越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

スポーツコラム(8)東京六大学野球

2011年09月29日 | スポーツ

 3年生になった「恐るべき子供たち」で、順調に伸びているのは、法政のショート多木(坂出高)だ。

 シュアなバッティングは相変わらずだ。

 守備も、ほかの選手がおおざっぱで、勝てる試合を落としているなかで、ミスなくこなしている。

 さて、今週、明治は優勝候補の慶応と対戦する。

 慶応は、先週、法政に足をすくわれた。

 だが、慶応は法政との3回戦でも、9回裏ツーアウト満塁とつめより、あともう一歩で勝ち点を奪取するというところまで行った。

 明治は、昨シーズンそうしたぎりぎりの試合をことごとく落とした。

 明治が、優勝する道のりはまだまだ遠い。

 

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スポーツコラム(7)東京六大学野球

2011年09月29日 | スポーツ

 杉山と同じく1年生のときから出ていた明治のセカンド上本(広陵)は、兄(早稲田出身、現阪神タイガース)同様、野球センスは抜群だが、伸び悩んでいる(ように思える)。

 バッティングがちょっと非力か。

 脚がめっぽう早いので、出塁率を高めるために、スイッチの練習とか、何か特別なことをしないといけないのでは?

 たしかに上本は守備はうまいが、昔の巨人の長島みたいに、おおざっぱ。

 ファインプレーはするが、ミスもする(今シーズンはまだ見ていないが)。

 セカンドのミスはダブルプレーが絡むので致命的になりやすい。堅実にやってほしい。

 来年、中日の監督になるらしい往年の名手・高木守道のビデオを見せてやりたい。

 例が古くて申し訳ない。
 
 (つづく)

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スポーツコラム(6)東京六大学野球ー3年生になった「恐るべき子供たち」

2011年09月27日 | スポーツ

 今シーズン、早稲田は4番を打つ杉山(3年生)がサードを守らされていて、不慣れなポジションでミスが多い。
 
 杉山は、銚子に近い旭市にある東総工業高(高校野球界では無名だが)の出身なので、気にかけている一人なのだが・・・。

 早稲田1年生のときから4番を打っている。

 1年生のときは先輩ピッチャー斉藤(祐)がリードしてくれて、キャッチャーをしていても溌剌としていた。

 右打者ながら、ゴジラ松井みたいに、振りが鋭くミートのうまい選手だった。

 ただ、昨(春)シーズンは1塁手、今シーズンは3塁手と、キャッチャーの座を先輩・市丸に譲り、あちこち放浪生活。

 大学野球にDH(指名打者)制度があれば、適任なのだが。

 杉山の場合、プロに入れる逸材(と思える)なので、課題は守りだろうか。

 というか、早稲田の場合は、そもそも選手選考に問題があるのかもしれない。

 欲張り巨人みたいに、同じポジションに優秀な選手を取って、地引という逸材のキャッチャーも控えにいるのだから。

 (つづく)

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スポーツコラム(5)東京六大学野球

2011年09月26日 | スポーツ

 チームとしての結果も、明治は今シーズン○●とタイになっても、3戦目でしぶとく勝ち点をあげている。

 もっとも、これは対戦した早稲田や法政のミスのおかげと言えなくもない。

 とりわけ、野村が打ち込まれて、9対8の乱戦になった明治・法政1回戦はその典型と言える。

 法政は、4回と7回にノーアウト1塁で、明治がダブルプレーにおあつらえ向きの内野ゴロを打ったのに、二度ともエラー。

 逆にピンチに招き、それぞれ3点、2点と失点を喫している。

 (つづく)

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スポーツコラム(4)東京六大学野球・マングースになった投手・野村(祐)

2011年09月25日 | スポーツ

 2011年秋期リーグが始まって、すでに3週目だ。

 わが明治大学では、エース野村(祐)が4年生の最後のシーズンになった。

 クールな男に何があったのか。


 これが最後のシーズンということもあり、これまでとは違うピッチングを見せている。

 早稲田の3番ライト土生(はぶ)との対戦にそれがあらわれていた。

 広陵高の同級生には、これまで終盤のいいところで、適時打を喫して大事な試合を落としていた。

 手のうちを読まれているのかな、と思ったこともある。

 今シーズン、野村と対戦した土生には、まったく快音が聞かれなかった。

 野村は、ハブの天敵マングースになったのだ(笑)。

 (つづく)

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ジョナサン・フランゼン『コレクションズ』(8)

2011年09月25日 | 小説

 フランゼンより一世代上のポストモダン作家、ロバート・クーヴァーはやはり中西部のスモールタウンを舞台にした『ブルーニストの起源』(未訳、一九六六年)を書いている。

 黙示録的世界の到来を待つ狂信的なキリスト教徒、それを迫害しようとする地元民など、登場人物の一人ひとりに焦点をあて、その心の内側からアメリカ的価値観の対立を風刺的に描きだす。

 フランゼンもまた、もっとも保守的だと言われる中西部を基点にして、そのステレオタイプなイメージの背後に潜む矛盾や病理を登場人物の人格(パーソナリティ)を通じて風刺的に描く傑作小説『コレクションズ』を書きあげた。

 フランゼンは現代小説の登場人物に関して、面白いことを語っている。
 
 「リルケは人格が存在しない、あるのは交差する様々な領域であるという、ポストモダン的な洞察を予見していた。

 すなわち、人格というのは社会的に構成されるものであり、遺伝子によって構成されるものであり、言語的に構成されるものであり、後天的に子育てによって構成されるものなのである。

(中略)それは生々しく、恐ろしく、底なしの何ものかなのだ。

 それは村上春樹が『ねじまき鳥クロニクル』の井戸でさがしているものだ。

 それを無視することは人間性を否定することに他ならない」と(『パリス・レビュー』二〇一〇年冬号)。(了)
 
ジョナサン・フランゼン(黒原敏行訳)『コレクションズ』(早川文庫、2011年8月刊)の解説 

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ジョナサン・フランゼン『コレクションズ』(7)

2011年09月21日 | 小説
  後期資本主義社会でいちばんの悩みは、ゴミ問題だ。

 「もったいない」文化とは対極にある「使い捨て」文化の産物。

 便利さや快適さを最優先する「先進国」の消費主義は、大量のプラスティック商品(ペットボトルや包装袋やCDやケータイ)を開発してきた。

 その結果、それに比例するだけの廃棄物がうまれるようになった。

 現代において最悪のゴミは、原子力発電所の「核廃棄物」プルトニウムをおいて他にない。

 ドン・デリーロは『アンダーワールド』(一九九七年)でこうした核廃棄物処理の際に現われる「強者」のエゴイズムを描いて消費主義社会を風刺した。

 一方、フランゼンの『コレクションズ』には核廃棄処理の問題は出てこないが、デニースの雇い主ブライアンの妻で、デニースがレスビアン関係を結ぶロビンという女性に、消費主義に甘んじない生き方を体現させている。

 彼女は貧民地区の子どもたちを雇って、有機菜園の実験農場を行ない、その収益を分配しようとする。

 それは、平等主義のユートピアの創造であり、エコロジカルな「リサイクリング(再利用)」の思想の実現である。

 カトリックのロビンは「聖ユダ」(ランバート家の故郷「セント・ジュード」の名前の由来)に惹かれるという。

 見込みのない目標(理想)に打ち込む人を守護する聖人だから。

(つづく)
 
 
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ジョナサン・フランゼン『コレクションズ』(6)

2011年09月20日 | 小説
2 <後期資本主義>

 戦争とならんで、この小説が焦点を当てるのは、九〇年代後期資本主義(ハイパー消費主義)の行き過ぎた様相だ。

 ブライアン・キャラハンは、フィラデルフィアでこれまでにないクールなレストランを作ろうと、その主任シェフとしてデニースに白矢を立てる。

 ブライアンは、生来の勝ち組で「生まれたときから有力者たちの世界の内側にいる」男で、温厚な良識人として、「ゴールデン・レトリバーのように世間を渡ってきた」という。

 一方、デニースは、ブライアンの妻ロビンから「人間はなんのために生きるの?」という問いを突きつけられるまで、自分が生きているのは「人に(とりわけ男に)勝つためだ」ということを疑わなかった。

 年上の男たちを踏み台にして、もちろん本人の涙ぐましい努力の成果もあって、地方都市のセレブたちと肩を並べるまで登り詰める。

 出自の違う二人、ブライアンとデニースに共通するのは、ともに「成功」するためであれば、手段を選ばない生き方だ。

 あるいは、ニューヨーク市ソーホーやトライベカに暮らす新興成金(スーパーリッチ族)が行くグランド通りの高級スーパー「消費の悪夢(ナトメア・オブ・コンサンプション)」が登場する。

 消費することが「善」であり、「金がなければ人間とはいえない」とまで感じさせられるハイパー消費主義時代の象徴のような存在だ。

 (つづく)
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ジョナサン・フランゼン『コレクションズ』(5)

2011年09月19日 | 小説
 フランゼンもまた五人の視点人物に憑依して、より大きなアメリカ的価値観を問い直す、新しいタイプのメガノヴェルを志向している。

 フランゼンが夫婦の争いを「戦争」のメタファーで描くのは、そうすることによって誇張による滑稽味が出ることもあるが、より重要なことは、アメリカの外の世界で実際に起こっている「戦争」に対して読者の連想を誘うことができるからだ。

 小説の「語りの現在」とされている九〇年代の後半、アメリカは東アジアや南米の経済危機を尻目に、チップに「金儲けをしないことが不可能だ」とまで言わせるほどの経済的な好況を呈していた。

 そのチップは、ソ連から独立を果たすバルト海のリトアニアで、ネット詐欺まがいの事業に手を貸し、旧東欧の急激な資本主義化のなかで、マフィアと手を組んだ新興財閥(ルビ:オルガイヒ)による利権争いに巻き込まれる。

 チップがかかわるのは、ネット情報を武器にしたグローバル時代の経済戦争だ。

 勝ち取るのは領土ではなく、金だ。世界銀行やIMF(国際通貨基金)などが小国の産業を民営化させようとして、融資の条件をつり上げる。

 「世界銀行に融資を申しこむと、彼らは産業を民営化しろと命じた。そこで政府は港を売りだした。航空システムを売りだし、電話網を売りだした。いちばん高い値段をつけたのはたいていアメリカ企業で、たまに西ヨーロッパの企業のこともあった」

 経済危機に陥った小国が資金力のある多国籍企業に乗っ取られてしまう事態が生じる。

 中西部の家族の小さな争いの向こうには、アメリカ的世界観によって引き起こされた軍事的、経済的な戦争がある。

 フランゼンの笑いをもたらす風刺小説には、そんなアクチュアリティが潜んでいる。

(つづく)

 
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ジョナサン・フランゼン『コレクションズ』(4)

2011年09月18日 | 小説
 同じ家族の問題を描くのでも、たとえば、八〇年代以降に流行したレイモンド・カーヴァーをはじめとするミニマリズム小説とはベクトルが違う。

 というのも、ミニマリズム小説では、台所のような小さい世界を一枚の写真のようにミニマルに写しとり、背景にあるより大きな世界を読者に想像させる「俳句」的な手法をとるからだ。

 ミニマリズムの小説では、台所の争いを「戦争」のメタファーなどを使って描いたりしない。
 
 また、一世代前のポストモダンのメガノヴェルの書き手たち、トマス・ピンチョンやウィリアム・ギャディスやドン・デリーロなどの全体主義的な「歴史小説」とも違う。

 ジョナサン・フランゼンはウィリアム・T・ヴォルマンと同世代だという。そこにひとつのヒントがうかがわれる。

 ヴォルマンは太古からのアメリカ大陸の歴史、北からのアメリカ大陸「発見」の旅に興味をいだき、みずからの北極生活をフラグメンタルな「歴史小説」のなかに溶け込ます。

 たとえば、『ザ・ライフルズ』(一九九四年)は、十九世紀半ば、ジョン・フランクリン卿に率いられ、氷の北極圏に閉じ込められたイギリス艦隊による北極探検をあつかっているが、ヴォルマンはシャーマンのごとくフランクリン卿に憑依して、十九世紀と二十世紀を自在に往復するアクロバティックな語りを展開する。

 過去の歴史と現在の自分(サブゼロという化身を通して)を想像力で強引につなげることで、歴史小説に、現代の語り部としての血を、内的な動機を与えている。
(つづく)

 
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ジョナサン・フランゼン『コレクションズ』(3)

2011年09月17日 | 小説
 戦いのメタファーは、老夫婦ばかりに適用されるのではない。

 長男ゲイリーの家庭でも同じだ。

 ゲイリーとその妻、富裕なクエーカー教徒の家柄を誇るキャロラインは、フィラデルフィアの高級住宅地に住む。

 「最後のクリスマス」を、子どもたちはむろん、嫁や孫たちも全員招いて、中西部の自宅で祝いたいという姑の「気違いじみた執着」(嫁キャロラインの言葉)をめぐって、内戦が勃発。

 彼らの場合は、寝室が戦場となり、故郷でのクリスマスに固執するゲイリーと、彼を「鬱病」と決めつける妻とのあいだで戦いが引き起こされる。

 「キャロラインは今や夫への敵意を夫の“健康”への“気遣い”に偽装する技を身につけている。

 この生物兵器に、彼が使用している家庭争議用の通常兵器は太刀打ちできないのだ。

 彼が意地悪く彼女の人格を攻撃するのに対して、彼女は高潔に彼の病気を攻撃する、という構図になっている」

 そうした夫婦の諍い、嫁姑の確執など家庭内の争いを、フランゼンはなぜ「戦争」のメタファーによって描くのか。

(つづく)

 
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ジョナサン・フランゼン『コレクションズ』(2)

2011年09月16日 | 小説
 小説の主たる舞台は、家の中だ。

 たとえば、アルフレッドとイーニッドの老夫妻の場合は、家の地下室だ。

 なぜ地下室なのか? 

 そこに卓球台があるからである。

 作家は、夫婦の諍(いさか)いをただの激情の発露とみなさず、個人を内側から縛っている価値観の争いとみて、「戦争」のメタファーで描く。

 それぞれの価値観をぶつけ合う場として、地下室の卓球台が「戦場」として描かれる。

 「卓球台は内戦が公然と戦われる場の一つなのだ。戦場の東端では、アルフレッドの計算器が、花柄の鍋つかみや、ディズニーワールドのエプコット・センターで買ったコースターや、イーニッドが三十年前前に買ってから一度も使っていないサクランボの種をぬく道具などに襲撃される。一方、西端ではアルフレッドが、イーニッドに言わせればなんの理由もなく、松毬(ルビ:まつかさ)とスプレーで着色した榛(ルビ:はしばみ)の実とブラジル・ナッツでこしらえたクリスマス・リースを引き裂いたりする」 

(つづく)
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ジョナサン・フランゼン『コレクションズ』(1)

2011年09月15日 | 小説
コミカルなポストモダンの「家族小説」 
 解説 ジョナサン・フランゼン『コレクションズ』
越川芳明

1<小さな戦争>
 
 これは、コミカルな風刺をまぶしたポストモダンの「家族小説」だ。

 ポストモダンというわけは、従来のリアリズム小説とは違って、作者の特権的な立場(全知の立場)を前提にしない書き方で書かれているからだ。

 すなわち、この小説では、比較的短い一番目の章「セント・ジュード」と最後の章「修正」のあいだに、それ自体が中篇小説といってもよい五つの章、「失敗」、「考えれば考えるほど腹がたつ」、「洋上で」、「発電機」、「最後のクリスマス」が挟まれているが、それらの章がひとつの家族を構成する五人の視点人物によって語られている。

 まず、アメリカの心臓地帯、中西部の架空のスモールタウン、セント・ジュードに暮らす老夫婦がいる。

 ミッドランド・パシフィック鉄道の技術部長の職を辞したアルフレッド・ランバートと、世間体を非常に気にする妻イーニッド。

 そして、その老夫婦の三人の子どもたちがいる。

 長男で、いまは東部の都市フィラデルフィアで地元銀行の投資部門の部長になっているゲイリー。

 次男で、若い女子学生とトラブルを起こし東部の大学を解職されたチップ。

 さらにフィラデルフィアの資産家に認められて新たに開店する超一流レストランのシェフを任される末っ子のデニース。

 これらの五人が視点人物となり、彼らと関わりを持つ近隣の人々、恋人、会社の同僚、仕事仲間、そしてもちろん家族の他のメンバーと織りなす悲喜劇を互いの立場から語り起こす。

 それゆえに小説で描かれる世界は、絶対的な真実というよりは、相対的な世界観の寄せ集めにならざるを得ない。

(つづく) 
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私の母は「わたり烏(がらす)」と申します

2011年09月11日 | エッセイ
私の母は「わたり烏」と申します(忘れられない本) 
越川芳明

 十数年前のことだが、日本の最果ての島をあちこちうろつきまわっていた。

 まるで宿なしのノラ犬みたいに。
 
 北海道の稚内から船で礼文島や利尻島に渡り、江戸時代末期に一人のアメリカ人がアイヌの地に密入国を企てたことを知った。

 父はスコットランド系だが、母はアメリカ先住民チヌーク族の酋長の娘だったという。

 長崎まで連れて行かれ、のちにペリー提督との交渉で通訳をすることになる侍たちに英会話を教えたらしい。

 数ヶ月後に、南の八重山群島の石垣島に行き、そこから、小型機に乗って西の果ての与那国島に渡った。

 宿に着いて持参した携帯ラジオをつけると台湾の放送が入った。

 橋幸夫や舟木一夫など、昭和の歌謡曲が中国語のお喋りのあいまに流れてきた。
 
 夕食のときに、沖縄本島から護岸工事にやってきた男の人から、宿の近くに一億円の墓があるという話を聞いた。

 翌朝、墓地を見にいった。

 大きい亀甲墓が見晴らしのよい海端に数多く並んでいた。
 
 雑草の生い茂る墓地には、天然記念物の与那国馬が放し飼いになっていて、墓の前のコンクリートに糞を落としていた。

 一億円の墓は、そこから少し離れたところにあった。広大な敷地は米大統領のホワイトハウスみたいに頑丈なフェンスで被われており、おまけにヒンプンと呼ばれる石塀で目隠しされていた。

 戦後の密貿易で荒稼ぎした者が作ったのかもしれない。

 それにしても、フェンスで囲ってしまっては、馬も糞を落としにきてくれないではないか。
 
 数年後、ジェラルド・ヴィズナーという、アメリカ先住民の血を引く作家が来日した。

 戦後日本と現代アメリカを舞台にして、ヒロシマ原爆とアメリカ先住民の大虐殺を文学的な想像力でつないだ『ヒロシマ・ブギ――アトム57』(未訳、二〇〇三年)という小説を出したばかりだった。

 作家と歓談する機会があったが、利尻島に流れ着いたアメリカの混血児のことを知っているかどうかは聞きそびれた。

 だが、後日、私は日米の混血児である主人公が「わたり烏(がらす)」の夢を見る、小説の一節に遭遇して思わずにやりとした。

 「わたり烏」というのは、利尻島に流れ着いたラナルド・マクドナルドという男の母親の名前だったからだ。

 (『週刊朝日』2011年9月9日号、84頁に若干加筆しました)
*なお、「わたり烏」は、英語では「raven(レイヴン)」と呼ばれています。
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ジョルジョ・ディリッティ『やがて来たる者へ』(3)

2011年09月10日 | 映画
 この映画は、イタリアでは一九四四年九月二十九日から十月五日までの「マルツァボットの虐殺」と呼ばれる、ドイツ軍によるイタリア人の大虐殺を題材にしている。  

 当時、イタリアは南部を確保した連合国軍と、北部を拠点にするナチス・ドイツ軍に二分されていた。

 イタリア・ファシスト軍がドイツ軍に加担し、一方、住民からなるパルティザン部隊がドイツ軍にレジスタンス運動を展開するという複雑な状況にあった。

 本作の舞台である山間の村の近くには、ドイツ軍が連合国軍に対して築いた防衛線があり、また指導者ルーポに率いられたパルティザン部隊「赤い星」の拠点もあったらしい。

 父親をはじめとする男たちは、都市への出稼ぎを禁止するファシスト党に反感を抱き、また先祖伝来の家を守ろうとするパルティザンに対しては好意的であった。

 だが、マルティーナの母親をはじめとする女たちは、ドイツ軍にもパルティザンにも批判的だった。

 「ドイツ軍が家畜を持っていってしまったし、パルティザンは残りの食料を持っていく」と、母は嘆く。

 最後のシーンが印象的だ。
 
 見る者に徹していた少女マルティーナは、誰もいない家のベッドを見たあと、外の丸太の上に腰をかけて、呆然と家の前の風景を眺めている。

 彼女の目が捉えるのは、一面雪の冬景色でも、花々の咲き乱れる夏景色でもなく、葉がすべて落ちた枯れ木がぽつんと立っている、うらぶれた初秋の景色だ。

 失語症に陥っていたマルティーナが、家族のなかで自分と共に唯一命拾いした赤子を抱きながら、ふと母がベッドの上で歌ってくれた子守歌を口ずさむ。

 これ以上ない絶望のなかで、生きることを選ぶ。ディリッティ監督からの無言のメッセージだ。
 
(『すばる』2011年10月号、272-273頁)

 2011年10月22日より、岩波ホールほかでロードショー。

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