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映画評 テレンス・デイヴィス監督『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』

2017年07月31日 | 映画

 

死者のユーモア    テレンス・デイヴィス監督『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』

越川芳明

死を遂げた人々の 追随をゆるさぬ威容には/この世の威厳を凌ぐ 威厳がある/ 魂は その肉に <留守中>と記し/ もはや追随をゆるさず/ さわやかに風のように歩み去る (1691番、岡隆夫訳)

生前は、たった十編の詩を新聞に発表しただけで、詩集すらなかったエミリ・ディキンスン。家族が寝静まると、自分自身と向き合って、詩を書き続けた。死後に発見された千八百近くの詩篇によって、二十世紀半ば以降、現在に至るまでアメリカ文学の代表的な詩人のひとりと見なされている。  

詩人としてどこがそんなに優れているのか?   

まず、僕個人が一番惹かれるのは、彼女の詩に頻出する死のモチーフとユーモアだ。確かに、彼女が好む詩のモチーフとしては、アメリカ東部の自然、孤独、愛など他にもあるが、私たちが生きているこの世界を、墓場から見る「死者の視線」は秀逸で、そこから来るパラドクシカルなユーモアが面白い。

おそらくディキンスンは生存中に「死」を体験していた。言い換えれば、周囲の説く現世での「悔い改め」や「回心」には心動かされずに、詩を書く作業によって、魂の「永遠/不滅」を実感していたのだ。  

時代背景としては、十八世紀に東部ニューイングランドでは「大覚醒」と呼ばれる「信仰の復興運動」があった。巡礼のたち父祖の精神(ピューリタニズム)の世俗化を嘆き、厳格な教義を訴えた。それから一世紀後、ディキンスンが十代の頃にも、そうした「復興運動」が見られた。  映画は、冒頭の女学校でのシーンや、若いワズワース牧師が彼女の家を訪ねてくるシーンで、死や魂に対するディキンスンの姿勢を示唆する。

冒頭、女学校(のちの名門マウント・ホリヨーク大の前身)で、校長から信仰告白を「強要」される女子学生たちが映し出される。校長は生徒たちに「キリスト教徒として救われたいと思うか」と問いただす。ディキンスンはただ一人抵抗する。あたかも自分は既成の教会を介在させずに直接神と対話すると言いたいかのように。  

のちに、ワズワース牧師夫妻が訪ねてきて、夫妻はお茶を「嗜好品」として退け、水と白湯を所望する。そうした牧師の厳格な姿勢や詩心ある演説にディキンスンは魅了される。あたかも同類の人間を見つけたかのように。  

さて、本作はドキュメンタリーではないので、伝記的な細部において、あえて大胆な改変を行なっているようだ。ディキンスン研究者の武田雅子は、監督が独自のディキンスン像を提示するために、「この映画は生涯をできるだけ忠実に描くということはあえてしていない」と述べている。例えば、「詩人としてのあり方において重要な人物である批評家ヒギンスン、女学校時代の友人で、名のある小説家となったジャクスン、その死がディキンスン自身の死を早めたと言われる甥のギブなどは姿も見せない」(映画パンフレットより)と指摘する。  

武田が言うような、独自のディキンスン像はこの「伝記映画」のどこに見られるのか?   

それは二十一世紀に通用するディキンスン像ではないだろうか。  

私たちはどの時代に生きても、所属する社会の制約から逃れられない。十九世紀アメリカに生きたディキンスンの場合、それは南北戦争と奴隷制である。だが、そうした特定の制約にジェンダーという変数を加味して、社会と対峙する個人を主人公として描いた点に本作のドラマとしての真骨頂がある。ディキンスンは名家の生まれで、祖父はアマスト大の創立者の一人だった。父も同大の財務理事をして、下院議員も務めた。

だが、当時は家父長制の時代であり、エミリのような優秀な女性に社会での活躍の場所はなかった。南北戦争は男性の戦いであり、女性は除外された。南部には黒人奴隷を酷使する奴隷制があるが、北部には女性を差別するもう一つの「奴隷制」がある。それがエミリの見方だった。

文学の世界も同じだった。同時代のイギリスにはブロンテ姉妹の活躍があったが、アメリカでは、「不朽の名作は女性には書けない」という偏見が多数派の正論としてまかり通っていた。そうした制約にも、本作の主人公は詩を書くことで立ち向かう。死後の名声を確信して。

ひどい正気はーー全くの狂気ーー ここに、多数が 全体のように跳梁するーー 賛成すればーーあなたは正気でーー 異議を唱えればーーあなたは忽ち危険人物ーー そして鎖をもって扱われる。 (435番、安藤一郎訳)  

映画の中で、二十編ほどの詩が朗読される。これほど多くの詩が使われるのは、これが伝記映画だからというより、詩作が主人公にとって真に生きることを意味したという、映画のメッセージの表れのような気がする。偉大な詩人というより、真摯な人間というイメージが最後に残る佳作である。

(『すばる』2017年7月号)

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