越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

オブセッションの映画、映画のオブセッション  90年代のアメリカ映画(2)

2012年04月17日 | 映画

フィンチャーの90年代

 アメリカ90年代を最も的確に表現したのは、デイヴィッド・フィンチャーだろう。

   なかでも、『ファイト・クラブ』(1999)は、後期資本主義(情報・消費主義資本主義)の奴隷になり、

   過剰にモノに囚われる現代人の姿に焦点を当てる。

   主人公のコーネリアスは、「ハイパー消費主義」の強迫観念に取り憑かれ、カタログ・ショッピングで、北欧製のお洒落な家具を買い集め、

   ひたすらクールな「ライフスタイル」を追い求める。

 だが、少しも心の渇きを癒すことができない。

 柵のなかに囚われた羊のみたいに、経済的な支配層の作った消費システムに主体なく囲い込まれているからだ。

 そうした囲い地からの解放を、コーネリアスは癌患者の会をはじめとする重病者たちとの接触に見いだす。

 さらに、「人間は所有するものに最後に所有される」という、

 消費主義の逆説を説く反逆者タイラー・ダーデンの始める秘密結社「ファイト・クラブ」への積極的な関わりのなかに見いだす。(註1)

 フィンチャーの映画は、どれも90年代のアメリカ的価値観への反抗・抵抗をしめしている。

 『エイリアン3』(1992)は、宇宙から地球への航行中に事故に遭って

  救命艇で囚人惑星フィオリーナ<フューリー(怒り)>に不時着する女性リプリーを主人公にしている。

  この映画ではエイリアンをアメリカの軍需産業によって開発される生物兵器の素材と見なしており、

  それゆえにこの映画に「反=湾岸戦争」のメッセージが隠されているのは明らかだが、

  いま私たちはこのエイリアンという存在に原発という寓意を読み取ることはできないだろうか。

  というのも、この映画は、人類の<火>への強迫観念をあつかっているからであり、

  3・11以降に本作が予想外の意味を帯びてくるのは、刑務所であるこの惑星で服役中の囚人たちが行なっているのが、

  原子力発電所で出る核廃棄物を運ぶ容器の材料となる鉛を製造することだからである。

  最後にリプリーがみずからの体内に侵入した、

  人類を滅ぼす可能性のあるエイリアンもろとも核廃棄物を閉じ込めておく

  容器の材料(燃える鉛)のなかへ飛び込んでいくシーンの背後には、

  “ストップ・ザ・原発”のメッセージが浮かんでいないだろうか。

 

 『セブン』(1995)には、ジョン・ドゥという理詰めの殺人狂が出てくる。

  自分を「選ばれた者」と呼び、キリスト教の7つの「大罪」(註2)を犯していると 

  彼が考える者たちを一人ずつ処罰してゆく。

 「大食」の罪を犯す肥満男、「強欲」の罪を犯し、

  金を荒稼ぎする弁護士、見かけだけの美を追い求め「高慢」の罪を犯している女、

 「肉欲」の罪を犯す娼婦、「怠惰」をむさぼる男・・・。

  殺人狂は言う。「私は罪人に罪をあがなわせた」と。

  残る二つの罪、すなわち「憤怒」と「嫉妬」の罪をいったい誰が犯し、

  警察に捕まっている犯人がどのように処罰するのか。

  この映画で最高のサスペンスが生みだされる。

 映画の中で、犯人が犯罪現場に罪の名前と一緒に、たとえば、

 ミルトンの『失楽園』から「地獄より光に至る道は、長く険しい」といった一節を遺すのに対して、

 ベテランの担当刑事サマーセットは、若い助手のミルズにダンテの浄罪編やカトリシズム辞典を繙くようにアドバイスをする。

 犯人は、冷静沈着で、その部屋には殺した者たちの写真を残したり、

  ノート2千冊に思いのたけを書き記している。

  そのノートは「50人が徹夜で読んでも2ヶ月はかかる」というものだ。

 ベテラン刑事サマーセットは、

  そうしたキリスト教の罪と悪徳に対する強迫観念に囚われた説教師であるという推測を行なうが、

  残る2つの罪を誰がどのように償うのか分からない。 

 

 『ゲーム』(1997)も長期好景気にわくアメリカを背景にしている。

  主人公は、西海岸サンフランシスコの大富豪のニコラス・ヴァン・オートン。

  仕事は『アメリカン・サイコ』の主人公ベイトマンと同じく、

  ニコラス自身いわく「金を右から左へ動かして稼ぐ」投資銀行家だ。

  しかし、彼は妻エリザベスと離婚したばかりで、大きな屋敷に住み込みの家政婦を雇って、

  誕生日の食事もひとりぼっちだ。

  彼は「死者」の亡霊につきまとわれている。48歳で亡くなった父親の死に囚われつづけている。(註3)

  映画は、ニコラスの弟の依頼によって、

  秘密クラブが次々と仕掛ける「ゲーム」にニコラスが翻弄される姿を描くが、

  ニコラスは自分に降りかかる災難がただのゲーム(遊び)なのか、それとも現実なのか、

  わからなくなってくる。

  とりわけ、圧巻なのは、自宅のつけっぱなしになっているテレビで、

  ニュースキャスターが彼個人に向けて喋っていると彼が感じ怯えるシーンであり、

  それまで携帯電話一本で莫大な金を動かしていた彼が、

  個人情報を盗まれて口座からそっくり財産を奪われる恐怖におののくシーンだ。

  どの場面でも、どこからが現実でどこからが彼の妄想なのか、彼自身はおろか、観客にもわからない。

  かくして、フィンチャーこそは

  ミレニアムに向かう90年代の異常な好況に浮かれた後期資本主義のアメリカの病巣をアクチュアルに捉えていたと言える。(了)

 

 (註1)タイラー・ダーデンは「我々は消費者である。ライフスタイルというオブセッションの副産物だ」と、言い当てる。

  肉体の限界や死にちかい感覚を実感してこそ、強烈な生の実感が得られるからだ。

  (註2)「7つの大罪」というのは、カトリック教会の考えである。カトリックでは、原罪から区別される自罪を大罪と小罪に分ける。

 「大罪は魂を神から背けさせ魂から恩恵と永遠の生命を奪うものである」。

  トマス・アクィナスによる考察を経て、ダンテは『神曲』の浄罪編の中で、現行の7つの大罪に相当するものを並べた。

  (「悪徳」「7つの大罪」『岩波キリスト教辞典』より)。

  (註3)というのも、父親はニコラスの少年時代に屋敷の屋根から飛び降りて自殺を図っているからであり、

  同じような生き方をしている自分もいつか父親と同じように自殺を図るのでないかという不安に駆られるからだ。

  冒頭で、楽しいそうなアウトドア・パーティと父の自殺を撮った目の粗いヴィデオ映像が差し挟まれるが、

  少年時代のニコラスの心に焼き付けられた強烈な記憶を暗示している。

 

(大場正明監修・佐野亨編『90年代アメリカ映画』芸術新聞社、2012年、pp.263-268より)

 

 

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オブセッションの映画、映画のオブセッション  90年代のアメリカ映画(1)

2012年04月14日 | 映画

   3人のデイヴィッド

 90年代アメリカ映画というと、デイヴィッドで始まる3人の映画監督が思いうかぶ。

 彼らはみな、映像と音だけによって「現実らしさ」を作りだす映画のからくりを敢えて暴露する作品を製作した。

 それらは映画のメディア(映像と音)のトリックを利用して、現実と夢の世界、現実と遊び(ゲーム)、

 現実と虚構の境界をなし崩しにして、異世界(宇宙・あの世)へ/からの往還を可能にするメタ映画を志向する。

 私たちがそれらの映画に目眩(めまい)を覚えるのは、主人公と同じように、

   自分が観ているのが往々にして主人公の現実なのか、

 それとも夢の世界なのか分からないからだ。

 

 まずデイヴィッド・リンチは、『ブルー・ベルベット』(1986)や『ツインピークス』(1992)で、

 アメリカの保守主義の牙城、心臓地帯(ハートランド)のスモールタウンを舞台に、

 純朴でありながら思想的には頑迷な住民たちに巣食う病巣を映像化した。

 すわなち、ピューリタン社会が抑圧している性衝動(リビドー)の発露を無垢な若者や、

  あるいは厳格な父親のなかに見いだした。

 彼らは、社会の規範に従って善良にふるまわねばならないという強迫観念(オブセッション)に囚われ、

 逆にみずからの内なるリビドーの逆襲に遭い、社会がタブー視しているセックスの虜になる。

 リンチの映画において、エロティシズムが新鮮な驚きをもたらすのは、まるでギャンブルで大穴が出るように、

  もっともあり得ない登場人物にそれが出現するからだ。

 

 次に、デイヴィッド・クローネンバーグは、『裸のランチ』(1992)で

   巨大なゴキブリに変身するタイプライターを特撮で映像化しているが、

 そのようなビザールなイメージは、表層の世界から覚醒の世界(もう一つの現実)へと侵入する契機をドラッグに求め、

 おりてくる「お告げ」を書き記さねばならないという作家の強迫観念を顕在化したものである。

 だが、『ザ・フライ』(1986)の「蠅男」の特撮に比べると、安っぽい感じが否めない。

 『ザ・フライ』は、天才的な科学者の禁じられた発明への強迫観念を題材としていて、科学者は無機質のデータだけでなく、

 人間や動物などの生物までも電送する画期的な装置の開発に取り組んでいる。

 彼は被験者の情報を分析したうえで、新たなる人間や動物へと合成・創造する「タブー」に挑戦するが、

 彼自身は装置の中に手違いで入り込んだ蠅と合成してしまう。

 科学者の「蠅男」への変身は、一面では実験の「成功」を意味するのだが、科学者自身はその成功を喜べない。

 それは、バイオ・テクノノロジー万能主義(技術偏重)への警鐘とも見なせるものだ。

 

 さて、90年代に何があったのか、ここで少しおさらいしておこう。

 89年11月にベルリンの壁が崩壊し、91年にはソビエト連邦が崩壊した。

 さらに、ブッシュ・シニア時代に中東イラクを舞台にした湾岸戦争があった。

 テレビをはじめとするマスメディアは、湾岸戦争を血の流れない戦争として報道した。

 まるでテレビゲームのように、砂漠のこちら側から撃ち込まれるミサイル弾、夜空を行き交う花火のような砲弾の映像。

 あたかもロボット同士が戦っているだけで、人間の死体がない「クリーンな戦争」のイメージ。

 しかし、現実には戦場となったイラクでは、おおぜいの民間人が誤爆されて血を流して死んでいるというのに。

 アメリカ文学の世界では、ヴィデオ年代の寵児によるスプラッター文学が話題を呼んだ。

 ブレッド・イーストン・エリス『アメリカン・サイコ』(1991)である。

 レーガノミックス以降長期にわたるアメリカの好況を呈するウォールストリート、

   そこを舞台に暗躍する投資銀行家(インベストメント・バンカー)ベイトマンは、

 血みどろのスプラッター・ムーヴィよろしく、ホームレスや女性など弱者を相手に猟奇的な殺人を繰り返す。

 エリスのすぐれた点は、一人称の語りでそうした連続殺人犯の世界を構築したことだ。

 果たして主人公が殺しを行なっているのか、ただの妄想なのか、わかりにくい。

 注意深い読者だけが、「殺人者」の語りの論理的な矛盾に気づき、情報資本主義社会のビジネスエリートの内的な空虚さがわかる仕掛けになっている。

 90年代のフェッジファンドによる東アジアや南米の経済を踏みにじった上での、異常なまでのアメリカの好景気、

 一人勝ちの浮かれ騒ぎをコミカルな文体で風刺したのは、ジョナサン・フランゼンの小説『コレクションズ』(2001)だ。(註1)

 

(註1)登場人物の一人で「成功者」のゲイリー(地方銀行の部長)は、このように嘆く。

 「まわりを見渡せば成金がごまんといて、みな同じようなことをして豪勢な気分を味わおうとしていている

  ——正調ヴィクトリア朝様式の家を買い、処女雪の上でスキーをし、シェフと顔見知りになり、足跡のついていない浜辺を歩く。

  金のない若いアメリカ人は成金より数は多いが彼らもまたクールなライフスタイルを求めてやまない。

  ところが、悲しいかな、とびきり豪勢な気分やクールな気分を味わえる人間は誰もいないというのが現状だ。

  なぜなら、平凡な人間がいなくなったからだ。クールでない人間でいるというありがたくない仕事を誰も引き受けないからだ」

(つづく)

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書評 ポール・セロー『ダーク・スター・サファリ』

2012年04月01日 | 書評

アフリカ縦断の文学的紀行文

ポール・セロー『ダーク・スター・サファリ』(北田絵里子訳、英治出版) 

 

アメリカの人気作家セローは、お手軽なパックツアーの観光客だけにはなりたくないと宣言する。

ケニアで猛獣狩りおこなった先輩作家への反感があるからだ。

「アフリカで経験できるあらゆる種類の旅の中で最もたやすく見つかる最も底の浅いものを好んだのがヘミングウェイという男なのである」と、彼は言う。

あたかもヘミングウェイに反旗をかかげるかのように、北のカイロから南のケープタウンまでアフリカ東部の9カ国を股にかけた一人旅に出る。

少しばかりの着替えを入れた古鞄にブリーフケース、安物時計に小型ラジオだけの軽装だ。

一部の国には、四十年ほど前に暮らしていたことがあり、再訪の旅でもあった。

アフリカ縦断の「貧乏旅行」で出会った人々、見た風景、感じたことなどが小説家の筆づかいでこと細かに書き綴られている。

スーダンのイスラム教徒の既婚女性の脚に彫られているタットゥー(刺青)へのフェティシズム、

ウガンダで売春婦に身をやつしている女性たちの話など、

読者の覗き見趣味を満足させてくれるような面白いエピソードがふんだんにまぶされている。

とはいえ、これは異国の風変わりな風習だけを取りあげる通俗的な旅日記ではない。

むしろ、一種の文学的な紀行文でもある。西洋文学の先人たちがアフリカをどう捉えたか、過去の文学作品が引き合いに出される。

著者によれば、かつてディケンズが『荒涼館』で皮肉った慈善家の発想が

いま行なわれている西欧主導の人道的アフリカ支援の発想と同じであり、

アフリカ人の自立をもたらさないという。

「そうした寄贈物は、電池が切れれば走らなくなり、壊れれば修理もされないたぐいの、

見栄えのいいクリスマス・プレゼントみたいなものだ」と。

「旅のすばらしさは、過去への扉を開いてくれるところだ」という著者の言葉をもじって言えば、

このようなアフリカの僻地を旅した文学的な記録のすばらしさは、めったに行けない異国への扉を開いてくれるところだ。

(『日経新聞』2012年4月1日朝刊)

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