越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

続々 牛タン情報

2008年03月31日 | 音楽、踊り、祭り
 近くのスーパーで「牛タン仙台味噌焼」というおにぎりを見つけた。買って食べてみたが、牛タンは刻んであり、ほとんど味噌ネギを食べている感覚でおわった。企画ネタだね。
 
 秋田のM<猫>さんから、カラーコピーで、仙台の牛タンの店のガイド(一枚)が送られてきた。

 それによると、仙台駅前には、ぼくたちが行った「伊達の牛タン本舗」をはじめ、「真助」「福助」「牛タン焼 右門」などがあり、一番町には、「味 太助」「味工房」「閣」「キ助」「おやま」「とだて」などがあり、国分町には、「一隆」「一福」「べこ政宗」などがあり、仙台駅東口には「備前」がある。

 さらに特別にもう一枚、猫さんおすすめの「味 太助」のページが同封されており、それには、牛タンの説明のあとに、こうあるーー

 「合いの手は、青唐の南蛮漬。唐辛子の辛さと味噌の塩気が牛タンの甘みを切るのにうってつけ。ビールにもことのほかよく合う・・・テールスープのさっとだけ火を通したネギのうまさは出色の味」

 ・・・だそうです??? ネギを褒めてどうするの。
 どうせ褒めるなら、「さっと火を通しただけのネギを入れたテールスープは出色の味」じゃないだろうか。


 








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コーマック・マッカーシー: 米国の「暴力依存」見据える作家

2008年03月29日 | 小説
米国の「暴力依存」見据える作家
『ノーカントリー』のコーマック・マッカーシー
越川芳明

 先ごろ米アカデミー賞(作品賞、監督賞ほか)に輝いたばかりのハリウッド映画『ノーカントリー』が公開中だ。

 ドラッグの密輸団による抗争を題材にしたこの映画には原作があり、著者はアメリカの作家、コーマック・マッカーシー(一九三三年生まれ)。

 フィリップ・ロスやトマス・ピンチョンらと並んで、毎年秋になると、ノーベル賞の「候補」として噂される実力派作家である。

 小説『ノーカントリー・フォー・オールド・メン』(二〇〇五年、邦題『血と暴力の国』)は、スリラーとも「暗黒小説」とも括られても仕方ないほどに、暴力シーンが目につく。

 だが、マッカーシーは、これまでずっと執拗に暴力を描きつづけてきた。

 フォークナー賞を受賞したデビュー作『オーチャード・キーパー』(一九六五年)は、実の父親を殺した密造酒売人をそれと知らずに英雄と仰ぐ少年を主人公にした物語だった。

 二作目の『アウター・ダーク』(一九六八年)はアパラチア山脈の奥地を舞台にして、兄妹の近親相姦と嬰児殺しをテーマにした小説だった。

 マッカーシーにとって、暴力とは何だろうか。『ノーカントリー』は、八〇年代のテキサスが舞台となっているが、二〇世紀にアメリカの絡んだ戦争が影を落としている。

 たとえば、登場人物の一人、モスはヴェトナム戦争では狙撃兵だった。いまは、安っぽいトレーラーハウスに若い妻と住んでいるが、平原でひとりカモシカ猟をしているうちに、密輸団の残した大金を見つけてしまう。そこから急坂を転げるように運命に翻弄される。
 
 いま米国史を振り返ってみれば、この国は紛争や事態の解決のために、絶えず暴力を使うことを肯定してきた。イギリスからの独立も民兵の武力行使で勝ち取ったものであり、その後の建国も、先住民の虐殺や排除によって成り立ったものである。国連決議を無視した最近のイラク戦争への突入などを見ても、暴力への依存は米国の強迫観念とさえ言える。
 
 マッカーシーが、小説の中でさかんに暴力を描くのは、かつての西部開拓を美しい神話にして美化したりせず、米国の暴力への依存体質を見据えているからに他ならない。
 
 この小説でも、老いたベル保安官はみずからの無力を自覚しながら、「この郡は四十一年間に未解決の殺人事件が一件もなかったのに、いまじゃ、一週間に九件もある始末だ」と、嘆く。
 
 しかし、かれのいう<古きよき西部>というのは、後の世代の者たちがこしらえた神話であり、ノスタルジーの産物だ。現実は無法者たちの狼藉がまかり通っていた暗黒世界ではなかったのか。
 
 国境三部作の『越境』(一九九四年)に出てくる、メキシコに住む盲目の老人の言葉が忘れがたい。老人の娘がいまはずいぶん時代が変わったと言うのに対して、盲目の老人は、世界は何も変わっていないというーー
「世界は、日々新しく生まれ変わる。神が毎日そう作るからだ。だた、その世界の中に昔と同じように、悪魔たちもいるのだ」と。
 
 『ノーカントリー』にも、ドラッグ密売団に雇われたシガーという殺し屋が出てくる。牛を屠畜するための圧縮空気銃を使って、誰構わず容赦なく殺しをおこなう冷血鬼だ。

 マッカーシーは、この血と暴力を欲する男に、血塗られたアメリカ「西部」の真の姿を象徴させようとしているのではないだろうか。

(『毎日新聞』2008年3月28日(金)夕刊 文化欄)



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テキーラ・ナイト

2008年03月28日 | 小説
26日に明治大の卒業式があった。

卒論の学生たちと研究室でのんびり飲んでいたが、夕方になるに連れて、次第に人が集まってきて、とうとう部屋に入りきれなくなった。最後にテキーラを飲みたいというので、皆をメキシコ料理屋<エル・アルボリート>に連れて行った。

そのまえに、学生たちが気をきかせて、サボテンと花の贈り物をくれた。色紙も。色紙の真ん中にはメキシコ風の風景とわたしの似顔絵が上手に描いてあり、それを取り巻くように各自のコメントが寄せられていた。

ウッディ・アレンで卒論を書いた、4月から編集者になる予定のS君のところには、「先生の授業には、エロティシズムが感じられる」みたいなことが書いてあった。要するに、下ネタが絶えない、といいたいのだろうか。

そういえば、キューバの亡命ゲイ作家、レイナルド・アレナスは自伝『夜になるまえに』で、子供の頃すごした自然の世界はエロティックな世界であったと告白している。引用してみようーー

「七歳から十歳という時期はぼくにとっては性衝動の強い、静的に貪欲な時期であり、前にも触れたように、たいていのものが対象となっていた。

自然一般が相手だった。というのも、木をも含んでいたからだ。たとえば、パパイヤみたいに茎の柔らかい木に穴をあけてペニスを突っ込んだものだった。

・・・(中略)いとこのハビエルは、牡(オス)鶏とやったときが最高だった、と打ち明けた。ある朝その牡鶏が死んでいた。いとこのペニス大きさのせいだとは思わない。実際、かなり小さかったから。

中庭の牝(メス)鶏という牝鶏をやっていた自分が逆にやられた、それが恥ずかしくて死んだのだと思う」(安藤哲行訳、44ページ)

遅れてきた3人もふくめて、<エル・アルボリート>には学生10人が集合した。

ママのとっさの機転というか、配慮というか、着物の女性には、着物をよごすとまずいので、大きなテーブルクロスが渡された。なんだか、美容室みたいな格好になった。

さらに、卒業祝いとして、店からワインボトル2本が無料で提供された。ぼくたちはそのワインをさっさとやっつけて、ライムと塩をなめながら、テキーラのボトルを3本あけた。研究室で4時前から飲みはじめ、店を出たのは9時半だった。












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仙台の牛タン定食(続報)

2008年03月27日 | 小説
 仙台で、牛タンなるもので商売を始めたのは、「タン助」ではなく「味 太助」だそうです。お詫びします。「味 太助」 ☞ http://www.aji-tasuke.co.jp/ 

 秋田のM<猫>さんによるとーー

「著作権や特許という考えなどなく、(「味 太助」が)二軒ほどでずっとやってゆくうちに首都圏では、福島県出身者に<牛タンのねぎし>をチェーン店化され、仙台でも common capital 化してしまいました」

 とすれば、現在、仙台その他の土地で、群雄割拠のごとく牛タン屋が勢力争いをしているのは、老舗のやり方(牛タン焼きに、テールスープ、麦飯の3点セット)が実にシンプルで、かつ商売になったからなのだろう。

 が、それを普及させたのが老舗ではなく、めざとい資本家(商売人)であるのが象徴的だ。

 僕たちが行った駅前の「伊達の牛タン」は、モダンな西洋風レストランの雰囲気で、音楽もジャズがかかっていた。それに対して、☝の写真の「味 太助」をみれば、ラジオでプロ野球がかかっているような焼き鳥屋のノリだ。

 値段は、老舗でも新興勢力でも1400円前後だから、ご飯だけを食べたい若い女性に好まれるのは、圧倒的に前者だろう。が、酒も飲みたいぼくは、後者のほうに惹かれる。

 果たして、味のほうは??







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フィデル・カストロの名言?

2008年03月26日 | 小説
 このところ、カストロに関する文献をあれこれ読んでいる。『現代思想』(青土社)が特集を組むらしく、2カ月前に原稿を依頼された。

 きょうは、ずっと以前に見たことがあるオリヴァー・ストーンのドキュメンタリー『コマンダンテ』をメモを取りながら見た。 この映画は、在米キューバ人の政治的圧力によって、全米では公開されなかったらしい。
☞ http://ja.wikipedia.org/wiki/コマンダンテ

 とすれば、テレビしか見ないごく普通のアメリカ人の、キューバあるいはカストロへの偏見は解消されていない。 

 フィデルのコメントをいちいちメモしていたら、ずいぶん時間がかかってしまった。ノートの裏表にびっしり書いて14枚にもなった。饒舌だね。でも、数字や事実が多くて退屈な応答もたくさんある。

で、フィデルの一番の機知のきいた応答は:
ストーンの「あなたはアメリカで独裁者だと思われていますが?」という質問に対して、
「わたしは自分自身に対する独裁者であり、国民の奴隷だ」と切り返したコトバだった。



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猫さんの詩

2008年03月23日 | 小説
 秋田のM<猫>さんから日英訳の詩集をいただいた。いろいろなアメリカ詩人の英語詩と日本語訳が載っている。ちなみに<猫>さんのは、こんな感じで始まります。
 
 「絶望を呼吸する」
 
ぼくと同じ英文科に
「もう絶望」
といのが口癖の女性学生がいる
きっと一日に二十ぺんぐらいは
そう言っているに違いない

一度ほんとうに絶望して
山手線にでも飛び込んだら
かわいいのに
そうしたら一生忘れないでやるよ
あのブス
(以下略)

"We Breathe Despair"

This coed English major
Studies in the same department.
"I'm in despair," is her motto.
She repeats it
Firmly more than twenty times a day.

A happy, noisy one,
She's the last to feel so hopeless.
If she really fell into despair and
Threw herself on the Yamanote Line tracks,
So cool, charming,
I'd remember her for the rest of my life,
That siren.
...





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岡本太郎のコトバ

2008年03月22日 | 小説
 編集者のKNさんに、『岡本太郎に出会う本 BE TARO』(GAKKEN)をいただいた。ありがたい。

「明日の神話」の制作にまつわる話(日テレ前の展示は2006年夏でした。時のたつのは早すぎる!)とか、糸井重里をはじめとする芸能人が太郎を語ったりしている。KNさんがおすすめの緒川たまきさんの話もある。

 ほかに、全国に点在する岡本の作品の絵も載っているし、カードになった名言集もある。

「自分だけが独占している知識で威張ろうなんて卑しい」とか

「矛盾の中で生き貫くことこそ芸術であり人生だ」とか

「自分の夢を活かすために得意とか不得意とかを超えてやるんだ」とか、太郎に出会うコトバがいっぱいあるぜ。

 ぼくがいつもキモに銘じている座右の銘は、「万が一ふたつの間で迷ったら、自分にとって難しいほうを選べ」。太郎も「怖かったら怖いほど逆にそこに飛び込むんだ やってごらん」といっている。
 
 
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メスクラの追加公演

2008年03月21日 | 小説
 ミュージック・キャンプによれば、メスクラの追加公演が今日の夜、十一時から青山のライブハウス<月見ル君想フ>である模様。

 きのうの渋谷のクラブ・エイジアでの公演は、NHKも撮影にきていたが、大勢の若者の客を意識してか、それとも場所柄か、ラップ風の曲が多かった。ほんらいは、アンヘルの歌唱力をいかした多様な曲想に特徴がある。きょうの公演は、果たしてどうなのだろうか。


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岡本太郎「明日の神話」

2008年03月18日 | 小説
 ネットの毎日新聞ニュースによれば、岡本太郎がメキシコで制作した「明日の神話」が、渋谷の駅に展示されることになるらしい。

 たしか去年だったか、汐留の日テレ前で展示されたのを見たが、やっぱり岡本太郎らしい奔放な壁画だった。それが身近に見られるのはすばらしい。

 岡本太郎は、いくつかエッセイ集も残しているが、あるところで、「自分さがしなどやめろ」みたいなことをいっていた。いままでの自分にない自分をめざせ、という彼なりの主張なのだろう。


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仙台の牛タン定食

2008年03月17日 | 小説
 仙台で行なわれたアメリカ文学会(東北支部)の研究会で、研究発表を行なった。

 仙台駅からタクシーで十分ほどの、東北大学北川内キャンパスが会場だった。寒いとまずい、と思って、ばっちり冬支度で武装して、ダウンジャケットを羽織っていった。

 ところが、15度もある快晴で、まるでプロボクサーの減量作戦みたいだった。

 JR仙台駅のコンコースには、お土産の牛タンを売る店舗が軒をならべていた。知り合いから牛タンが有名だと聞いてはいたが、これほどのすごさとは思わなかった。帰りに、その一つの店で薫製を買った。

 秋田大のM<猫>先生は、フランチャイズ化をガンとして拒んでいる老舗の<タン助>がいいとおっしゃっていたが、われわれは駅前の<伊達の牛タン>というレストランに行き、昼飯に<牛タン定食>を選んだ。

 牛タン5、6切れ。麦ご飯、スープという組み合わせ。これで1450円だから、いい商売だなあ。この店は流れる音楽はジャズだし、日本酒もワイングラスで出すなど、すこし気取っているのが鼻につく。

 けっこうおいしかったが、一緒に行ったM<猫>先生にいわせれば、味は<タン助>に敵わないらしい。それを聞くと、やっぱり遠くても<タン助>にいけばよかった、という気になった。


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メスクラのライブ情報

2008年03月14日 | 小説
メスクラのライブに関しては、次のページに載っています。

中目黒のメキシカンレストラン<ジャンカデリック>
http://junkadelic.blog17.fc2.com/blog-entry-70.html

予約がてら電話でお店に問い合わせたところ、
6時25分から一度だけ演奏するということです。
多少遅くなるだろうとのことです。

久しぶりにメスクラのHPに当たってみたが、ずいぶん進化してカッコよくなっていた。
http://www.mezklah.com/flash.html

ただ聞くだけの音楽ではない。ふしぎと霊魂に響いてくるスピリチュアルな世界を味わってほしい。

☝の画像は、オアハカで撮った写真(左からロベルト・コッシー、ボーカルのアンヘル、アンヘルの兄チョンの「3バカ兄弟」)にアンヘルのグラフィックアートを合成したもの。アンヘルのGアートも相当ユニーク。
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駿河台下のメキシコ料理店 エル・アルボリート

2008年03月14日 | 小説
 さきごろ、NHKの教育テレビ「スペイン語講座」の<文化コーナー>に招かれて、米墨国境地帯のボーダー文化について喋った。かつてぼくがぶらついていたイーストLAのストリートのグラフィディのいい映像が局にあり、それを使わせてもらった。「スペイン語」というべきところを無意識に「フランス語」といったりして、我ながら足が地についていなかったぜ!

 ぼくを招いてくださったチーフプロデューサーのMさんから意外な情報を得た。ロサンジェルスのエレクトニック/トライバル・バンド<メスカル>が来日して、3月20日(木)に渋谷のクラブ、エイジアでライブをやるという。

 Mさんはかれらのインタビューもやりたいとおっしゃっていた。アンヘルとグレッグのふたりとメキシコで遊んだのは数年前の夏のこと。懐かしいなあ。
 
 夜、神田駿河台下のメキシコ料理店<エル・アルボリート>にいった。カウンターにすわって、ケサジージャ(写真☝)を肴にビールとテキーラを飲んだ。
 
 いま、この界隈は軒並みチェーン店ばかりになっている。そんなご時世で、ここはただご飯を食べたり、酒を飲んだりするだけでなく、店の人たちと心の会話のできる数少ない店だ。わかい女性だけのグループやカップルなど、ありきたりのチェーンの店に飽きた客たちが大勢いる。

 ビールとテキーラだけでは来る人も限られるので、最近はワインや焼酎や日本酒も置いている。この前にいったとき、「テキーラの安いボトルを(キープするために)置いてよ」と、こちらの勝手な希望をいってみた。すると、この日、ご主人はあの件ですが、近々にやりますよ、と、おっしゃっていた。メニューにない「注文」も聞いてくれる良心的な店だ。

 音楽は、キューバやカリブのダンス音楽中心。だから、この先、料理はメキシコでも、雰囲気はラテン風居酒屋でいってほしい、と勝手ながら思った。 
 <エル・アルボリート>はつぎのホームページを参考に。
 http://www.elarbolito.co.jp/space/index.html
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書評 DBCピエール(都甲幸治訳)『ヴァーノン・ゴッド・リトル』

2008年03月10日 | 小説
銃乱射撃事件が暴くテレビ社会の病巣
DBCピエール『ヴァーノン・ゴッド・リトル 死をめぐる21世紀の喜劇』(ヴィレッジブックス)
越川芳明

 本書は、無名作家のデビュー作にもかかわらず、イギリスの権威あるブッカー賞を受賞した。

 著者の経歴も面白く、オーストラリア生まれながら、幼くして科学者である父の仕事の都合で、メキシコをふくむ世界を点々とし、父の死後に、ドラッグに手を出したり、人の家を売り飛ばしたりするなど、破天荒な人生を送ったという。

 この小説の舞台は、キリスト教の「殉教」という語に由来する、テキサス州の小さな田舎町。十五才の少年、ヴァーノン・グレゴリー・リトルの災難と成長とを題材にしている。

 ヴァーノン少年は、親友のメキシコ系少年がいじめへの復讐心から十六人の生徒を殺した射撃事件の共謀犯あるいは真犯人としての嫌疑をかけられ、国境の南へ逃亡を試みる。

 無実なのに、少年が逃亡しなければならないのは、思いを寄せた女の子から預かったドラッグや、失踪した父親の残していったライフル銃など、もし捕まったときに自分に不利に働きそうなものをいろいろと抱えていたからだ。

 米国の高校での銃乱射事件に想を得たというが、マイケル・ムーア監督の映画『ボウリング・フォア・コロンバイン』が銃社会の問題を突き止めようとしたのに対し、この小説はむしろ、テレビの視聴率争いに代表される情報資本主義の病巣を突く。

 それは、テレビで放送されることが真実という間違った思い込みを人々のあいだに生みだすだけでなく、人々が複雑な現実を等閑視したがるようになるといった悪循環をもたらす。さらに、視聴率至上主義の弊害もある。

 著者は少年の語りに忍ばせて、「物事の実際のありようを彼らは忘れはてて、テレビ映画みたいに世界を見るようになる。そのなかではすべてが単純明快だ」と、警句を発する。

 社会から疎外される若者の物語という点では、サリンジャーの『キャッチャー・イン・ライ』をほうふつとさせるが、きたない卑語を多用する、ブラックユーモアをまぶした語りだけでなく、「ひざまずいて人のために祈れ」という寓意を伝える、喜劇的などんでん返しこそが、この小説を大人が読むに値するユニークな小説にしている。

『時事通信』2008年3月

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おいしいコーヒー

2008年03月06日 | 小説
興味深いドキュメンタリー映画『おいしいコーヒーの真実』を見た。コーヒーの価格も、アフリカ産や南米産の生産物と同様、世界の経済格差を浮き彫りにする。

生産者であるエチオピアの農民の貧困に比べて、われわれ消費者にたどり着くまでに介在する業者の利益のなんとすざましいことか。

スターバックスがたった20年足らずで、雨後のタケノコのように世界中のまちまちに見かけるようになったのは、原料を安く買いたたき、はんぱでない利益をあげているからだ。300円のコーヒーの原料費は、たったの数円という現実がある。農民には、ほとんど利益はない。

どこからコーヒーが来るか、日本の消費者が想像力をはたらかせるためにも、この映画は有益だ。5月31日より渋谷アップリンクXにて公開予定
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ガス・ヴァン・サント『パラノイドパーク』

2008年03月06日 | 小説
ゲイのための映画版『キャッチャー・イン・ザ・ライ』
映画『パラノイドパーク』
越川芳明

 アメリカ文学は、少年の無垢を描くのを得意にしている。大人への移行期において、少年の内部に不満が生じ、社会の「常識」とは違う別の価値観に目覚める。そんな宙ぶらりんな精神状態を巧みにとらえてきた。たとえば、サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』はあまりに有名だ。
 
 この映画は、少年の思春期を描くことにかけてはアメリカ映画界で随一といえるガス・ヴァン・サント監督による作品だ。高度に記号化されたホモセクシュアル・シーンに着目すれば、ゲイのための『キャッチャー』ともいえなくもない。

 物語は割と単純だ。舞台は西海岸オレゴン州ポートランド。主人公の少年アレックスは高校生だが、両親が別居中で、家庭生活が不安定だ。夏のある日、友達とスケートボードの聖地パラノイドパークに出かけていき、そのダークな魅力に囚われる。

「そこで滑っている奴らがカッコいい。かれらは自力で違法なパークを作った。貨車に飛び乗る奴、パンク野郎、酔っ払い、ホームレス。みな家庭生活が最悪な奴らばかりだ」と、少年はノートに書きつける。

 後日、一人でパークにいった少年は誘われて貨車乗りを試すが、警備員に見つかり追いかけられ、持っていたボードで振り払う。警備員は体勢を崩して隣の線路に倒れ、そこに貨車がやってきてひき殺される。少年は現場から逃げ、そこからかれの地獄が始まる。

 プロットは単純だが、語りの構造はそう単純ではない。物語の真ん中あたりから始まり、時間が前後しながら語られる。肝心の貨車乗りと事故のショットが出てくるのは、実に後半遅くになってからだ。あえて語りの中でそのショットを先送りにしているのは、なぜか。

 ヴァン・サント監督は、少年の心の地獄をわざとらしくグロテスクに描くことはない。むしろ、冷静でかつ無頓着な表情を浮かべるアレックスを撮る。まるで能面のように、無表情な少年の顔にわたしたちが何を見るかは、それぞれの想像力にかかっている。映画は内面描写をしない代わりに、少年の心を風景描写や主人公の行動によって象徴的に描く。

 そこに撮影監督クリストファー・ドイルの腕が存分に発揮される。

 たとえば、静と動のコントラストが巧妙に使われている冒頭のショットが印象深い。川の上に緑色の大きな橋が架かっていて、その上空には灰色の雲が浮かぶ。映画は、川と橋と空という静的な風景をロングショットで撮り、その映像を超高速のクイックモーションで見せる。とすると、川や橋や空はまったく動かないが、川をゆく船や橋の上の車、空の雲はものすごい勢いで流れてゆく。

 そのような静と動のコントラストを、冷静と不安の交錯と読み替えると、この何気ない風景描写がアレックス少年の心象として提示されていることがわかる。このショットには、ニーノ・ロータの幻惑的で不気味な音楽が流れており、見る人を不安に駆り立てないではおかない。

 川と橋は少年がありきたりの日常の価値観とはちがうもう一つの価値観に覚醒するために超えねばならぬ境界の象徴だ。

 このような静と動のコントラストは、その後、いくつものバリエーションをうみだす。たとえば、スローモーションとクイックモーションの対比も注目に値する。
 
 アレックスは、事件後、授業中に放送で呼び出されて控え室に向かう。明るい廊下を歩いていく少年を前から長回しのクイックモーションで見せるが、映像の背後に流れるサウンドは明るいポップ音楽だ。それに対して、刑事に事情聴取を受けた後に、少年は暗い廊下を落ち着きなくあちこち見ながら歩いてゆく。スローモーションのその映像の背後に流れるサウンドは、一転して暗い曲だ。この明暗のコントラストを利用した撮影速度の対比は、事故後の少年の心の揺れを巧みに捉え、外から見れば無表情のように見えても、絶えず不安の嵐が襲ってくる少年の内面を見事に映像化している。
 
 人物の顔をアップのスローモーションで捉えたシーンが何度か出てくるが、いずれもその人物の「他者」への関心を物語っている。

 少年は、夜のパークで年上のパンクの男にボードを貸してほしいと頼まれる。この男の顔のスローモーションは、かれがアレックスに好奇心を抱いていることを示しており、ホモセクシュアルな世界への誘惑を暗示する。

 乗り物がセックスを象徴していて、男が少年からボードを借りて乗ったり、少年が男から誘われて一緒に貨物列車に飛び乗ったりするが、それらの行為は明らかに二人のあいだの性交を象徴している。
 
 アレックスに向けたメイシーという女子生徒の顔のスローモーションも興味深い。ショッピンモールでかれを見つめる視線は、彼女の愛と欲望を暗示する。その後、映画の最後のほうで、少年はめずらしく自ら発案し、彼女の自転車につかまりながら、ボードに乗って走る。この乗り物のシーンもセックスの象徴にほかならず、主人公のバイセクシュアリティがしめされるが、ここでは少年のメイシーへの信頼をも物語っており、この映画で最も素晴らしいシーンといえる。
 
 「手近な道具や障害物だけを、所有できるものだけを見つめるとき、目は弱々しくなり、囚われる」と、アメリカの哲学者アルフォンソ・リンギスはいっている。
 
 この映画は、身近な「常識」の世界からはずれたものや人間を見る、もう一つの目を持つための機会をわたしたちに与えてくれる。映画が事故のショットを先送りしたのは、おそらく犯罪者という先入観を植えつけないで、まず少年と同等の視線をわたしたちに獲得させようとしたからではないだろうか。

 (『すばる』2008年4月号318-19頁 にすこし手を加えました) 
 2008年4月12日(土)、シネセゾン渋谷他にて全国順次ロードショー

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