越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

映画評 テオドラ・アナ・ミハイ監督『母の聖戦』 

2023年04月12日 | 映画
ひとりの「民間人」女性の戦い
テオドラ・アナ・ミハイ監督『母の聖戦』 
越川芳明

十代の少女の顔がアップで映される。少女はキッチンで母に化粧をしてあげているようだ。

母はコンロにかけた鍋料理の具合を見にいき、「今夜の食事はどうするの?」と、娘に尋ねる。

娘はこれからボーイフレンドとデートの約束がある、と答える。

冒頭のこのような平凡なショットが示唆するように、母と娘の日常生活は平穏そうだし、二人の仲もよさそうだ。

母の名前は、シエロという。シエロは普通名詞だと、スペイン語で空・天国といった意味になる。

娘にとって母は空(天国)のような、かけがえのない存在なのだろうか。

母が調理場から戻り、娘が自分の携帯に、おそらくボーイフレンドから送られてきたメッセージを読むところで、「天国」は皮肉な意味を帯び始める。

娘が笑って面白がるメッセージとはこうだ――
 「寝ぼけているイヴが『ここはどこ?』と聞く。すると、アダムが答える。『俺たちは服も家も金も仕事もない。でも人々はここを天国と(呼ぶ)。本当はメキシコなのに! 』」

これは、貧富の差が激しい犯罪天国メキシコを皮肉るブラック・ジョークである。

この映画は天国と地獄をめぐる現代風の寓話とみなすことができる。天国と地獄は、キリスト教の二元論(正義と悪)で割り切れるようなものではなく、もっと複雑である。言い換えれば、天国と地獄は背中合わせであるかもしれない。
 
というのも、母シエロは、ただちに「地獄」に突き落とされ、暗黒の恐怖にさいなまれるからだ。

デートに出かけたはずの娘がどこかに失踪し、シエロのもとにギャングの手先がやってくる。かれらは法外な身代金を要求し、もし警察や軍に知らせたら、娘の命はないものと思え、と冷酷に告げる。

メキシコの国境地帯では、一九九四年に発効したNAFTA(北米自由貿易協定)以降に、武装した麻薬カルテルやギャングによるものと思われる女性の殺人事件や死体遺棄事件が頻発した。

その後、それらの組織に代わって、メキシコ各地で地方のギャング団がいくつも台頭し、抗争を繰り返すようになった。

かれらは麻薬の密売や人身売買、誘拐、みかじめ料の要求などによって、市民生活を脅(おびや)かしている。

警察はまったく頼りにならず、市民は、一言でいえば、不条理な「暴力」に晒されているのだ。

本作がテーマにしている、身代金目当ての誘拐事件は、二〇二一年にメキシコ全土で六百件あまり起こっている。

しかし、これは公的な数字であり、実際は報復を恐れて、警察には届けない人が多い。

メキシコの国立統計地理情報院(INEGI)によれば、警察への届出率は一・六パーセントにみたないという。

現実には、年間で、三万件から四万件の誘拐事件が起こっていると推定される。

また、都市部では、流しのタクシーでお客の身柄を拘束してATMに連れてゆき、持っているキャッシュカードやクレジットカードで現金を引き出させる、

短時間の誘拐もある。そのような手口は「特急誘拐」とか「稲妻誘拐」とか呼ばれる。

本作は娘の誘拐事件をきっかけに、武器を持たない一介の主婦が、娘を取り戻そうと奮闘するプロセスを描く。

原題は、スペイン語で「ラ・シビル」という。意味は「民間人」だ。武器を持つ「軍人」に対して、シエロは「民間人」である。

だが、シエロは身代金を払うも、娘を返してもらえず、警察に相談したためにギャングに家を襲撃され、車も燃やされてしまう。事ここに及んで、ようやく母は軍と手を組むことを決心する。

着任したばかりでこの地方の事情に詳しくない軍隊の指揮官(ラマルケ中尉)の提案で、シエロは軍への情報提供者になり、軍隊と一緒にギャングのアジトに乗り込む。

天国と地獄が単純でないように、作中で描かれる「民間人」と「軍人」の境界も曖昧である。

シエロは知らないうちにこの世界の「暴力」に加担せざるを得なくなるのだ。

この映画は、表向きはメキシコの誘拐事件(目に見える暴力)を扱っているが、細部に目を向けると、メキシコ社会のさまざまな「障害(バリア)」(目に見えない暴力)が見えてくる。

そのひとつは、拭いがたい男尊女卑のマチスモである。

たとえば、シエロと夫のあいだの夫婦関係にそれは見られる。

夫グスタボは、若い愛人を作って別の家に住み、シエロとは別居状態である。

娘の誘拐事件があったときも、娘を外出させた妻のせいにするばかりで役に立たない。

また、テレビニュースを見たシエロが娘の遺体を探しにいく葬儀屋の女性も、この社会のマチスモの犠牲者だ。

彼女はギャングから、ある娘の遺体を引き取るので高級な棺桶を用意しろと告げられる。

もちろんギャングにその代金を払う気などはなく、彼女が負担しなければならない。

シエロの娘がガラスケースの中に飼っているペットのカメレオンの映像が三度出てくる。

シエロも葬儀屋の女性も、ある意味、ガラスケースの中のカメレオンと似ている。

カメレオンは背景に似せた体色変化をおこなって身を守るが、彼女たちもまた自己防衛のためにメキシコ社会のマチスモの色に染まりかねないからだ。

誘拐事件という犯罪や、マチスモという「目に見えない暴力」に対して、ひとりの「民間人」の女性が挑む姿を、安直な勧善懲悪(かんぜんちょうあく)の形式ではなく、繊細かつ複雑に描いた傑作である。
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映画評 ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督『トリとロキタ』

2023年04月11日 | 映画
孤立無援の「姉弟」の生と死
ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督『トリとロキタ』
越川芳明

アフリカ系のふたりの主人公は、ヨーロッパの都市に「難民」として暮らしている。

姉弟と偽って難民施設では同じ部屋にいる。幼い少年トリは、ベナン共和国の出身で、生まれてすぐに捨てられ、「難民認定ビザ」が降りている。一方、年上の少女ロキタは、家族に仕送りをする目的で、仲介業者に借金をしてカメルーンからやってきて、ビザはない。

冒頭のシーンで、ビザの申請をするロキタの顔がアップで映される。どうやって幼い頃に離ればなれになった弟を見つけたのか、難民審査のために、細部にわたる厳しい質問を受けつづけ、情緒不安定になる。

付き添っていた女性に促されて、ロキタはバッグから精神安定剤を取り出して、口に入れる。

何とかボロを出さないように、冷静さを保ちながら必死で答えを探そうとする少女の顔が映し出されるこのシーンで、観客は知らないうちに、この少女の心理と一体となっている。

ふたりが血を分けた姉弟以上に親密になるのは、この都会で他に頼る者がいないからだ。

孤独で不安にかられるとき、ロキタがベッドで歌ってくれる子守歌は、幼いトリにとって、癒しというより、これがないと生きていけない命綱なのだ。父も母も兄弟もいない身の上だから。

 おいで こっちに
 君のママだよ
 呼んで 慰めるから
 おいで ママのところに
 
 一方、ロキタにとっても状況は同じだ。
彼女が難民審査の口述試験をクリアできるように、トリは想定される質問をあれこれ出してあげる。

また、ロキタはイタリアレストランで客に向けて、カラオケで歌を歌って小銭を稼いでいるが、トリも一緒に歌う。

あるとき、ロキタはなけなしの金を仲介業者に奪われ、仕送りができなくなってしまう。

母に謝りの電話をすると、母からは厳しくなじられる。

孤立無援で自暴自棄になったとき、ロキタを慰め、立ち直らせてくれるのも、幼いトリである。

ロキタが違法のドラッグの運び屋をして仕送りの金を貯めるのを、夜遅く門限ギリギリまでトリが手伝う。

そのように行動を共にし、警察に捕まる危険を共有することで、ふたりの心の絆は深まっていく。

ダルデンヌ兄弟の監督作品に共通しているのは、ロキタやトリのように社会の周縁に追いやられた女性や少年、少女に寄り添い、社会の「不寛容」を静かに訴える点だろう。

たとえば、『ある子供』(二〇〇五年)では、貧民街に住む若い母ソニアが、生後九日の我が子を恋人の男によって闇の組織(養子斡旋業)に売り飛ばされ、パニック障害を起こして救急病院に搬送される。

警察に発覚することを恐れた男は、売買の取り消しを訴えて、乳児を取り戻すことができたが、組織から違約金を払えと脅される。

男には職がなく、できるのは、物乞いや盗みぐらいであり、意を決して犯した盗みも失敗におわる。

『サンドラの週末』(二〇一四年)では、病気のために休職していた子育て中の若い女性サンドラが、会社に復職を拒まれる。

会社側は、同僚たちに自分たちのボーナスかサンドラの解雇かの窮極の二択を迫り、彼らに投票させて、一旦はサンドラの解雇を決める。

が、サンドラは社長に訴えて、再投票を認めさせる。

だが、彼女に与えられた時間は週末の二日だけ。

そのあいだに自分たちのボーナスを選んだ同僚たちを説得してまわらなければならない。絶望的な奮闘を強いられるのは、『トリとロキタ』と同じである。

右傾化した社会では、人道的な配慮を欠いた弱肉強食の発想で、社会的な弱者を切り捨てる言説が幅をきかせやすい。

ここに興味深い統計がある。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の発表によると、迫害や紛争、暴力、人権侵害などで故郷からの避難を強いられた人々の数は、二〇二一年末には約八千九百万人であるが、世界の難民の受け入れ国の八十三パーセントが低中所得国である。

受け入れ国では三百八十万人のトルコがトップであり、五位に百三十万人のドイツが入る。

そして、難民の約三十パーセント強の二千七百十万人が十八歳未満の子供たちである。

その中には、この映画のロキタのように、ビザのない人や「無国籍」の人々が何百万人もいて、教育やヘルスケア、雇用、移動の自由など、人間の基本的権利のない生活を強いられている。

恥ずべきことに、日本は人権意識の低い国として有名である。

二〇二一年には名古屋入管でスリランカ出身の女性が適切な医療を受けられずに死亡し、現在、国を相手どって訴訟が起こされている。

また、日本の出入国在留管理庁のウェブページ(二〇二二年五月十三日発表)によれば、難民の審査請求数(四千四十六人)のうち、難民として認定されたのは七十四人である。

後半にサスペンスに富んだシーンが連続する『トリとロキタ』は、エンターテイメントとしても面白いが、と同時に、観客に心の底から考えさせる優れたボーダー映画でもある。監督たちも言っている。

「……観客が、映画を見終えた後で、私たちの社会に蔓延する不正義に反旗を翻す気持ちになってくれたら……」と。
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