越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

映画評『線路と娼婦とサッカーボール』

2007年12月28日 | 小説
チェマ・ロドリゲス監督『線路と娼婦とサッカーボール』
越川芳明

 中南米の現代史を扱った映画では、必ずと言っていいほど、革命とスラムが出てくる。かつて植民地であった国が独立を果たしても、少数の白人支配層と大勢のインディオや混血の農民との間の階級格差は温存された。幾度も試みられた革命は、軍事力の差で挫折を余儀なくされ、土地を失った貧農は都市に流れてこみスラムができた。

 この映画は、中米グアテマラを舞台にしたドキュメンタリー。首都のスラムに流れてきた最貧困層の女性たちにスポットが当てられている。フェロカリル通りには一本の線路が走っており、かつてこの鉄道は大農園主と資本家と政治家の懐をおおいに潤した<富>の象徴だったが、いまは見る影もない。だが、うらぶれたスラムは娼婦たちの稼ぎの場だ。

 娼婦たちがサッカーチームを作り、テレビ報道を利用して「社会告発」をしようとする。だが、ただちに富裕層によって競技から閉め出される。それでも、スポンサーが現われ、なんとか国内ツアーをすることができる。映画の主眼は、サッカーの試合ではなくて、娼婦たちをユニークな個性として描くことだ。

 ひとくちに娼婦といっても、生い立ちも性格もまちまちだ。子どもたちを母に預けてエルサルバドルからやってきたチーナ。売春をして学費を稼いで高校を卒業した同性愛者のキンバリー。実兄にレイプされたことがあり、恋人と娘が恋仲になるなど、辛酸をなめつづけるビルマ。社会の上位に立つ者で、「道徳」や「暴力」によって彼女たちを非難する資格を持つ者は誰一人いない。そのことをこの映画は訴える。
(『スタジオ・ボイス』2008年1月号より)

2007年12月22日~2008年1月18日 シアターN渋谷にてロードショー


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今年のオススメの三冊

2007年12月26日 | 小説
 アルフォンソ・リンギス『信頼』(青土社)はリトアニア出身のアメリカ人哲学者による旅をめぐる思索の書。

 世界の秘境への旅を通じて、著者はその場での震えやエクスタシーを言葉で伝えようとする。それは神聖なモノに畏怖し共振する心を回復する試み。エロティシズム漂うチェ・ゲバラ論に真骨頂がみられる。

 シリ・ハスヴェット『フェルメールの受胎告知』(白水社)は、ジョルジョーネの「嵐」をはじめとして、ヨーロッパの画家の作品を取りあげ、絵を見たときに何を感じたかについて、その内省的なドラマを綴ったもの。

 著者はそこにいない生身の存在としての画家(亡霊)と対峙しようとしていて、そこが凡百の美術評論家の絵画論と異なる。

 リチャード・パワーズ『囚人のジレンマ』(みすず書房)は、「戦争の世紀」と呼ばれる二十世紀を牽引した米国の過去を振り返りながら、仮想の歴史(偽史)を紛れ込ますことによって、現在と未来に対して提言をおこなう。

 テロとの戦いといいながら、戦争をおこなっていては、<囚人のジレンマ>から抜けだせない。このゲームの最大の逆説は、自国の利益だけを追求することが逆に自国を破滅に追いやる可能性があるということだから。

「2007年の収穫から」(『読書人』2007年12月21日号より)
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書評 蜂飼耳『紅水晶』

2007年12月24日 | 小説
言葉にならない人間心理を言葉で表現する
ーー蜂飼耳『紅水晶』(講談社、2007年)
越川芳明

 中原中也賞受賞の詩人による、初短編集。 
 
 主人公が、たとえば化粧品の宣伝文句を考える美容ライターだったり、心理カウンセラーだったり、図書館員だったり、まったくちがう作品が五つ並ぶ。

 だが、そのどれにも蜂飼ワールドとしかいいようのない雰囲気が漂う。それは一言でいえば、世界との微妙な距離感ではないだろうか。

 正しくは世界というより、人間というべきだろうか。人間の心理は簡単に言葉にできないが、それを言葉で表現するところに文学の逆説と醍醐味が生じる。そのことを蜂飼の小説は改めてつよく感じさせてくれる。

 主人公たちは、ときには植物のように光や影に敏感に反応し、ときには動物のように匂いや音や色に反応する。

 もちろん、同じ人間に対しては、言葉で対応するが、その言葉が自分の反応をただしく伝えてくれると限らないことを自覚しているような、そんな自信なげな対応の仕方である。

 たとえば、冒頭の「崖のにおい」の語り手は、うっかり相手に失礼かもしれない言葉を吐いたあと、このようにいう。

 「ほんとうは本心そのものというのではなかったが、口にしたら、言葉はあっというまに本心の顔を被った」と。

 一種の家族小説の体裁をとっている「くらげの庭」でも、語り手の美香は人生を一時しのぎの野営みたいなものだと捉え、夫が単身赴任になり夫の家族と同居することになるが、なかなか本心を語らない。

 語らないが、生き物としての他人に対して無関心であるわけではない。だから、死をおそれる年老いた義父に対する優しさも生じる。

 義母の不在の夜に、身重の美香が義父に添い寝をねだられ、それに応じる場面は、言葉できない主人公の本心と生と死の思いが微妙に交錯する、この短編で一番スリリングな場面だ。

 表題作「紅水晶」は、昔ストリパーだった薬剤師の女性が恋人を殺す作品だが、「引きこもり」の姉と一緒に暮らす女性を扱った「六角形」と同様、心理学のように人間を「狂人」と単純に定義することなく、言葉にしにくい狂気と正気のはざまを丁寧にさぐった秀作だ。

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書評 伊藤千尋『反米大陸』

2007年12月20日 | 小説
反骨のジャーナリストによる待望のノンフィクション
伊藤千尋『反米大陸 中南米がアメリカに突きつけるNO!』(集英社新書、2007年)
越川芳明

 いま、中南米ではアメリカ離れが進んでいる。南米十二カ国のうち、九カ国が左派・反米政権だ。ベネズエラのチャベス大統領が国連でアメリカのブッシュ大統領を「悪魔」呼ばわりして話題をまいたのは、まだわれわれの記憶に新しい。だが、なぜそういう「不謹慎な」発言が出てくるのか。

 著者はかつて『燃える中南米 特派員報告』(岩波新書)を著し、その中で八〇年代のレーガン政権がCIA(米中央情報局)を使って、ニカラグアをはじめ、中南米の国々を内戦に陥れたことを告発したことがあった。

 本書はその続編として位置づけることもでき、二〇〇〇年以降の中南米の動向を知るにはうってつけの書だ。とりわけ、第一章「中南米の新時代」は本書の白眉であり、読み応えがある。

 「グロ-バリズムのなか、アメリカはかつて中南米で行ってきたことを、今や世界に広げようとしている。だから、過去の中南米の歴史を見れば、アメリカがこれから世界で何をしようとしているかが見えるのだ」(5頁)と、著者は語る。

 そうした言葉がただのハッタリでないのは、著者みずから足しげく現地に赴き、精力的な取材を行ない、しばしば表現手段を持たない最下層の人々の「沈黙」にまで耳を傾けようとするからだ。

 十九世紀から二〇世紀にかけてようやく宗主国からの独立を果した中南米の各国は、その後、「民主主義」や「アメリカの権益保護」といった大義を掲げながら侵略と干渉を繰り返すアメリカの餌食になってきた。著者は、その検証を第二章「アメリカ「帝国」への道」、第三章「中南米を勢力下に」、第四章「民主主義より軍事政権」で、丁寧に行なっている。

 だから、本書を最後まで読み進めるならば、チャベス大統領のあの「不謹慎な」発言がただの戯言(ざれごと)などではなく、アメリカの「覇権主義」に対する南からの挑戦であり、と同時に、それが世界の流れであることが理解できる。そして、日本の一部の保守系の政治家がお題目のように唱えている「国際貢献」がただの「アメリカ貢献」にすぎず、かれらが世界の流れから取り残されていることも、わかるはずだ。

 いま、市場の自由化をもとめるアメリカ主導のグローバリズムの波は郵便から医療まで、日本をも呑みこもうとしている。その波の背後にある政治イディオロギーとアメリカの戦略を知るためにも、本書は必読の書だ。
(『青春と読書』2008年1月号48頁)

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映画評 ネクラーソフ監督『暗殺・リトビネンコ事件』

2007年12月12日 | 小説
プーチン政権の「闇」をかいま見る――映画『暗殺・リトビネンコ事件』
越川芳明

 このドキュメンタリーの最大の功績は、何者かによって暗殺されてしまったリトビネンコの生前の証言内容というより、かれが何かを話すときの生の声や顔の表情を映像に残したことことだろう。

 300名以上の死者が出た99年のモスクワでの連続アパート爆破事件は、当初チェチェン人武装勢力によるテロと見なされたが、しかし、実は当時長官であったプーチンのFSB(連邦保安庁、KGBの後身)の仕組んだ「偽装工作」であり、その事件は第二次チェチェン侵攻の口実になっただけでなく、プーチンを大統領に押しあげることになったのだという。

 そうした指摘から始まり、この映画の中で次から次へと出てくる驚くべきFSB批判は、ジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤの著作を初めとして、いろいろな本でも指摘されていることだ。

 それにしても、非常にうまくできた映画である。監督のネクラーソフは、犯罪組織(マフィア)対策、テロ対策担当だった元FSB職員アレクサンドル・リトビネンコと、その庇護者である政商ベレゾフスキーの側に立って、プーチン政権の土台であるFSB批判を繰りひろげる。

 冒頭のほうで、監督はこういう。「わたしは英国の捜査当局に今回の暗殺事件で聴取を受けた。あの時は充分話せなかったと今にして感じている。本作が私の証言だ」と。原題には副題が付いていて、「アンドレイ・ネクラーソフの証言」となっている。
 
 「証言」といっても、ドラマにちかい複雑な構成をとっている。とりわけ面白いのは、98年にリトビネンコが命をかけて他の職員と共にFSBの構造的な腐敗を独立系テレビで告発し、逆に刑事上の責任を問われ、逮捕されてしまうシーンだろう。
 
 具体的には、どのように編集され展開されているのだろうか。それは「いわゆる一つの自由」と題された章から始まる。

 リトビネンコの元上司グサクの証言とリトビネンコの証言を交互に流す。

 そのあとで、監督がリトビネンコから渡されたという問題ビデオの映像(98年4月20日深夜にテレビ局のキャスターをまじえてリトビネンコとグサクともう一人がFSBのやり口をカメラに向かって吐露している。FSB長官を不当解雇で訴えているトレパキシンをワナにはめて逮捕するように指令を受けた、と)をつなぎ、トレパキシンの証言(95年に資金洗浄のマフィアを告訴しようとしたが、上から阻止された)や、リトビネンコの証言(上司のFSB副局長カミシニコフから政商ベレゾフスキー暗殺指令をうけた)をつづける。

 さらにベレゾフスキー自身が隠し撮りしたビデオの映像(FSBのリトビネンコの同僚たちが暗殺指令を漏らしにきた)をはさみ、亡命したベレゾフスキーの証言(ロシアに自由精神は育たない)をおき、再び98年のFSB告発ビデオ(何人かの政治リーダーが上司の背後にいるとのグサクの発言)をはさむ。

 グサクの証言(ビデオは死後に公開の約束だったが、8カ月後にいきなり放映された)をつづけ、FSBの腐敗を訴える公式会見のテレビ放送(リトビネンコは素顔だが、あとの者はめざし帽で顔を隠す)と、プーチンのテレビ会見の映像(リトビネンコの逮捕)と、ニュース映像(リトビネンコの裁判無罪と再逮捕)を細かくはさみ、リトビネンコの部下の証言(FSB上司からリトビネンコを有罪に追い込むウソの証言を強要されているので困っている)やニュース映像(グサクの逮捕)をつづける・・・。
 
 関係者の証言を何の芸もなくつなぎ合わせるのではなく、かつてのテレビ映像やビデオを小刻みに折り込みながら、巧妙にドラマ化しているのである。
 
 そういう意味で、この映画はFSBというかプーチン政権の悪辣な手口をわれわれに知らしめることに成功しているといえる。反対勢力を追い落とすために、名誉毀損、脅迫、恐喝、説諭、ワナ、暗殺、メディア統制といった、KGBの時代から培ってきた手段を使って恐怖政治をおこなっているとの印象をつよく残す。
 
 監督は、あくまでリトビネンコのFSB内での「反乱」をモラルの問題として捉えたがっているようであるが、しかし、監督によって「証言」されなかったこともある。

 たとえば、アパート爆破事件をめぐるドキュメンタリー『疑惑』(2004年)の制作資金を提供したといわれるベレゾフスキーの「アエロフロート」社の海外不正送金問題など、かれの数々の疑惑には触れもしない。だから、この映画を見る限り、ベレゾフスキーは「悪人」にはなっていない。
 
 この映画に刺激を受けて、わたしはリトビネンコ暗殺にまつわる本だけでなく、プーチン政権やKGBにかかわる本やネットサイトを拾い読みしてみた。すると、知らないことだらけであった。

 たとえば、前大統領エリツィン一家をはじめ、クレムリンの政治指導者が企業の顧問や社長になり、職権を濫用して暴利をむさぼってきていることなどがイモずる式に出てくる。
 
 先頃、プーチンが次期大統領候補として支持を表明したメドベージェフは第一副首相であり、ロシア国営天然ガス独占企業体ガスプロムの会長である。そのガスプロムは、「カスプロム・メディア」という子会社をもち、かつて人気のあった民放テレビ局「独立テレビ」を乗っ取っている。

 ロシアで権力が「金」になることが露呈してきたのは、KGB長官アンドロポフが大統領になった82年以降であるが、その頃から、権力はマフィアと結びつき、エリートと貧者との格差が広がっている。ペレストロイカを先導したゴルバチョフの時代(85年―91年)は、むしろ「マフィアの黄金時代」で、さらに格差が広がった・・・。
 
 いまロシアにおいてプーチンの人気はとどまることを知らない。原油価格や天然ガスの高騰による経済成長もさることながら、すべてのテレビ局を国家の統制下におさめて、国民を誘導しているからだ。

 一方ベレゾフスキーは、自身のテレビ局「ロシア公共テレビ(ORT)」を武器にプーチン批判をおこなっていたが、その武器を奪われ、国外に脱出せざるを得なくなった。いまのところ、国外でネクラーソフのような監督に支援することによって抵抗するしかないのだ。
(『暗殺・リトビネンコ事件』公開パンフレットより)
映画『暗殺・リトビネンコ』は、2007年12月22日渋谷ユーロスペースにてロードショー。

参考文献
江頭寛『プーチンの帝国 ロシアは何を狙っているのか』草思社、2004年
ゴールドファーブ、アレックス&マリーナ・リトビネンコ『リトビネンコ暗殺』加賀山卓 朗訳、早川書房、2007年
ブラン、エレーヌ『KGB帝国 ロシア・プーチン政権の闇』森山隆訳、創元社、2006年
ポリトコフスカヤ、アンナ『チェチェン やめられない戦争』三浦みどり訳、NHK出版、2004年
寺谷ひろみ『暗殺国家ロシア リトヴィネンコ毒殺とプーチンの野望』学研新書、2007年
ウェブサイト ウィキペディア「アレクサンドル・リトビネンコ」、「アンナ・ポリトコフスカヤ」






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映画評『ファーストフード・ネーション』

2007年12月06日 | 小説
ファストフードは、なぜ安いのか? 
リチャード・リンクレイター監督『ファーストフード・ネイション』
越川芳明

 この映画は、食肉偽装という日本にとってもタイムリーなトピックを扱っている。我が国で偽装といえば、建築の耐震偽装から始まり、食品分野に広がりいまやとどまるところを知らないが、アメリカでも、高く売れる有機牛乳などで偽装が見つかっている。

 この映画は、南カリフォルニアに本社のあるハンバーガー会社のマーティング部長ドン・アンダーソンを主人公に据えている。かれは自社の牛肉パテに大腸菌が混入しているという外部情報の真偽をさぐるよう命じられて、牛肉パテを卸しているコロラドの牛肉加工業者の工場を訪れる。

 冒頭の二つの対照的なショットが興味深い。ひとつは、アメリカのどこででも見うけられるファストフード店での食事のシーン。カウンターでバーガーとドリンクとポテトの三点セットが載せられたトレイを受け取り、家族の席まで運ぶと、妻が満面の笑みをたたえて待っている。この運んだ人物に顔がないのが象徴的だ。マクドナルドをはじめとするファストフード業界は、冷凍加工品を使う調理システムの合理化に伴い、急成長したといわれるが、オートメーション化(ロボット化)したのは客の態度も同じだ。

 もうひとつのシーンは、国境地帯の南、「貧しい」メキシコの町から始まる。俗にコヨーテと呼ばれる「案内人」に二千ドルを渡して、違法の国境越えを試みる一群のメキシコの若者たち。中にラウルとシルビアという若い夫婦、シルビアの妹ココがいる。昼夜をかけて道のない砂漠地帯を歩いていくので、はぐれたら危険だ。かれらの旅の目的は「北」への移住ではなく、「北」への出稼ぎであり、現にロベルトという男の場合、越境は三度目だという。

 エリック・シュローサーのノンフィクション『ファストフードが世界を食いつくす』(草思社、2001年)を原作にしているにもかかわらず、この映画はドキュメンタリーではなく、ドラマである。フランチャイズ制のバーガーショップの名前も、ミッキーズと虚構の店名を使っている。

 ドキュメンタリーならば、肥満や糖尿病など、ファストフードのもたらす人体への弊害をついた傑作がある。『スーパーサイズ・ミー』(20004年)という作品だ。モーガン・スパーロックという監督が自ら実験台になり、マクドナルドで朝昼晩と三食、三十日間食事をとりつづけるとどうなるかを問うた文字通り体当たりのドキュメンタリー。こちらは特定の店に焦点を当て、アメリカ人の肥満と健康の問題に論点を絞っている。

 それに対して、『ファーストフード・ネイション』は、食の問題を出発点にして、いかにファストフード業界のやりかた(安い商品を生み出す均一化、効率化、大量生産)がアメリカ社会を食いつくしたかを描く。その影響はいまや農業、労働、福祉、環境、医療、教育などあらゆる分野に及んでおり、特定の一社を吊るしあげるだけでは、手に負えないほど社会にあまねく浸透している。

 リンクレイターがこの作品をドラマに仕立てたのは、資本主義社会において、ともすれば企業が陥りがちな「利益至上主義」に観客の想像力を向けるためではなかったか。「利益追求」は企業の一大目標であっても、手段をえらばず「利益至上主義」に走れば、人間不在に陥る。

 この映画が違法移民にもスポットを当て、精肉工場の労働者として登場させたのには訳がある。メキシコからやってきた違法移民は、劣悪な労働環境に直面させられることになる。工場は「経済効率」を理由にかれらを安く使っておきながら、違法であることを理由に怪我をしてもほったらかしだ。若い女性は、工場で上司のセクハラの対象になる。

 また、高校生をはじめ若者たちも犠牲者だ。ファストフード店の労働力として格安で長時間使われるだけでなく、応対までマニュアル化されて管理される。ファストフードの店も工場も、インフラが整い非常に清潔そうに見えるが、裏にまわるとその本質が見える。エリック・シュローサーは、いまやレストランは工場と化しているという。

「生産量を第一義とするファストフード業界のやりかたは、何百万というアメリカ人の働きかたを変え、大規模な調理場を小さな工場に、食べ慣れた食品を大量生産の商品に変えた」(97頁)

 いまアメリカでは、「豊かさ」とは、いかに安いものが大量にあるかということを意味しているのであり、品質とか安全とか人権といった価値観は脇に押しやられている。ファストフード業界だけでなく、労働問題が取りざたされるウォルマート、ターゲット、Kマートといった巨大スーパーの存在と人気がそれを証明している。

 わたしたちは「安さ」にとびつき、「安さ」に疑問を抱かない。だが、食品に関する限り、それが自分たちの健康だけでなく、社会のありかたまで変えてしまいかねないので、この映画はそうした「安さ」のからくりに観客の想像力を向けさせるのだ。

 メキシコからアメリカの「豊かな」生活に憧れてやってきて、初めて立派なレストランで食事をしたあと、満足げなラウルにシルビアがふと漏らした言葉が印象的だ。「でも、あのチキン、冷凍だったわ」

(初出『すばる』2008年1月号、316ー17頁)
『ファーストフード・ネーション』の公開は2008年2月、ユーロスペースほか。

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