「窮極の一冊」 隠し絵のような光彩を放つ
吉田朋正編『照応と総合 土岐恒二個人著作集+シンポジウム』(小鳥遊書房)
ポルトガルの詩人・フェルナンド・ペソアは、まるで多重人格者を地でゆくかのように、いくつものペンネームを持ち、さまざまな文学的ペルソナを演じた。土岐恒二は、名前こそ変えないが、長い論文も短い評論も翻訳もこなし、好みの詩人や作家も多様性に富み、ペソア顔負けの八面六臂の多才な芸を見せる。
ペソアが多言語に通じていたように、土岐もおそらく英語以外にスペイン語やフランス語などの外国語にも堪能だったはずである。そのことが彼を狭い専門領域にとどめなかった要因の一つであるように思える。
神秘主義者スウェーデンボリのいう「普遍的類似」の影響を受けたボードレールやブレイクの「照応理論(コレスポンダンス)」を研究するうちに、土岐も自身の書き物に「照応理論」を取り入れ、自家薬籠中のものにしていたようだ。
伝統的に専門性を重んじる英文学の世界において、世紀末文学やロマン主義文学に造詣が深く、オスカー・ワイルド、ウォルター・ペイター、ウィリアム・ブレイク、ワーズワース、コーリッジ、W ・B・イェイツについての論考がひときわ光彩を放つ。だが、それらの著作は一種の「隠し絵」なのだ。つねにフランスのボードレールやランボーの詩の思想や、ラテンアメリカのボルヘスやコルターサル、米国の象徴主義詩人・エズラ・パウンドの詩論がキャンバスの下地に塗り込まれているからだ。
まず、土岐が「ペイターの中心思想」と指摘する「消滅への憬れ」を見てみればよい。過去は消滅したとしても、現代によって影響を受け蘇るというパラドックスを主題にした絵画(著作)があるとしよう。土岐によれば、ペイターは古典を「世代が交替するごとに更新される「現代性」」を帯びたものだと捉えていて、そのことを未完の長編『ガストン・ド・ラトゥール』によって示そうとしたという。だが、そうしたパラドックスを描いた絵の下地には、ボードレールのいう古典的な芸術作品の「現代性」という思想が隠されている。ボードレール曰く、「現代性とは、一時的なもの、うつろい易いもの、偶発的なもので、これが芸術の半分をなし、他の半分が、永遠なもの、不易なものである。昔の画家一人一人にとって、一個ずつの現代性があったのだ」(242)と。
次に、土岐は「廃墟、遺跡、遺物、墳墓、墓碑銘、古写本、美術品の破片、日記といった、時間の海に洗われて消滅してゆく過程においてかろうじて消えのこった壮麗な過去の残闕(ざんけつ)」(216)(「ウォルター・ペイターの印象批評」)こそ、ペイターの創作の原動力だという。そうした欠片・断片こそ過去の大いなる栄光や汚辱を映し出す鏡だという発想は、ボルヘス読解の鍵として提示される「迷宮の構造式」に通じるものだ。すなわち、それは「部分が全体を、縮小が極大」を反映するという、もう一つのパラドックスである。ボルヘスは文学の媒体である言語の細部(極小)をつき詰めていけば、宇宙(極大)にたどり着くと考えた。小さな図書館こそ大宇宙の象徴だった。
さらに言えば、土岐がボルヘス全集における同一作品の重複採録の謎を解き明かすために持ち出す、作家の「パリンプセスト理論」とは、前に書いた文字を消してその上に重ね書きすることだが、それはボードレールのいう「窮極の書物」「ある一冊の絶対的書物」という観念と「照応」する。
おそらく土岐は、すぐれた文学論は、そうした「パリンプセスト理論」に基づくものだと考えていたはずである。詩人や作家の作品に上書きする文学作品としての文学論を目指したと思われる。なぜなら、土岐の著述には自身の手になる日本語の素晴らしい引用が散りばめられているからだ。読者にとっては、土岐の論考を読みながら、詩人や作家の残した「宝石」の輝きに触れることができる。
土岐は広大かつ多様な領野を切り拓くにあたって、世紀末やモダニズムの英米文学であれ、現代ラテンアメリカ文学であれ、一見別のものの中に共通点を見つける、折口信夫のいう「類化性能」を駆使して、浩瀚な著述を残した。それが「照応理論」に基づく「隠し絵」だった。
編者・吉田朋正は、それらの遺稿を分類・整理するという非凡な「別化性能」を発揮して大部な本に「統合」した。この仕事によって、類稀なるユニークな「窮極の書物」が出来あがった。誠に慶賀に堪えない祝事(ほぎごと)である。
初出 『図書新聞』2021年2月6日
吉田朋正編『照応と総合 土岐恒二個人著作集+シンポジウム』(小鳥遊書房)
ポルトガルの詩人・フェルナンド・ペソアは、まるで多重人格者を地でゆくかのように、いくつものペンネームを持ち、さまざまな文学的ペルソナを演じた。土岐恒二は、名前こそ変えないが、長い論文も短い評論も翻訳もこなし、好みの詩人や作家も多様性に富み、ペソア顔負けの八面六臂の多才な芸を見せる。
ペソアが多言語に通じていたように、土岐もおそらく英語以外にスペイン語やフランス語などの外国語にも堪能だったはずである。そのことが彼を狭い専門領域にとどめなかった要因の一つであるように思える。
神秘主義者スウェーデンボリのいう「普遍的類似」の影響を受けたボードレールやブレイクの「照応理論(コレスポンダンス)」を研究するうちに、土岐も自身の書き物に「照応理論」を取り入れ、自家薬籠中のものにしていたようだ。
伝統的に専門性を重んじる英文学の世界において、世紀末文学やロマン主義文学に造詣が深く、オスカー・ワイルド、ウォルター・ペイター、ウィリアム・ブレイク、ワーズワース、コーリッジ、W ・B・イェイツについての論考がひときわ光彩を放つ。だが、それらの著作は一種の「隠し絵」なのだ。つねにフランスのボードレールやランボーの詩の思想や、ラテンアメリカのボルヘスやコルターサル、米国の象徴主義詩人・エズラ・パウンドの詩論がキャンバスの下地に塗り込まれているからだ。
まず、土岐が「ペイターの中心思想」と指摘する「消滅への憬れ」を見てみればよい。過去は消滅したとしても、現代によって影響を受け蘇るというパラドックスを主題にした絵画(著作)があるとしよう。土岐によれば、ペイターは古典を「世代が交替するごとに更新される「現代性」」を帯びたものだと捉えていて、そのことを未完の長編『ガストン・ド・ラトゥール』によって示そうとしたという。だが、そうしたパラドックスを描いた絵の下地には、ボードレールのいう古典的な芸術作品の「現代性」という思想が隠されている。ボードレール曰く、「現代性とは、一時的なもの、うつろい易いもの、偶発的なもので、これが芸術の半分をなし、他の半分が、永遠なもの、不易なものである。昔の画家一人一人にとって、一個ずつの現代性があったのだ」(242)と。
次に、土岐は「廃墟、遺跡、遺物、墳墓、墓碑銘、古写本、美術品の破片、日記といった、時間の海に洗われて消滅してゆく過程においてかろうじて消えのこった壮麗な過去の残闕(ざんけつ)」(216)(「ウォルター・ペイターの印象批評」)こそ、ペイターの創作の原動力だという。そうした欠片・断片こそ過去の大いなる栄光や汚辱を映し出す鏡だという発想は、ボルヘス読解の鍵として提示される「迷宮の構造式」に通じるものだ。すなわち、それは「部分が全体を、縮小が極大」を反映するという、もう一つのパラドックスである。ボルヘスは文学の媒体である言語の細部(極小)をつき詰めていけば、宇宙(極大)にたどり着くと考えた。小さな図書館こそ大宇宙の象徴だった。
さらに言えば、土岐がボルヘス全集における同一作品の重複採録の謎を解き明かすために持ち出す、作家の「パリンプセスト理論」とは、前に書いた文字を消してその上に重ね書きすることだが、それはボードレールのいう「窮極の書物」「ある一冊の絶対的書物」という観念と「照応」する。
おそらく土岐は、すぐれた文学論は、そうした「パリンプセスト理論」に基づくものだと考えていたはずである。詩人や作家の作品に上書きする文学作品としての文学論を目指したと思われる。なぜなら、土岐の著述には自身の手になる日本語の素晴らしい引用が散りばめられているからだ。読者にとっては、土岐の論考を読みながら、詩人や作家の残した「宝石」の輝きに触れることができる。
土岐は広大かつ多様な領野を切り拓くにあたって、世紀末やモダニズムの英米文学であれ、現代ラテンアメリカ文学であれ、一見別のものの中に共通点を見つける、折口信夫のいう「類化性能」を駆使して、浩瀚な著述を残した。それが「照応理論」に基づく「隠し絵」だった。
編者・吉田朋正は、それらの遺稿を分類・整理するという非凡な「別化性能」を発揮して大部な本に「統合」した。この仕事によって、類稀なるユニークな「窮極の書物」が出来あがった。誠に慶賀に堪えない祝事(ほぎごと)である。
初出 『図書新聞』2021年2月6日