越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

6月15日(土)のつぶやき

2013年06月16日 | コラム

29日(土)に下北のB&Bでトークをします。bookandbeer.com/blog/event/201…

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6月12日(水)のつぶやき

2013年06月13日 | コラム

ポール・ボウルズがモロッコで収集した物語(英訳)がオリジナルです。iwanami.co.jp/.BOOKS/02/1/02…
ようやく日本語版を出しました。


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6月10日(月)のつぶやき

2013年06月11日 | コラム

きょう、6月10日(月)午後7時15分頃から、友人の山本伸がDJをしている、FM四日市(76.8)にゲストで出ますよ。電話だけどね。


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映画評『バーニー みんなが愛した殺人者』

2013年06月06日 | 映画

スモールタウンとしての「アメリカ」の悲喜劇

『バーニー みんなが愛した殺人者』 監督/リチャード・リンクレイター

越川芳明

 

 テキサス州のカーセージというスモールタウンを舞台にした映画だ。

 ニューヨークやシカゴ、ロサンジェルスなど、さまざまな人種の混在している国際的な大都市と違い、アメリカの片田舎にたくさん存在するスモールタウンは、人口が一万人に満たない小さな共同体だ。住民は均質的で、人種的には白人中心、思想的には保守、宗教的にはプロテスタント一色だ。

 たとえば主人公バーニーが、富豪の夫と死別し多額の遺産を持つマージョリーと一緒に行くメキシコ料理店は出てきても、メキシコ人は出てこない。黒人も唯一、マージョリーの庭の手入れを任されている男が出てくるのみだ。

 スモールタウンは住民たちが素朴で人が良い反面、ポピュリズムやナショナリズムに染まりやすく、アメリカらしさが一番色濃く出る土地でもある。家の台所事情も隣近所に筒抜けで、ちょっとでも変わったことがあるとゴシップが渦巻く。

 カントリー・ウェスタンの殿堂博物館があるようなある種マッチョな町で、マッチョでないことで愛される男が、この映画の主人公バーニーである。通常は女々しいとして毛嫌いされそうな男が、しかも、のちにマージョリーを殺してしまう「殺人者」が、なぜ皆から愛されるのか。言い換えるならば、この映画の提示する最大の皮肉は、この事件で名を上げたい地検のダニーを唯一の例外として、町の者が誰一人として、バーニーを憎んでいないということだ。

 この映画は、全米から注目を浴びた実在の殺人事件とその裁判を基にしている。主人公バーニー・ティーディは三十代後半の独身男性。ある葬儀社の助手として働いているが、その仕事は細やかで繊細だ。かたや、マージョリー・ニュージェントは石油で財を成した大富豪の老夫人。大富豪が亡くなり、バーニーはその葬儀でマージョリーに会い、それとなく彼女の世話を焼いているうちに気に入られる。やがて葬儀社を辞めて、運転手や執事として、あれやこれや彼女の身辺の面倒を見るようになる。五十年もの間、友達一人いなかった老夫人は心を開き、バーニーに遺産を譲るという遺書を作成。また、財産を自由に使用する代理権も彼に与える。バーニーは夫人の旅のお伴もするようになり、ファーストクラスでの移動、マンハッタンの高級ホテルでの宿泊など、さまざまな贅沢を味わう。ところが、葬儀社の社長の証言によれば、独占欲の強い夫人に「絶対服従」を強いられていたというバーニーは、あるとき発作的に夫人を銃殺してしまう。死体を冷凍庫に入れたまま九ヵ月のあいだ嘘をつきつづけるが、最後には、殺人が発覚する。

 リンクレイター監督が、そうした実話ドラマの進行の中に、三十名以上の市民たちの証言を差し挟んだのは、興味深い試みだった。

 ある老女は、殺人を犯したバーニーに対して、「もしカーセージで天国に行ける人のリストを作ったら、彼はそのリストの一番目に来るわ」と、賞賛する。一方、マージョリーは、誰からも「性悪女」として嫌われている。レノーラという中年女性は、「マージョリーは愛想が悪い」と唾棄するように言い、「もし彼女を撃ち殺せと頼まれたら、五ドルで請け負う人もいたはずよ」と付け加える。

 アメリカンドリームとは成功の夢であり、アメリカ社会ではそうした成功の証として、個人が獲得するドルの多寡がモノを言う。逆に言えば、アメリカには人々が拝金主義に陥り易い文化土壌がある。それなのに、バーニーは金に執着しなかった。むしろ、使える金をばらまいた。

 「人からもらうよりも人に与えて喜ぶ」タイプの人間だったという証言もある。バーニーはずっと粗末な家に住みつづけ、愛車のローンも滞り気味だったのにもかかわらず、地元のメソジスト教会には、夫人の名を冠した礼拝堂の建設費を寄付したり、町へ有名オーケストラを招聘する経費を捻出したり、ハープシコードを学校に寄付したり、聖歌隊をロシアに派遣したりした。それらの行為は、拝金主義とは対極をなし、キリスト教の説く慈愛(ルビ:チャリティ)の精神を体現するようなものだった。品のよい老女が言う。「神はバーニーを許してくれる。人生で大事なことはそれだけ。彼に会いたい。町中がそう思っている」と。

 だが、見方をかえてみれば、州の判断で別のスモールタウンに移し行なわれた裁判で、バーニーを「金の亡者(モンスター)」に仕立てる地検の誘導に乗って陪審員たちが全員一致で有罪にしたのを見れば分かるように、バーニーの殺人行為をまったく問題視しない住民たちの言葉は、一色に染まりやすいスモールタウン特有の証言である。

 殺人を引き起こしてしまった男を主人公にしながら、本作は「悲喜劇」と呼ぶべきタッチで描かれている。刑務所に入っても、バーニーは他の受刑者のために、賛美歌隊をリードしたり、料理教室を開いたりするなど、あくまで人の良い楽天家である。そうした人物の描き方が、「殺人者」を「善人」とみなす住民たちの証言の挿入と相まって、殺伐とした事件に喜劇性を付与しているのかもしれない。

 テキサス人でありながらリベラルで、アウトサイダーの視野を有するリンクレイターだからこそ作ることができた、スモールタウンとしての「アメリカ」を批評する優れた映画だ。

(『すばる』2013年7月号、304−305頁)

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幻のキューバ サンティアゴのブルへリア(四) 

2013年06月06日 | キューバ紀行

幻のキューバ 

サンティアゴのブルへリア(4)      

  越川 芳明 

 

 エスペランサの叔父の家は、薬草類を売っているあのブルへリア通りの近くにあった。

 中央に遊歩道が走っているマルティ大通りから、古ぼけてデコボコ道のラトウル大通りの鬱蒼(ルビ:うっそう)とした緑の並木道を歩いていくと、そびえている大木の下で、大柄で、見るからに実直そうな顔をした男(キューバでは、親しみをこめて「グアヒロ」と呼ばれる)が、即席の台の上に野菜を広げて売っていた。まだ赤くないトマト、ニワトリの卵みたいに小さなタマネギ、料理用の青いバナナ(プラタノ)などが、まるで骨董品みたいにまばらに並んでいた。

 きょろきょろしている私と眼と眼が合い、グアヒロはおどけるように言った。サッケ! サッケ! 

 裂け!裂け!と、命令されているように聞こえたが、私のまわりには引き裂くべき紙や布などはない。

 ひょっとして動詞「サカール」と関係があるのだろうか? 「サカール」という語には「受け取る/引き出す」という意味がある。ここに並んでいる野菜を「おれが畑から取ってきた/引き出してきた」と、言っているのだろうか?

 怪訝そうな顔をしている私を見ると、グアヒロは、トマ・サッケ・ウステッ? と、スペイン語の単語を一つずつゆっくり発音して言った。直訳すれば、「飲みますか、日本酒を、あなたは?」となる。でも、彼の言いたいのは、ひょっとして——

 日本酒を持っているならば、飲ませてくれ。

 ふと彼の真意を察した私は、自分が飲むのはアグアルディエンテ(サトウキビ焼酎)だけだよ、と言った。グアヒロは両手を挙げて、驚いた仕草をした。それから、首を振りながら笑った。まるでお前はイカレているよ、と言いたいかのように。

 私はブルへリアのロドリゴの家を知っているかどうか、訊ねてみた。

 グアヒロはコンクリート製の狭い門を指差して、二軒めがそうだと答えた。

 私が門をくぐり抜け、屋根のない狭い通路を歩いていくと、ひとつづきの長屋のような家が並んでいた。二軒めの軒先に立つと、ドアはなく中は暗かった。

 まだエスペランサは来ていないようだ。

 朝早く民宿にエスペランサから電話があった。急用ができてしまったので、三時頃に直接、叔父の家に行ってほしい、と彼女は言ったのだった。場所はマルティ大通りをくだっていって、マリア・デ・グラハデスの銅像のあるところから右手に少し行ったところよ。そうエスペランサは付け加えた。

 ブエノス・タルデス。

 私は物音ひとつしない暗闇に向かって、そう声をかけた。

 何の返答もないので、今度はやや大きな声で、同じ言葉を遠くの暗闇に放った。しばらくして奥のほうから、まるで幽霊のように音を立てずに、人影がゆっくりと現われた。

 私はお化け屋敷に迷いこんだかのように気味が悪くなり、敷居を跨ぐ前に、その人影というより、むしろ自分自身に言い聞かすように言った。

 ソイ・アミーゴ・デ・エスペランサ。

 人影が近づいて来て、ふくらみのある女性の声で、私に中に入るように促した。少し目が暗闇に慣れてくると、その声の持ち主が小太りの中年女性であることが分かった。着古した質素なワンピースを着ていた。

 敷居の向こうは居間になっていて、右手にはゆり椅子が三脚並んでいた。椅子の反対側には、つまみを廻してチャンネルを切り替える旧型のテレビが置いてあった。

 女性が勧めてくれたゆり椅子は、かなり古くてソファの部分に四角い板が敷いてあった。そもそも居間も地面が剥きだしだった。でも掃き清められていて、塵ひとつない。

 女性は、こちらからは見えない奥のほうにコーヒーを淹れにいった。

 しばらくして、かぐわしいコーヒーの香りと共に、デミタスカップに入ったエスプレッソが運ばれてきた。

 そこでようやく、彼女はロサと名乗った。

 エス・デ・サンティアゴ・ウステッ? と私は訊いた。

 ノー、デ・ドス・パルマス。エネル・モンテ。

 ムイ・レホス・デ・アキ?

 シィー、ムイ・ムイ・レホス、と彼女は言いながら微笑んだ。

 ロサは、褐色のムラータだった。露天の野菜売りの青年と同様に、純朴な女性(ルビ:グアヒラ)で、柔らかい落ち着いた喋り方をした。

 そうした飾らない喋り方から、彼女がドス・パルマス(二本のヤシの木)という、サンティアゴから三十キロぐらい内陸に入った大自然の中で育ったことを誇りにしているのが分かった。

 

 グアンタナメラ グアヒラ グアンタナメラ 

 グアンタナメラ グアヒラ グアンタナメラ 

 ヨ・ソイ・ウナ・ムヘール・シンセラ 

 デ・ドンデ・クレセン・ラス・パルマス 

 

 砂糖の入った甘いエスプレッソを啜りながら、レースのカーテンで仕切られた奥の部屋に目を凝らすと、そこには簡単な祭壇があった。

 私は祭壇を見てもいいかどうか、ロサに訊いた。彼女は、何の問題もないと言うかのように、そっと頷いた。

 レースのカーテンの向こうの部屋には、エスピリティスモの祭壇があった。エスピリティスモとは、キューバにおけるアフリカ系の先祖信仰がヨーロッパの降霊術を取り入れて、独自の発展を見せたものだ。

 ブルへリアが取り仕切るエスピリティスモの儀礼として、太鼓や鉦を使った歌と踊りによる厄除けのベンベイや、死者の命日に家族の者たちが手をつないで円形になり、反時計まわりに足を踏みならしながら歩く憑依儀礼のコルドン・エスピリツアルなどがある。

 そうした儀礼では、聖者や死者の霊が舞い降りてくる。とくにコルドンでは、つないだ両腕を波のように振りながら、単純なお祈りの歌をくり返しているうちに、参列者の誰かに死者の霊が乗り移る。

 霊に乗り移つられた人は「馬」と称され、「馬」はその霊にふさわしい踊りをする。それが死者の霊であれば、「馬」は死者の言葉を喋る。いわゆる「口寄せ」である。それらの言葉は、しばしば常人には理解しがたく、通訳が必要となる。通訳がいちいち「馬」に確認して、死者の真意を対象者(依頼人)に伝える。

 ロドリゴのブルへリアの祭壇は、エディタのそれと違ってあまり飾り気がなかった。それでも、カトリック教会の表象を取り入れた折衷様式は同じだった。

 祭壇にはイエスの写真のほかに、聖ラサロや聖女バルバラなど、キリスト教のフィギュアやイコンが並ぶ。それと同時に、ピンクのグラジオラス、赤い薔薇、白いアスセナなどの花や、ベンセドーラやアルバカなどの薬草類、アノン・デ・オホやペレヒルなどの緑葉が祭壇を多彩に飾る。その他に、ロウソク、聖水の入ったグラス、香水、サオコなどの儀式の道具が並び、アフリカの黒魔術的な要素がたっぷりまぶされている。

 とりわけ興味深いのは、祭壇の後方に「インディオ・カリベ」と呼ばれる黒い肌をした先住民のフィギュアが直立していることだった。黒人と先住民の混血で、アメリカ・インディアンの酋長ように、頭から腰までがすっぽり羽根飾りで覆われ、片手に槍を持っていた。インディオ・カリベは、十六世紀にスペインの征服者たちに抵抗したタイノ族の族長ハトウェイに象徴されるように、強き者に対して信を曲げない頑固な性格ゆえに、キューバの黒人たちには人気の神様だ。

 私が祭壇の飾りつけをノートに走り書きしていると、一人の女性が、ブエノ? と優しく挨拶の言葉をかけながら家の中に入ってきた。

 私はびっくりした。

 二年前に初めてエル・コブレでベンベイを見たとき、私はホルヘの許可を得て、精霊に乗っかられた「馬」の写真を撮ったが、この老女に、見得(ルビ:みえ)を切る歌舞伎役者さながらの目付きで恫喝(ルビ:どうかつ)されたのだった。そのときは、ホルヘがあいだを取り持ってくれ、打ち解けた老女と一緒に記念写真を撮ったが、あとで現像してみて、その射抜くような眼力(ルビ:めじから)に改めて圧倒されたものだった。

 でも、どうしてここに?

 私が不審がっていると、老女は自分がグロリアという名前で、ロドリゴの姉だと言った。

 そうこうするうちに、エスペランサがやってくる。娘のマグダレーナも一緒だった。

 あたしの母よ。彼女もブルへリアなの。

 エスペランサがそう老女を私に紹介した。

 私はまたもやびっくりした。この老女がエスペランサの母だったとは。

 と同時に、すべてが腑に落ちた。老女のあのときの眼力も、私への怒りも。

 あのときの怒りは、個人的なものではなく、死者の霊が憑依したブルへリアとしてのそれであり、死者の声を代弁するものだったのだ。

 老女はさっそく娘や孫娘と一緒に祭壇を整えたり、ロウソクに火を点けたりして、準備を始めた。

 それまで儀式の気配など微塵もなかったのに、まるで爆弾の導火線に火が点けられたみたいに、一斉にすべてが動き出した。

 依頼人の若者は、二十五歳ぐらいの白人の青年だ。エスペランサによれば、仕事も家庭生活もうまく行かなくなって、という話だったが、それ以上の詳細は分からない。エスペランサの叔父によって先祖の霊を呼び出してもらい、その解決策を聴くのだという。きょうの儀式はベンベイともコルドンとも違うが、憑依(ポゼッション)が絡むことだけは確かなようだ。

 いつの間にか、エスペランサの叔父が部屋の中にいた。ロドリゴは痩せて長身で、黒光りする顔には賢者を思わせる深い皺が刻まれていた。エスペランサが私のことを叔父に紹介して、あらかじめ写真撮影の許可を取ってくれた。だが、私は写真に頼るのではなく、できるかぎり自分の目に記憶させようと思った。

 ブルへリアのロドリゴと白人青年を取り囲むように、老女グロリア、ロサ、エスペランサ、マグダレーナの女性たちが祭壇の前に立つ。ロドリゴがグラスに入った聖水で首飾りを浄(ルビ:きよ)め、油の入った缶に火を点けた。炎が精霊たちを呼び寄せるからだ。

 ロドリゴは緑色の頭巾をかぶる。それから、左手に緑の葉をつけたロンペサラウェイやペレヒル、ピニョンなどのガホスの束をもち、一座を浄める。サトウキビ焼酎を口に含み、祭壇の前の道具類に向かって吹きかける。それから、葉巻を咥(ルビ:くわ)えて火を点け、火の点いたほうを口に中に入れ、いったん煙を吸い込んでから道具類に吹きつける。手鈴(ルビ:カンパーナ)とマラカス(ルビ:チュクレ)を鳴らし、精霊たちを召還する。

 依頼人の若者は、祭壇の前の莚(ルビ:むしろ)に座っていたが、立ち上がる。

 ロドリゴが歌を歌い始める。女性陣がロドリゴの告げる歌詞を繰り返す。

 言葉はスペイン語が基調の、単純で力強いクレオールだ。冠詞や名詞の語尾にある複数形のSが発音されずに、ロスではなくロ、イホスではなくイホ、ノスではなくノと聞こえる。

 

  ペディール・オラール・ポル・エル・サンティシモ

  オラモス・ポル・エル・サンティシモ

  オラール・エス・ペディールレ・ア・ディオス・ケ・

  ノ・プロテハス・ア・ロ・イホ・デ・エスタ・ティエラ

  ペディールレ・ケ・ノ・リンピエス・エル・カミーノ

 

  至上の聖者に 願い 祈ります

  至上の聖者に 私たちは祈ります

  祈るのは 神さまに願うこと

  この地球上の子どもたちを お守りくださることを

  頼みます 私たちのために道を浄めてくださるように

 

  祈ります 祈ります

  エレグアの子どもたちは 祈ります

 

  この母は あなたがたに 祈るよう願います

  ラ・ビルヘン・デ・ラ・カリダー(慈悲の聖母)に 願います

  エレグアが 道をあけてくださるように

  祈るすべての子どもたちのために(1)

 

 歌が終わるたびに、ロドリゴはサトウキビ焼酎を瓶から飲み、葉巻を咥える。一座の者もグラスに入った焼酎をまわし飲みする。老女グロリアは祭壇の葉巻を一本手に取ると、ロウソクで火を点け、すぱすぱと喫(ルビ:す)って、あたりに煙をまき散らす。

 ときには、エスペランサが音頭を取って、歌を始めることもある。

 

  ルクミ ルクミ 私は コンゴ ルクミ

  ルクミ ルクミ 私は コンゴ ルクミ

  私はコンゴ ルクミ 私はコンゴ ルクミ

  私はコンゴ ルクミ 私はコンゴ ルクミ

  ルクミ ルクミ(2)

 

 サトウキビ焼酎の酔いも手伝って、何曲も歌っているうちにだんだんその場が熱を帯びてくる。葉巻の煙が漂う薄暗い部屋に、ロウソクの灯りだけが揺らめく。その灯りを見ていると、赤い風船のように大きく膨れたり小さく縮んだりする。

 すると、ロドリゴがいきなり頭部と上半身を震わせて、何かに取り憑かれたかのように落ち着きがなくなり、老女がすばやく彼の身体を両腕で支える。

 依頼人の青年がそばに呼ばれる。死者の霊に囚われたブルへリアは、青年の顔を見据え、低くくぐもった声で何ごとかを呟(ルビ:つぶ)く。ただちに老女があいだに入り、青年の耳もとで通訳した。そのたびに青年は軽く頷(ルビ:うなず)く。

 私には何を言っているのか分からなかった。もっとも、私などに分かる必要もなかった。青年だけに貴重な言葉なのだから。

 老女グロリアが哺乳瓶に入った香水をロドリゴの首の襟足あたりに吹き飛ばすと、ようやく彼は正気を取り戻す。

 それから、ロドリゴは、私を含めて一座の者たちを全員、祭壇の前に呼び、一人ずつガホスの束で頭から足まで身体を浄めて、お祓(ルビ:はら)いをした。

 儀式が始まってから、ゆうに二時間は経っていた。なぜか、私はスポーツをしたときのように、すがすがしい疲労感を感じていた。この非日常的な空間の中で、依頼人の青年だけでなく、誰もが人生をリセットしていたのだった。(つづく)

 

(1)この歌には、アフロ信仰とカトリック信仰の両方の神さま(エレグアと慈悲の聖母)が出てくる。エレグアはアフロ信仰の精霊の一人で、家の玄関や交差点を根城にして、人々に幸運や不運を、旅の安全や事故をもたらすと言われている。アトチャの聖フランシスコをはじめ、カトリック教会の何人かの聖徒と習合している。アフロ儀式は、エレグアに捧げる歌で始めることが多い。

 一方、慈悲の聖母とは、エル・コブレのカトリック教会に祀られている褐色の聖母のことだ。出産や黄金を司る、アフロ信仰の女神オチュンと習合している。

(2)ルクミは、西アフリカの現ダホメ共和国出身のヨルバ語系の人々。コンゴは、中央アフリカ出身のバンツー語系の人々。ともに、奴隷貿易でカリブ海に連れてこられたディアスポラの民で、言語も文化も違う人々だ。カリブ海の植民地の奴隷として、サトウキビ畑や鉱山で働かされてきたが、サンティアゴをはじめとするキューバ東部ではコンゴ系が多い。

 

(『四重奏』第4号(2013年6月5日)2−9頁より)

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