越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

サンティアゴの地震

2010年03月31日 | 音楽、踊り、祭り
2月末のチリの地震から一ヶ月がたちました。

19日、キューバのサンティアゴにいたとき、50年ぶりという地震(M5.9)に遭遇しました。

地震があったのは、東部のグランマ県(プロビンス)とサンティアゴ県です。

めずらしい出来事に、町中大騒ぎでした。4時頃、出先から帰ってくると、泊まっていた宿のおばさんから、はやく公園に避難しよう、とせかされました。

公園に避難する家族(とりわけ、小さい子供たちを抱える人たち)と、家の戸口にだらだらととどまっている人たちがいて、まちまちでした。

逃げた人たちの頭には、当然、ハイチやチリの大災害がありました。

さすがに地震にはなれている僕でも、耐震構造でなく、おまけにおそろしく古いキューバの建物を見ると、近くにいないほうがいいか、と思って、おばさんの言う通りにしました。

夕食をすませたあと、ちょうどその週に行われていた<国際トローバ・フェスティバル>の会場に行ったのですが、皆がコンサート会場(教会を押収したもの)の頭上のガラスの被いを条件反射的に見上げていたのが、ちょっとおかしかった。

先日、TBSラジオで、多摩タウンの古くなった共同住宅を壊して建て替えるというニュースが流れていました。

1971年に建てられたそうで、まだ40年しかたっていない。それに比べると、59年の革命以後、建て替えていないキューバの建物は、ずいぶん持っているなあ、という感慨を抱きます。

でも、なかには、地震がこなくても、部分的に崩壊しているものも、とくにハバナのセントロ(中心地区)で見られます。相当にあぶないです。

いま、ハバナッ子はそれどころではありません。キューバ一の野球チームを決める最終決戦が先週から行われていて、ハバナのチーム「インドゥスリアレス」が、ビジャクララに対して2勝3敗と追い込まれているからです。

わがサンティアゴのチームは、ビジャクララにプレイオフで負けてしまい、サンティアゴの「プラサ・マルテ」にある野球狂たちの群がる一角も寂しいかぎりでした。

サンティアゴは、野球では負けるし、地震には襲われるし、泣きっ面に蜂でした。

でも、音楽(トローバ)は相変わらず元気でした。

デジブック 『santiago』









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映画評 『フィリップ、きみを愛してる!』

2010年03月10日 | 映画
過激なまでにコミカルなクィア映画 
『フィリップ、きみを愛してる!』
監督・脚本/グレン・フィカーラ、ジョン・レクア 製作総指揮/リュック・ベッソン

越川芳明

 冒頭のショットで、青空に白い雲が浮かぶ。そこに、ベッドに瀕死の状態で横になった男を真上から撮ったショットがつづく。風で移動する不定形の雲とベッドにしっかり拘束された男。この二つのショットは、「アイデンティティ」の揺らぎという、この映画のテーマを規定する象徴と見なすことができる。

 形を変えて何にでもなれる雲の「自由」と、どんなにあがいても何にもなれない男の「不自由」の対比が見事だ。主人公のスティーヴン・ラッセルは、赤ん坊のときに養子に出された事実を養父母から聞かされたショックが癒えない。長じて警察官になり、その立場を利用して自分を見捨てた実母を探しあて詰め寄るが、彼女からは冷たく門前払いを食わされる。

 スティーヴンには妻と娘がいて、日曜日には、妻と教会に行き、オルガン奏者として活躍している。しかし、それは「偽装の人生」で、彼にはもう一つの顔がある。妻に隠れて、男の恋人と密会を重ねているのだ。

 映画の基調となるトーンは「喜劇」だ。スティーヴン役のジム・キャリーの抱腹絶倒の演技はもちろんだが、敬虔すぎて、ひとつ間違えるとキリスト教原理主義に陥りかねない妻を演じたレスリー・マンのとぼけた演技が、ゲイによる「アイデンティティ」の模索という、シリアスなテーマを笑いに変えてしまう。

 妻は何ごとも「神の思し召し」と語り、セックスを終えたあとも、健康を気にして牛乳を飲んでいる。

 この映画は、ヒューストンの新聞社に勤めるジャーナリスト、スティーヴ・マクヴィカーが取材執筆した同名のノンフィクションに基づいている。舞台は、ヴァージニア、テキサス、フロリダと、アメリカの保守主義を体現するような土地が選ばれている。スティーヴンが自らの「二重生活」から脱して、本来のクィアとしての人生を全うするまでの、それこそ波瀾万丈なエピソードが目白押しである。

 スティーヴンは、実母に冷たくあしらわれた後、家族と共にテキサスへ移住。そこで、交通事故に遭い、瀕死の状態で「エピファニー(顕現)」を得て、妻にそれまでの隠し事を告白。「自分に正直に生きること」を決意した彼は、一人フロリダへ移住。そこでラティーノの恋人ジミーを得て、セレブなゲイライフを満喫。だが、高級クラブに、フィットネス・ジムに、レストランに、恋人へのプレゼントにと、すべてにもの凄く金がかかる。

 IQが169のとてつもない頭脳の持ち主のスティーヴンが思いついたのは、さまざまな詐欺行為だ。わざとスーパーの床にオイルを垂らし、転んで怪我して治療費をせしめたり、何枚ものクレジットカードを偽造してショッピングしたり、医療保険管理会社の財務担当者になって会社の金を横領したりして、詐欺師(コンマン)の才能を遺憾なく発揮する。だが、それも長くは続かない。

 そうした詐欺師としての人生だけでも下手な小説なんかより面白いが、スティーヴンは、その後ぶち込まれたテキサスの刑務所でも大活躍だ。金髪で青い目をした若者フィリップ・モリスに一目惚れすると、あの手この手を使って、フィリップと同房に移送してもらったり、食堂では二人に特別食を出させたりして、つかの間の逢瀬を楽しむ。自分だけが別の棟に移送させられてしまうと、今度は釈放書類を偽造したり、一般市民や医者の服を手に入れたりして、何度も脱獄を試みる始末。結局、四度試みて、そのたび逮捕されてしまうが、最後は、文字通り生命をかけた大勝負に出る。

 途中何度か、スティーヴンによる一人称のナレーションが入る。八〇年代に保守化したアメリカ社会の中で、警察官として模範的な社会人を演じた「偽装の人生」や、浮ついたセレブなゲイライフを実現するために発揮した詐欺師の才能、さらに抜群の頭脳を駆使した脱獄の数々を、スティーヴンは自省する。そしてすべての嘘や詐欺の中で、フィリップに対して自分が弁護士だと騙ったことだけは、許せなかった。

 雲は自ら形を作るのではない。人間が、その形を読み取るのだ。子供の頃、スティーヴンは、友達と原っぱに寝っ転がり、空に浮かぶ雲に、友達には読み取れないウィニー(男の子の性器)の形を読み取る。そのとき、彼は他人とは違うクィアの「アイデンティティ」に目覚めたが、それを貫くことはできず、「偽装」を重ねる。

 「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と言ったのは、ボーヴォワールだが、「女らしさ」が社会的に作られた約束事にすぎないとすれば、「男らしさ」もまたある社会の文化的な刷り込みにすぎない。だが、私たちは自覚しないかぎり、そうした文化的な「産物」に縛られてしまう。スティーヴンの人生に、そのことが見え隠れしている。

 マイノリティの立場からなされるブラックユーモアは、弱者を笑うだけでなく、笑う強者の「視線」を笑い返す。本作のクィア・ユーモアは、「変態」の脱獄囚スティーヴンの愚直な行為を笑うだけでなく、「変態」を作り出す保守的な社会こそを笑う。

 『ブロークバック・マウンテン』や『ミルク』など、クィアを題材にした良質の映画は数多くあるが、九〇年代のテキサス州知事ブッシュをてんてこ舞いさせた「変態」の英雄的行為を描くこの映画は、過激なまでにコミカルなクィア映画だ。
(『すばる』2010年4月号に若干加筆しました)




ここから先は余談です。きょうか明日発売の『週刊新潮』の「名作を読む」(だったかな?)に、谷崎潤一郎の日記形式の官能小説『鍵』を取りあげました。昔、アメリカのポストモダン文学の授業で英語版(翻訳)で読んで、変態である京大教授の自意識過剰な記述がとても面白かったものですから。たったの600字ですので、暇なときに本屋さんで『週刊新潮』を立ち読みしてやってください。それと谷崎の本(文庫)も。
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3月27日「多言語(オムニフォン)の饗宴」

2010年03月09日 | 音楽、踊り、祭り
まだ先のことですが、以下のイヴェントを明治大学で開催します。もちろん、無料です。気軽にお越しください。

「多言語(オムニフォン)の饗宴」
詩人ジェローム・ローゼンバーグさんを囲む会(参加自由、予約不要)

アメリカ先住民の歌を収集し、英語に翻訳した民俗学者であり詩人であるローゼンバークさんを招き、同じく詩人であり文化人類学者である今福龍太氏、管啓次郎氏を交えて、いろんな言語(方言を含む)で詩の朗読を行ないながら、翻訳や文学について考えたいと存じます。講義のあと、詩人を囲んでさらなる楽しい懇親会(飲み会、希望者一人3000円)を開催します。

日時:3月27日(土)16時~18時(開場は15時45分)
場所:明治大学駿河台キャンパスリバティタワー 19階119HI教室

司会:越川芳明
講師:管啓次郎
   今福龍太
   ジェローム・ローゼンバーグ

懇親会にご出席の方は、当日、会の始まりに人数を確認いたしますが、ぜひ参加したいという方は、あらかじめこのブログのコメントにその旨書き込みしていただけますと、大変が助かります。 幹事は、玉置君がボランティアでやってくれる予定です(←ありがたし)。
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大正区を舞台にしたドキュメンタリー

2010年03月03日 | 映画
大阪の大正区を舞台にしたドキュメンタリー映画、小谷忠典監督『LINE(ライン)』(2008)を見ました。

沖縄生まれでアルコール中毒の父、大正区生まれの「僕」の曖昧なアイデンティティ。「僕」の恋人には、「僕」の子ではない、小学生の息子がいます。

監督自身の内なる「オキナワ」に迫った佳作です。

沖縄の遊郭地帯(コザ吉原)で撮った娼婦たちの肉体の傷痕や刺青、大正区のクズ山、「僕」と父の散らかったアパートなど、けっして綺麗とはいえないモノを撮りながら、血のつながったり、つながらなかったりする親子の絆(ライン)をさぐります。

冒頭の、川の水にたゆたうビルの影のシーン、最後のベランダに立つ父の顔のショットが秀逸です。と同時に、カメラによって娼婦の裸体や顔を撮りながら、それが「暴力」にならないのは、監督自身が自らの「恥部」をこの映画でさらしているからだろう。

5月中旬、東中野ポレポレにて、レイトショーの予定。





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