越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

書評 吉田朋正編『照応と統合 土岐恒二個人著作集+シンポジウム』

2021年05月10日 | 書評
「窮極の一冊」  隠し絵のような光彩を放つ   
吉田朋正編『照応と総合 土岐恒二個人著作集+シンポジウム』(小鳥遊書房)

 ポルトガルの詩人・フェルナンド・ペソアは、まるで多重人格者を地でゆくかのように、いくつものペンネームを持ち、さまざまな文学的ペルソナを演じた。土岐恒二は、名前こそ変えないが、長い論文も短い評論も翻訳もこなし、好みの詩人や作家も多様性に富み、ペソア顔負けの八面六臂の多才な芸を見せる。

 ペソアが多言語に通じていたように、土岐もおそらく英語以外にスペイン語やフランス語などの外国語にも堪能だったはずである。そのことが彼を狭い専門領域にとどめなかった要因の一つであるように思える。

 神秘主義者スウェーデンボリのいう「普遍的類似」の影響を受けたボードレールやブレイクの「照応理論(コレスポンダンス)」を研究するうちに、土岐も自身の書き物に「照応理論」を取り入れ、自家薬籠中のものにしていたようだ。

 伝統的に専門性を重んじる英文学の世界において、世紀末文学やロマン主義文学に造詣が深く、オスカー・ワイルド、ウォルター・ペイター、ウィリアム・ブレイク、ワーズワース、コーリッジ、W ・B・イェイツについての論考がひときわ光彩を放つ。だが、それらの著作は一種の「隠し絵」なのだ。つねにフランスのボードレールやランボーの詩の思想や、ラテンアメリカのボルヘスやコルターサル、米国の象徴主義詩人・エズラ・パウンドの詩論がキャンバスの下地に塗り込まれているからだ。

まず、土岐が「ペイターの中心思想」と指摘する「消滅への憬れ」を見てみればよい。過去は消滅したとしても、現代によって影響を受け蘇るというパラドックスを主題にした絵画(著作)があるとしよう。土岐によれば、ペイターは古典を「世代が交替するごとに更新される「現代性」」を帯びたものだと捉えていて、そのことを未完の長編『ガストン・ド・ラトゥール』によって示そうとしたという。だが、そうしたパラドックスを描いた絵の下地には、ボードレールのいう古典的な芸術作品の「現代性」という思想が隠されている。ボードレール曰く、「現代性とは、一時的なもの、うつろい易いもの、偶発的なもので、これが芸術の半分をなし、他の半分が、永遠なもの、不易なものである。昔の画家一人一人にとって、一個ずつの現代性があったのだ」(242)と。

次に、土岐は「廃墟、遺跡、遺物、墳墓、墓碑銘、古写本、美術品の破片、日記といった、時間の海に洗われて消滅してゆく過程においてかろうじて消えのこった壮麗な過去の残闕(ざんけつ)」(216)(「ウォルター・ペイターの印象批評」)こそ、ペイターの創作の原動力だという。そうした欠片・断片こそ過去の大いなる栄光や汚辱を映し出す鏡だという発想は、ボルヘス読解の鍵として提示される「迷宮の構造式」に通じるものだ。すなわち、それは「部分が全体を、縮小が極大」を反映するという、もう一つのパラドックスである。ボルヘスは文学の媒体である言語の細部(極小)をつき詰めていけば、宇宙(極大)にたどり着くと考えた。小さな図書館こそ大宇宙の象徴だった。

さらに言えば、土岐がボルヘス全集における同一作品の重複採録の謎を解き明かすために持ち出す、作家の「パリンプセスト理論」とは、前に書いた文字を消してその上に重ね書きすることだが、それはボードレールのいう「窮極の書物」「ある一冊の絶対的書物」という観念と「照応」する。

 おそらく土岐は、すぐれた文学論は、そうした「パリンプセスト理論」に基づくものだと考えていたはずである。詩人や作家の作品に上書きする文学作品としての文学論を目指したと思われる。なぜなら、土岐の著述には自身の手になる日本語の素晴らしい引用が散りばめられているからだ。読者にとっては、土岐の論考を読みながら、詩人や作家の残した「宝石」の輝きに触れることができる。

 土岐は広大かつ多様な領野を切り拓くにあたって、世紀末やモダニズムの英米文学であれ、現代ラテンアメリカ文学であれ、一見別のものの中に共通点を見つける、折口信夫のいう「類化性能」を駆使して、浩瀚な著述を残した。それが「照応理論」に基づく「隠し絵」だった。

編者・吉田朋正は、それらの遺稿を分類・整理するという非凡な「別化性能」を発揮して大部な本に「統合」した。この仕事によって、類稀なるユニークな「窮極の書物」が出来あがった。誠に慶賀に堪えない祝事(ほぎごと)である。
初出 『図書新聞』2021年2月6日

映画評 クリスティアン・ペッツォルト監督『水を抱く女』

2021年05月10日 | 映画

よみがえる「水の精」の神話  
クリスティアン・ペッツォルト監督『水を抱く女』
越川芳明

 ひと組の男女が朝のカフェ・レストランのテラス席にいる。男が別れ話を持ちだしているらしく、女のほうは別れたくない様子だ。そのうち、女が仕事に向かわねばならない時間がきてしまう。

 女の名前はウンディーネといい、レストランに隣接している博物館でガイドとして働いている。巨大な都市模型を前にして、ベルリンの都市開発の歴史や思想などを解説するのだ。静かにゆっくりと話す姿から彼女の知的な人間性が浮かびあがる。

 三十分ほどのガイドの仕事を終えて、カフェに戻ってみると、すでに男の姿はない。その男の名はヨハネスといい、後でわかるが、富裕層に属し、プール付きの大邸宅に住み、女癖も悪い。

 ウンディーネは、後を追ってきたもう一人の男にお茶に誘われる。彼の名前はクリストフといい、潜水作業員をしている素朴な男だ。地方のダム貯水池で、水中のタービンなど機械の修理や点検などをしているらしい。

 ここまで話すと、通俗的な「恋愛の三角関係」をテーマにしている映画に思われるかもしれないが、同監督の『東ベルリンから来た女』(二〇一二年)でもそうであったように、そうしたテーマは表層でしかない。ベルリンの壁の崩壊後の世界から、それ以前の過去(東ドイツの現実)に光を当ててステレオタイプな解釈から救い出したように、監督は二十一世紀のベルリンを舞台に古代の「水の精」の神話をよみがえらせる。

 だが、すでに二百年以上も前に、ドイツロマン派のフリードリヒ・フケーが中世の騎士道物語形式を用いて、その神話の復活を試みている。ゲーテによって絶賛されたという、『ウンディーネ』(一八一一年)という小説は今も世界中で読み継がれ、一つの神話モデルに定着している。その影響は他ジャンルにも波及し、幻想小説の鬼才E ・T・ A・ホフマンや、ロシアの作曲家チャイコフスキーによってオペラに仕立てられたりしている。

 それでは、どうしていま監督はこの神話をよみがえらせようとするのだろうか。近代科学の発達した時代において、私たちは古代の人々が身のまわりの世界に見ていた「目に見えない力」(例えば、精霊)を看過しやすい。目に見えない存在を迷信や俗信とみなして、人間の知性を過信しがちだ。だが、人間の知性がカヴァーできる領域は限られている。科学によって宇宙のすべてが解明できるわけではない。

 フケーの小説の「水の精」ウンディーネは、恋人の騎士にこのように説明する。
「四大の精霊のなかには、ほとんどあなたがた人間と同じ外見をしていながら、あなたがたの前にはめったに姿を現さない精霊がいます。炎のなかで戯れ輝くのは、妖異な火竜のサラマンダーです。地中奥深くには、痩せこけた狡賢(ずるがしこ)い地霊グノームが潜んでいます。森のなかを飛びまわって番をする森の精は、風の世界の住人です。海や湖、川や渓流には水の精という広く知られた種族がいます」(フケー『水の精(ウンディーネ)』光文社古典新訳文庫、88-89)

 映画のなかのウンディーネは、自分が「水の精」であることを告白したりしないが、水にまつわるエピソードは、数多く出てくる。まず、潜水作業員クリストフと初めて遭ったとき、レストランの入口ホールにある大きな水槽が倒壊して、下にいる二人が水浸しになる。この出来事が縁になり、二人は付き合い始める。

 また、クリストフが仕事で潜るダムの貯水池の中には、ウンディーネの仲間(もう一人の「水の精」)とも思える巨大なまずが棲んでいる。クリストフは、何度かその堂々とした池の主の姿を目撃する。

 さらに、ガイドをしているウンディーネの口から、ベルリンという都市の考古学的な知見がもたらされる。ベルリンという名称は、スラブ語で「沼」や「沼の乾いた場所」を意味するのだ、と。映画には登場しないが、シュプレー川がベルリンの市街地を流れている。もしウンディーネの仕事場が国立博物館だとすると、それはこの川沿いにある。

 ウンディーネが都市開発の歴史の専門家であるという設定は、注目に値する。今は無機物のコンクリートの道路と建物に覆われていたとしても、シュプレー川を中心にしたベルリンの土地は、古代人や中世人にはどのように使われていたのか。機能主義的な都市開発が行なわれたベルリンの地勢図を「アースダイバー」(中沢新一)してみれば、古代や中世との繋がりが見えてくるはずだからだ。その意味で、面白いのはウンディーネが専門外の建物の説明をしなければならないシーンが出てくることだ。それは、つい最近オープンしたばかりの「フンボルト・フォーラム」と呼ばれる複合文化施設である。シュプレー川に面した一角にあり、もともとは中世に造られ、歴代の君主によって改造や増築を繰り返され、第二次大戦で消失したベルリン王宮を復元したものである。人は絶えず「過去」を再利用(リサイクル)しているのである。

 英文学者の鈴木雅之は、ある論文の中で、神秘主義者のスヴェーデンボリを援用して次のように述べている。すなわち、霊界とは霊と天使が住む世界であり、自然界とは人間が住む世界である。霊界は自然界に先立って創造され、自然界のすべては何らかの仕方で霊界と「照応(コレスポンド)」する。霊界と自然界の照応関係は、いわゆる論理的思考による「因果関係」ではなく、何か非直線的な「縁」のようなもので結ばれた関係である・・・。(鈴木雅之「見えざる世界の証明」吉川朗子・川津雅江編著『トランスアトランティック・エコロジー』彩流社、2019年)

 このようなスヴェーデンボリの「照応理論」を考慮に入れると、この映画はペッツォルト監督が現代の女性に「水の精」との「照応」を見いだし、作りあげた物語であると言えるかもしれない。今後は「地の精」と「風の精」をモチーフにした作品が予定されており、合わせて「精霊三部作」になるそうだ。

初出は『すばる』2021年4月号

映画評 ペマ・ツェテン監督『羊飼いと風船』

2021年05月10日 | 映画


伝統と近代化のはざまに苦しむ辺境の女性
ペマ・ツェテン監督『羊飼いと風船』
越川芳明

ここはヒマラヤ山脈の北に広がるチベット自治区の高原地帯。辺境に暮らすチベット族はだいたいが伝統的な牧畜に従事しているという。

本作に登場するのは三世代にわたる家族で、現代のチベット族の典型的な家族と言えるかもしれない。父タルギェと妻ドルカル、タルギェの老父、そして子供三人である。

冒頭で「中国政府は、一九八〇年代から家族計画を実施した」というクレジットが流れる。中国の人口動態に詳しい若林敬子によれば、中国が一人っ子政策を始めたとき、チベット自治区の遊牧民の少数民族は四人まで子供を持つことを許されていたらしい(「中国少数民族の人口研究序説」国立社会保障・人口問題研究所、一九八八年)。

そうした家族構成の変化は、牧畜の働き手としての子供をたくさん産むことを義務づけられた女性たちの意識をも変化させる。夫にタバコや酒以外に気晴らしがないように、妻ドルカルも、日常の家事の他に羊の世話で忙しく余暇を楽しむ余裕などはない。だが、夫婦は乏しいお金を使ってでも子供たちに教育を受けさせようとする。

この家庭でも長男ジャムヤンは、家を離れて都会の寄宿中学校にいる。親たちは牧畜以外の仕事に就かせようとしているのかもしれない。

伝統的な暮らしの変容と言えば、昔は交通手段として馬を使っていたが、今では、タルギェもドルカルもオートバイを乗りまわしている。これは近代化の象徴なのかもしれないが、何千年と続いてきた遊牧のための土地が国家戦略で縮小させられて、狭い土地に定住せざるをえなくなった結果、わざわざ馬で移動する必要がなくなったのだ。

映画には一貫してチベットの「伝統と近代化」というテーマが流れている。その一つの変奏として、宗教と科学の対立がある。チベット族に根づく仏教の教えと、医療の浸透とが時にはげしくぶつかりあう。

仏教の教えを説くのは、妻ドルカルの妹シャンチュと老父である。シャンチュは恋愛に破綻をきたし出家して尼僧になっている。お寺の本堂の修理がおこなわれることになり、近隣の住民たちに寄進を募りに帰ってくる。

かたや字の読めない老父は、羊の皮をなめすときにもひたすら呪文を唱えている。これは、観世音菩薩の慈悲を説くマントラ(真言)の一種で、チベット語で六文字となることから「六字真言」ともいわれる。これを飽きずに一億回唱えると成仏して、その後、この世の誰かに転生できるという考えだ。この二人によれば、長男は亡くなった祖母と同じホクロが背中にあるので、祖母の生まれ変わりだという。

一方、科学を代表する人物は、ドルカルが避妊手術を頼みにいく診療所の女医だ。女医は、自分には子供が一人しかいないが、それでもなんの不都合もない、とドルカルに告げる。都市社会で男性と対等に生きている、合理的な現代人である。四人目の子を宿したドルカルに中絶を勧める際も、まったくブレがない。科学の「進歩」というイデオロギーを信奉しているからだ。

かくして、ドルカルはその胎児が急死した老父の生まれ変わりであると信じる妹や夫、長男から産むように言われ、一方、女医からは産んではいけないと言われ板挟みにあう。

ところで、ツェテン監督は漢語とチベット語の両言語で書くことのできるバイリンガル作家である。本作は彼自身の小説を映画化したものだ。それは『すばる』二〇二〇年三月号に、大川謙作によって翻訳された「風船」である。大川の解説によれば、小説は漢語で書かれているというが、映画はチベット語である。ツェテンは「チベット語母語映画の創始者として国際的に名高い映画監督」だという。

両言語に堪能であるということは、漢族とチベット族の双方を外から見られるということで、「他者」の視点を生かした創作が可能になる。たとえば、ドルカルの中絶についても、ドルカルの深い悩みに寄り添う。決して「宗教」や「科学」のイデオロギーのどちらかにくみしたりしない。

さて、原作と映画とでは、大きく異なるシーンも出てくる。ここでは三つだけ取りあげておこう。一つは、尼僧になった妹シャンチュだが、小説では尼僧になった動機は明かされないが、映画でははっきりと男女関係のもつれが原因であるとわかるようになっている。相手の男性が長男の学校の先生として登場する。

辺境に暮らすチベット族は、従来、未婚率も高かったといわれるが、この二人のエピソードは、都市に暮らすチベット族の現代の「家族問題」、とりわけ自由恋愛と離婚に言及しているのだろうか。

二つめは、長男を都会の寄宿学校に連れていった後に、タルギェが雨の中しばし文成公主(ぶんせいこうしゅ)の大きな像の前で佇むシーンである。文成公主は、七世紀の唐の時代に、中国からチベットに嫁いできた女性で、チベットと唐との和親に貢献したと言われる。だから、このシーンは遊牧民のチベット族文化を代表するようなタルギェが、中国文化(妻の中絶の決断)を理解しようとした瞬間なのだろうか。

三つめは、父親が町で買ってきた赤い風船が空に飛んでいってしまうシーンだ。小説では、飛んでいく風船を眺めるのは子供たちだけだ。父親にねだってせっかく手に入れたものなのに、取り合いをしているうちに飛んでいってしまう。その風船には、子供たちの後悔や失望、父親の徒労感が重なるような気がする。

一方、映画では、子供たちだけでなく、登場人物たちのほとんどが空を見あげている。僕には、飛んでいく風船は亡くなった老人の魂、あるいは、老人の「生まれ変わり」として生まれてくるはずだった赤子の魂の象徴のように思える。ドルカルは中絶するが、その後、妹に連れられて山籠りを決心するので、女医と違ってドライでなく、死者の霊魂は信じている。

最後に特筆すべきことに、チベットの大自然の美しさをことさらに誇示するような映像が一切出てこない。むしろ雨にぬかるんだ舗装されていない道路や布団をしまう場所もないほど手狭な家の中など、地を這うリアリズムの手法で撮られている。そんな中で、この風船の飛んでいくシーンだけはあまりに幻想的で、一瞬だけ観客に想像する機会を与え、多義的な解釈の余地を残す。

牧畜に従事するチベット族の女性の生きづらさに焦点を当てながら、国家戦略としての近代化のしわ寄せを食ってしまう辺境に暮らす女性たちにも思いを寄せることができる素晴らしいボーダー映画である。2625字 6枚半 ゲラで25行オーバー。
『すばる』2021年1月号に加筆。