越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

書評 コラム・マッキャン『ゾリ』

2008年11月25日 | 小説
放浪者(ノマド)の女性の物語
コラム・マッキャン『ゾリ』(栩木伸明訳、みすず書房)
越川芳明

 本書は東欧のロマの女性を扱った読み応えのある小説だ。しかも、翻訳はまるでロマの金物細工みたいに、一言一句にまで心憎いほど技術が行き届いている。

 作家はロマの血を引く者ではない。アイルランド人の作家である。当事者でない作家が書くマイノリティの物語は、往々にして紋切り型のステレオタイプをなぞった物語になりやすく、それゆえに逆に、世間一般の覗き趣味を満たすものとして好評を博したりする。

 しかし、この小説は、その手のウケを狙ったものではない。ロマでない作家がロマについて書く難関を、語りの構造に工夫を凝らすことで巧みにくぐり抜けている。
 
 たとえば、作家は視点人物や語りの人称に工夫をこらす。一つに、作家自身を投影したと思えるスロヴァキア人のジャーナリストが登場する章を挿入して、ロマの人々にカモられる非ロマの文筆家の姿を被虐的にコミカルに描く。そうすることで、作家はロマに対するお気楽な思い込みを巧みに回避する。

 主人公の女性ゾリ(本名はマリエンカ・ボラ・ノヴォトナー)についても同様であり、ある章では一人称の「あたし」で、また別の章では三人称の「彼女」で語っている。

 作家は女主人公の内面と、外なる歴史的背景の両方から語ることで、20世紀の歴史(ドイツナチスやファシストによるロマの虐殺や、東西冷戦下の東欧社会)という大きなコンテクストの中でマイノリティの女性の生き方をしめしている。逆に言えば、この小説はヨーロッパ史を語られざるロマ史から影絵のように切り取ろうとしたものだ。
 
 この小説には、いかに飢餓に身を苛まれようとも時の体制がおしつける同化政策や定住政策などに屈しない気高いロマも、また平気でモノを盗んだり嘘をついたりするロマも出てくる。

 主人公のゾリはその両方の特質を有し、読み書きを覚えてはならないという一族の掟を破って永久追放の裁きを受けた、いわば汚染(マリメ)を被った女性だ。しかし、幼い頃に家族をファシストによる虐殺で失った彼女がもっとも大事にしているのは、彼女とともに唯一生き延びた祖父の言葉だ。

 「よく見てごらん、川の水は深く静かに流れてるだろう。川の流れは未来永劫変わらないんだ・・・そこにある水の流れは誰のものでもない。俺たちのものでさえないんだ」
 
 スロヴァキアのロマでありながら自らの仲間の中では生きられず、戦後も放浪を重ねてついにイタリアのチロル地方の山奥に最終的な生き場を得たノマド(放浪者)のゾリ。

 ロマと非ロマの二つの社会の狭間に生きることを余儀なくされた彼女の生き方は、今日、個人レベルでも国家レベルでも「川」を所有することに躍起になっている我々に鋭い問いを投げかけてくる。世界は誰のものなの、と。
(『エスクァイア日本版』2,009年1月号、29頁)

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書評 宇沢美子『ハシムラ東郷』

2008年11月22日 | 小説
「偽装」の日系人、アメリカ社会を笑う
 宇沢美子『ハシムラ東郷 イエローフェイスのアメリカ異人伝』(東京大学出版)を読む
 越川芳明

 日系人ハシムラ東郷は、二〇世紀の初めに米国の新聞や雑誌のコラムの書き手として登場した。彼の書いたコラムは、ユーモア文学の大家マーク・トエィンにも絶賛されるほど人気を博した。

 どこかおかしい日本人英語に、ばか丁寧な言い回し。中国人や日本人など黄禍論が盛んだったときは、「私たち日本人にも有色人排斥のお手伝いをさせてください」などと、トンでもないギャグをかましていた。

 自虐的なユーモアで自らを笑い者にしながら、同時に黒人や日系人らの少数民族の人たちを無能扱いする米国社会の人種差別を笑う仕掛けだったのだ。

 一人称で語るハシムラ東郷には、自分の顔かたちの描写がなかった。そのため、文章に添えられたイラストが米国の多様な価値観を反映していた。コラムやジャポニズムの人気を受けて、ハシムラ東郷を扱ったハリウッド映画が作られる一方、カリフォルニアでの排日運動を反映したような、差別意識のつよいゴリラまがいのハシムラ東郷のイラストも登場した。

 ところが、ハシムラ東郷とは、実は白人作家ウォラス・アーウィンによって生みだされた「偽装(イエローフェイス)」の日本人だった。ハシムラ東郷は、学僕(住み込みの家事手伝いによって学費を稼ぐ苦学生)という“設定”であり、その仕事は日系社会からも蔑視されていた。

 白人作家アーウィンは、そうした最下層の有色人の道化の仮面をかぶることで、自らへの批判を逃れ、社会風刺を繰り出すことができたのである。

 とりわけ、『グッド・ハウスキーピング』という中流女性向けの雑誌では、学僕という女性的役柄を活かし(男でありながら女の仕事をするという意味で、ジェンダー・クロッシングをして)米国家庭の奥深くに入り込む。そして、掃除機の使い方すら知らないなど、その無能さを笑われる一方で、笑うママたちの親バカぶりや人種偏見、マニュアル通りの子育てなどを笑い返す。

 米国は「白人キリスト教文明」の国という自民族のアイデンティティを確立するために、黒人やアジア人などが自分たちより劣った有色人種というステレオタイプ(紋切り型)を作り出してきた。そして、学問としては極めて怪しい優生学によって人種差別を正当化しようとした。

 一方、ハシムラ東郷は白人に憧れる、日系人たちの同化論すらも揶揄した。そのように社会的弱者すらも笑いのめしていることが「政治的な正しさ」という考えが浸透した今日、ハシムラ東郷を論じることを難しくしている、と宇沢は述べるが、その点こそがアーウィンの文章が文学として後の世まで生き残れなかった理由ではないのだろうか。つまり、作者の立ち位置が高すぎたのではないだろうか。

 結局、二十世紀前半に人気を誇ったハシムラ東郷のコラムは、米国における日本人のステレオタイプの形成を助長して終わった。ハシムラ東郷の名も秘めた意図も忘れ去られ、劣った日本人というイメージが残ってしまった。

 宇沢が十年も費やし、忘れられた「偽装の日本人」を追いかけた本書は、米国のマイノリティを題材にした非常にユニークで示唆に富む「文化研究」である。それはまた、わたしたち日本人が在日外国人に対して持つステレオタイプを考える上でも大いに参考になる試みと言えよう。
(『琉球新報』2008年11月16日付の原稿に若干手を加えました)

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民衆演劇ワークショップのお知らせ

2008年11月10日 | 音楽、踊り、祭り
下記の通り、放浪芸の第一人者・小沢昭一も顔負けの、フィリピンの生んだ<笑いの帝王>による民衆演劇ワークショップを行ないます。気楽に遊びにきてください。

 講師:Ernesto Nonato Cloma氏(フィリピン演劇教育協会PETA委員)
「社会・文化・教育活動としての演劇」(仮題)
 通訳:鈴木まり
 司会:越川芳明
 日時:11月19日(水)16時30分~18時
 場所:明治大学(お茶の水)アカデミー・コモン 8階A7-A8会議室
 参加費:無料(予約も不要)
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書評 古川日出男『聖家族』

2008年11月08日 | 小説
身体に刻まれた「歴史」の痕跡――古川日出男『聖家族』
越川芳明

「東北」は南か?

 この小説、北から青森、秋田、岩手、山形、宮城、福島の六県を舞台にした、時空間軸をSF的に飛翔するおそろしく分厚い「ロードノベル」を読みながら、ぼくは古川日出男の書く「東北」って、ずいぶん「南」っぽい、と感じていた。

 「東北」が「とうほぐ」と登場人物の声を借りて発音されるとき、なおさらそう感じるのである。そして、それがこの小説のすごいところだ、と思った。その理由(わけ)から話そう。

 たいていの日本人は、東北が首都のある東京から見て東北の方角にあるから東北と呼ばれていると思っているにちがいない。でも、日本の他の地方は、そういった方角では呼ばれないのに。たとえば、九州は日本の「南部」とは呼ばれないし、まして鹿児島や沖縄は、方角ですべての地域をしめす米国にならって、「深南部(ディープ・サウス)」などとは呼ばれない。なぜ東北地方だけが、方角で呼ばれるのか?

 それは、一口でいってしまえば、そこがただの地方ではないからだ。そこは中央から見て「鬼門」として、アイヌの北海道、南の沖縄と同じように、日本の歴史のなかではげしく周縁化(差別)されてきた土地であり、その土地に住む人々は違うコトバを話す異人種として、時の支配者に従わないものとして、中央政府から絶えず懼れられてきた存在だったからだ。そのため、平安以降たびたび、「征伐」が行なわれ、「東北」は迫害される。

「海に蔵(しま)われたもの。地に埋められたもの。歴史はさまざまな形で埋蔵さている。だから、『日本』史の欠片(かけら)は。葬られずに、再興のために埋蔵されもいる」(536頁)

 歴史上何度も裏切られてきた東北の、埋蔵された歴史を中央の視座ではなく、東北の視座で語り直す。あるいは、「とうほぐ」のコトバで日本史を語り直す。

 古川日出男がそう意図したであろうこの小説を読みながら、ぼくがイメージしたのは、15世紀末に端を発するヨーロッパの植民地政策でアフリカから根こそぎにされて新天地アメリカ(南北アメリカおよびカリブ海の島々)に奴隷として連れてこられた人々の、いわば歴史の敗者であるかれらの末裔が、自分たちのコトバで語り直した「世界史」あるいは「世界文学」だった。

 通常、それらの文学は、世界の南北問題にメスをいれる「ポストコロニアル」の文学と称されているが、それは「南」の敗者の視座から語られるものだ。勝者(征服者)でないがゆえに、文献という歴史学者が珍重する武器がない。

 その代わりに、それらが武器として使うのが敗者の家に伝わる口承伝説だ。伝説といっても、体系があるわけではない。むしろ、断片の集積であり、だからこそ、そうした断片を文学者(思想家)の想像力によって、一つの物語という「体系」に鍛えあげる力業が要求される。

 マルチニーク出身の「ポストコロニアル」の文学の重要な思想家(文学者)であるエドゥアール・グリッサンはそうした方法論を「痕跡の思想」と呼んでいる。

 「痕跡は地球の隠された表面の彼方で、かくも遠く、かくも近く、ここ-かしこで、生き残りの場の一つとして、ある者たちによって体験されてきた」(14頁)

 「痕跡とは枝と風を学ぶ不透明なやり方だ。自分でありつつ、他者へ流れつく。(15頁)

 「痕跡の思想はシステムの隘路から遠く離れたところへ行くことを可能にする」(15頁)
   (『全-世界論』恒川邦夫訳、みすず書房、2000年)

 それは、かつてのヨーロッパの帝国のように(あるいは、19世紀末から現在まで覇権主義を貫くアメリカのように)、他者を征服することで世界の中でおのれの特殊なアイデンティティを確立するのではなく、他者と自己の中に「雑種」の要素(関係性)を見いだすことで「他者」と手を結ぼうとする思想だ。

 古川の小説は、後で述べるように、必ずしも、正面切って「他者」と手を結ぼうとする人物たちを主人公としているわけではないが、しかし、そこに明確に示されているのは、「とうほぐ」が決して一枚岩でなく、人と文化が混じりあった土地であるということ、歴史上、その中に勝者も敗者も混在したこと、そうした混在の歴史が抹消されるのを防御しようとする意思だ。

 確かに、「南」の文学は「敗者」の歴史の掘り起こしをめざす。この小説でも、「北の端には南の端が孕まれていた」(40頁)と比喩的に表現される、明治初期における福島の会津藩士の青森への流刑(いわば、侍ディアスポラ)や、昭和四十年代の秋田の八郎潟(現在の大潟)の埋め立てによる開墾や入植政策と同時にしめされた政府の減反政策など、中央によって翻弄されてきた「敗者」としての東北の歴史が語られる。

 しかし、それでは、従来の「正史」を裏返しに語っただけで、ぜんぜん面白くない。東北がただ恨みつらみをいい募っているだけだから。だが、この小説のすぐれたところは、最近の学術調査によって、北の端にアイヌの北海道だけでなく、遠く中国や朝鮮半島とも交流(人と物)があったと立証されつつある、青森の津軽半島の「十三湊(とさみなと)」を取りあげて、もう一つの「とうほぐ」を妄想する点だ。十三湊は、鎌倉時代に豪族安東氏の拠点だったとされる。
 
 「十三湊の支配者は、この日の本を管掌する『日之本将軍』として室町幕府に承認されていた。武士団を率いる、土豪であった。ただし和人であった。にもかかわらず蝦夷(えみし)の血を引いた氏族だと、自ら主張し、系図も操作した。圧倒的な海上勢力を有して、この土豪は日の本に君臨した。
 アジアの東北にして『日本』の東北に」(124–25頁)

 「十三湊は超(傍点)国家的な東北アジアの商都としての顔も持ち、雑多な人々が混住しながら繁栄していた。和人にアイヌ、そして大陸の出身者。当時、大陸の王朝は明(みん)で、だから十三湊にいたのは明人だった。異民族の雑(ま)じる都だった。それがヒノモトの都だった」(597-98頁)
 
 さらにいえば、なぜか米国「南部」の黒人の話す英語(ある意味でクレオール化した)を東北方言で日本語に翻訳する「伝統」も日本にはあり、たとえば、マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』の黒人逃亡奴隷ジムの南部方言は、東北弁で訳されて、一部から何で東北弁なのか、東北を差別するのか、と批判されたりもしたが、それは訳者(あるいは作者)が差別に無自覚なだけであって、しかし、東北方言を古川のように自覚的に使えば、逆にそれは文学の武器にもなりうる。

 この小説も、ところどころで、東北弁がまじり、物語の断片がさらなる物語の断片を生み、自己増殖する「南」の「ポストコロニアル」の文学の方法論に基づいている。古川のコトバをもじっていえば、「んだから易々(やすやす)ど、空間の縛りさ超えっぺ」

多文化主義的な東北

 東北を旅していて、すぐに気づかされるのは、山形の「そば味噌」のように、調味料に独特の味わいがあるということだ。それらの重要なレシピの一つであるトウガラシが古くに人と共に朝鮮半島からやってきたということがすぐに我々の脳裏に喚起されるが、この小説でも、東北各地を放浪する兄弟が繰りひろげるご当地ラーメン談義の中に、異文化をみずからの懐に取り込んできた「多文化主義的な東北」の実態がひそかに語られている。

 一見外国など縁のなさそうなただの田舎町にすぎない(と思える)喜多方や白河などに、どうして異常なまでたくさんのラーメン屋が存在するのか。それは、従来の日本にはない味、あるいは新しい複雑な味を好む秘かな歴史があるのではないか。

 食べ物や道具をはじめとする文化は人と共にやってくる。だから、多文化主義の「とうほぐ」には、外国から来た人々もいた、と仮定できる。東北には、異人(まれびと)や異類、天狗、忍び、山伏、なまはげなど、外地からやってきたと想像される存在にこと欠かない。

 この小説で、重要な二つの家柄がこれにあたる。すなわち、青森のヤシャガシマ(あえて漢字をあててみれば、夜叉が島か?)の「狗塚」一族と、会津は郡山近郊のハチランシャマ(こちらは、「八亂射魔」と記されている)の「冠木(かぶき)」一族だ。

 いみじくも冠木十左が、鎧をかぶせたように瘤のできた自分の指に気づいた狗塚カナリアに、「この指は、歴史だ」とつぶやくように、どちらの一族も、明朝に中国から追放され、朝鮮半島をへて津軽に辿りつく劉達に流れをくむ拳術の血筋を有する。いわば、「歴史」を男の身体に刻み込んだ一族である。

 そして、女の役割はひたすらその血の「歴史」を継続させること、つまり孫を作ることに注がれる。狗塚家の白鳥(はくてう)が孫の雷鳥(らいてう)にいったという。「ヤシャガシマはこの世の中心」だ。「血統はね、絶えなければそれでよい」(54頁)と。

 なぜなら、かれらの歴史は日本の「正史」になることはなく、かれらの身体でしか継続できない「稗史(はいし)」だから。 

 この小説は、東北に渡来した異人(まれびと)の系譜に連なる人々の身体に刻まれた「歴史」の掘り起こしとも呼べるのだ。

 異人は、烏、犬、猫など鳥獣類と近親性があり、畏怖されると共に忌避される。この小説では、狗塚一族の末裔に三人きょうだいがいて、末の娘カナリアの上に長兄の牛一郎、次兄の羊二郎がいる。牛一郎は犬とりわけ白い犬と仲がよく、その犬に導かれて、危機を脱することができる。だから、犬の痛みも体感できる。

 日本史において、犬は異類として象徴的な存在である。大切にされすぎる時代(「生類憐れみの令」の江戸の綱吉政権下で)もあれば、ないがしろにされる時代もあったらしい。

 たとえば、本書は、狗塚一族の兄弟の会話の中に、その歴史を忍び込ませている。たとえば、戦前の話。

 なあ、羊二郎(どうしたの、兄さん?)ほら、この記述(これは、新聞だね。昭和の十九年の)十二月十七日の、朝日新聞の(犬の記事だね)悲惨な(悲惨な、犬の記事だね)そうだ。軍需省の化学局長と厚生省の衛生局長の連名で、地方長官宛に通牒が出された。出されたんだそうだ(犬の・・・犬の・・・)軍用犬と警察犬と天然記念物指定犬と登録猟犬を除いて、飼われている犬はのこらず献納されなければならないって。一頭のこらず(買い上げられるんだね。大(傍点あり)は三円。小(傍点あり)は一円)買い上げられる。もちろん強制的に(それから?)それから?(どうなるの?)
 殺されるよ。
 (殺される)
  毛皮がほしいんだ。
 (犬の毛皮)
 軍需物資だ。それが。殺されて皮を剥がれる。報国のため・・・国家に報いるために(それは犬の国家?)違うよ(違うの?)人間(ひと)の国家だよ(ヒトの?)日本人の(日本人の、ニホン?)帝国だ。大日本帝国だ。その聖戦だ(それは犬の聖戦?)違うよ」(383頁)

 ぼくはこのSF的想像力にみちた大作を読みながら、その各所にはめ込まれた日本史の「事実」らしきものは著者が丹念に調べあげたものだということを疑っていなかったが、この箇所だけは著者が空想で作りあげたエピソードなのか、それとも「史実」に基づくものなのか、気になった。そこで、図書館で朝日新聞の当該箇所を調べてみた。

 すると、昭和19年12月に、日本政府は、つぎのようなおふれを出していたのが分かった。「畜犬の“献納運動” 各地で買上げも行ふ」の見出しで以下のような記事があった。

 「軍需毛皮革の増産確保、狂犬病の根絶空襲時の危害除去をはかるため全國的に野犬の掃蕩、畜犬の供出の徹底を期することになり、軍需省化学局長、厚生省衛生局長の連名で各地方長官あて十五日附通牒を発した、軍用犬、警察犬、天然記念物の指定をうけたものおよび猟犬(登録したものに限る)を除く一切の畜犬はあげて献納もしくは供出させることとし、二十日から明年三月末日までに畜犬献納運動を断續的に実施させる

 献納、供出についてはあらかじめ町會、隣組常會を通じて趣旨の徹底を圖り、日時と場所を指定して献納の受入、供出の買上げを行ふが、買上価格は一頭につき大が三円、小は一円見當とする、なほ軍用犬、猟犬、警察犬などは一斉検診を行つて狂犬病豫防注射を行ひ、狂犬病の疑あるものは強制的に供出させる畜犬繋留期間中(各都府縣で公示)放置してある犬はすべて野犬とみなして捕獲されるから注意が肝要―」


 ここにいたって、ぼくは煌々と明かりのついた図書館のなかで、そこだけ真っ暗な異次元の場所に追放されたかのように、おそろしくなった。「妄想のとうほぐ」は、決して古川日出男の「妄想」ではなかったからだ。そして、この小説に完全に脱帽していた。
 
 「その書名が記載された公文書、あるいは史書や年代記はございません。これは公式(おもて)の歴史ではありませぬので。しかし非公式(うらがわ)の歴史においては、これは一部の年代記編者らの一門や賢者たちの師資相承(ルビ:ししそうしょう)、組合に属さぬ物語り師たちの口伝などによって、ふさわしい名をあたえられております。すなわち『災厄(わざわい)の書』です」(『アラビアの夜の種族』角川文庫(I)、47頁)

 すでに古川日出男は、出世作となった『アラビアの夜の種族』(2001年)のなかで、征服者ナポレオン軍に追いつめられたカイロの一貴族の家来アイユーブのコトバで、埋もれた「稗史」の再興を語っていたのだ。
 史実と想像力を縦横に駆使した「妄想のとうほぐ」の稗史は、3年にわたって書き継がれ、ついにここに完成を見たのだ。今後、この小説を無視して「東北」の歴史を語ることはできないだろう。

(『すばる』2008年12月号、281-85頁)

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書評 J.M.クッツェー『鉄の時代』

2008年11月07日 | 小説
白人老女と浮浪者の目から
J.M.クッツェー(くぼたのぞみ訳)『鉄の時代』(河出書房新社)
越川芳明

 本書は1986年の南アフリカ共和国のケープタウンを舞台にしているが、アパルトヘイトに撤廃されるのが1993年のことだから、この国がまだ混乱の最中にあった時代を扱っていることになる。のちに大統領になるマンデラもまだ獄中に繋がれている頃の話だ。

 学校でのアフリカーンス語の強制に反発した黒人学生の授業ボイコットに端を発し、警察によって武器を持たない黒人学生が射殺されたりした、いわゆる「ソウェトの蜂起」は、それより10年前のことである。この小説は、そうしたきな臭い時代を、その理不尽かつ差別的な制度の恩恵を受ける一般白人市民の目から捉える。

 主人公(語り手)ミセス・カレンは七十歳の白人老女。かつて大学でラテン語の教師をしていたらしいが、いまは黒人の家政婦フローレンスを雇い、独居生活をしている。ハイブラウな職業柄、彼女の語る物語はウェルギリウスの詩や古代ローマの言い回しをはじめ学識にあふれていて、まるで「講義」のようだ。

 だが、それらは身近にいる黒人たちの心には入らないし、かれらから返ってくるのは、「沈黙」でしかない。もっとも身近な黒人たちの現実ついてまったく無知なせいで、彼女の学識は、まるで実のならない果実の木のように、かれらからありがたがられない。

 老女自身はたぶん乳癌を患っており、片胸を手術で失っている。この小説は、十年前に米国に逃げた娘に当てた「遺書」という形式をとる。その中で老女は面白いことを言っている。

 娘はアパルトヘイトを嫌って国外に脱出したのだが、それは決して亡命とは呼べない、自分こそが国内で亡命しているのだ、と。

 彼女にそうした認識をもたらしてくれるのは、白人からも黒人からも「人間のクズ」として白い目で見られる社会的アウトサイダー、浮浪者のミスター・ファーカイルだ。かれは彼女の庭に居候をきめこみ、彼女のぽんこつ車を押すという労働を得て、つねに彼女のドライブに付き添う。

 本書は、またの名を「メタモルフォシス(変身)」と呼んでもいいかもしれない物語だ。この小説は、老女の大きな精神的変化を扱っていて、彼女が通常の境界を越えて黒人居住区(タウンシップ)へと越境し、そこで初めてこの国のジャージャリズムがまったく伝えていない警察による黒人少年への暴力事件を目の当たりにして、次第に目覚めていくプロセスを追う。

 彼女は自らの家に逃げ込んだ黒人少年を守ろうとして警察に抗議し、撃ち殺された少年のことを「わたしはあの少年とともにある」と告白するまで変わる。

 アパルトヘイトを死守しようとする白人支配層も、それに断固反対する黒人側もすべて原理主義の「カルヴァン派」のように「鉄の時代」に生きているなかで、唯一、アル中の浮浪者と死に行く老女だけが、鉄を溶かす柔軟性を持つ。著者は、そこに変化する南アへの期待をこめたにちがいない。

(『Studio Voice』2008年12月号、112-13頁)

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