンの写真を見せてくださった。サボテン、グアダルーペの聖母、砂漠、トウガラシ、トウモロコシ、リオ・グランデ

など、いろいろと懐かしい風景がでてきました。

帰宅後、Dさんからメールをいただき、下地勇の「おばぁ」をユーチューブで聴いたとのことでした。

実は、トークのあと、初対面の若いDさんと話したのですが、かれは15歳か16歳のときに学校をやめて、パチプロをやっ

ていたとか。後に大検をとって大学に入り直し、こんどの4月から管さんのところ(理工学部)のデジタルコンテンツ研究科で

大学院生になるのだそうです(わぉ驚)。まだ若いのに、深みを感じました。

Dさんのブログは、http://hobo.no-blog.jp/train/

こんど僕のゼミの授業にきて、就活などで悩んでいる今時の学生に、いろいろと喋っていただきたいとお願いしました。

最後に、ユーチューブの絵いり下地勇の「おばぁ」です。宮古人の夫婦喧嘩をユーモラスに歌ったボーナス(おまけ)の部分も、いいです(笑えますよ)。








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書評 前田塁『紙の本が亡びるとき?』

2010年02月09日 | 小説
デジタル時代の「文学」の行方は?
前田塁『紙の本が亡びるとき?』(青土社) 
越川芳明 

 今日、アメリカではアマゾン社の「キンドル」や、マッキントッシュ社の「iPad」というデジタルブックの専用末端が販売される一方、日本では広告出稿先が紙媒体からネットに移り、広告収入に依存していた雑誌が休刊に追い込まれている。検索エンジンのグーグル社が著者に無断で書籍をスキャナーで読み取り、それらをアーカイブ化するという知らせに日本の出版業界が騒然としたのもつい最近のことだ。

 そんなデジタル情報化の時代に「文学」はどうなるのだろうか。著者が「確信に近い結論」として、あらかじめ差し出しているのは次の一点だ。

「紙の書籍が遠くない未来、これまで果たしてきた役割を終える」

 「もちろんそれは、「本」がなくなることを意味するものではないし、紙の本が完全に失われることでもない。しかし、かつては当然だった写真の「プリント」が、わずか十年のあいだにほぼすべてデジタル化されたように・・・「紙の書籍」は人々の日常から離れてゆくだろう」

 その根拠として著者が挙げるのは、紙の本の商品としての側面だ。小売店のビジネスモデルに問題があり、長年、「販売委託」制度に依存していた小さな書店が次々につぶれている。輸送・人件費の比率が上昇し、そうした制度が大きな岐路に立たされている。

 では、このデジタル時代に、「文学」は亡びてしまうのか? アメリカの作家ロバート・クーヴァーは、早くからブラウン大学の創作科で電脳小説(ルビ:ハイパー・フィクション)を推進し、文学的な想像力を、CG(ルビ:コンピュータ・グラフィックス)における技術的な革新に結びつける努力をしてきた。前田氏もまた「ジャンル・クロスオーバー」の可能性を示唆している。

 「創作者は(すでに行なわれている)メディア・ミックスに加えて従来とは逆の発想つまり他ジャンルのコンテンツのテキスト化に比重を移すこともできる(・・・たとえば松浦寿輝や堀江敏幸といったテクスト巧者による恋愛ドラマやコミックのノベライズが実現してみたら、デュラスのような作品が生まれるかもしれない)」と。

 本書は、これまで書いてきたエッセイを集めたものであり、「紙の本が亡びた」後の見通しについて、安易な答えが導きだされているわけではないし、体系的に書かれているわけでもない。むしろ、電子メディアの特徴として著者が挙げる「非・線型性」を反映して、あえて断片的に語り、編んだ本にも見える。「紙の本が亡びる」というテーマを、紙の本で語るというパラドックスを演じたのかもしれない。

(『すばる』2010年3月号、315頁)
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