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映画評 キリル・セレブレンニコフ監督『インフル病みのペトロフ家』

2022年03月20日 | 映画
雪むすめの冷たい手               
キリル・セレブレンニコフ監督『インフル病みのペトロフ家』
越川芳明
 
ロシアの地方都市を舞台に、新年を迎える労働者階級の市民の狂気の日常をSFドタバタ喜劇調に扱う怪作。アレクセイ・サリニコフという小説家の同名のベストセラー小説(2016年)が原作だという。

主人公は、ペトロフという名の中年の自動車整備士だ。離婚した妻ペトロワとの間に息子が一人いるが、妻は息子の病気を口実によくペトロフの家にやってきて、元夫と性的な関係をつづけている。二人に共通するのは妄想癖が強いことである。とりわけ、暴力的な妄想にとりつかれている。

たとえば、ペトロフはインフルエンザのひどい咳に悩まされ、高熱のために意識が朦朧とするなか、満員のトロリーバスから降りる。すると、いきなり義勇軍のような集団に取り込まれ、武器を渡され、政府要人たちの処刑に立ち会うはめに陥る。

このシーンは高熱の妄想のなせるわざなのか、現実の出来事なのか。映画は現実と妄想を切り分けて描くわけではない。観客は現実に起こっていることなのか、それとも登場人物の頭の中で起こっていることなのか、区別できない。

図書館司書をしている妻のペトロワの場合も同様だ。不満ばかりを言う息子の首をナイフで刎(は)ねたり、図書館でサド侯爵の全集や強制収容所文学など、風変わりな本ばかりを借りる「変態男」や、図書館で集会をおこなう文学サークルの鼻持ちならない詩人、書棚の陰で図書館員の女性を脅している男をことごとく殺害する。彼女の場合、性的な妄想も激しい。

生と死の区別もあいまいだ。ペトロフは病気にもかかわらず、大酒飲みの友人イーゴリに誘われて、霊柩車の中で酒盛りを始める。その後、車内にあった死体が消えてしまうという事件が発生する。果たして死者は生きていたのか。

フロイト心理学によれば、妄想や夢は人間の現実(性的抑圧や欲求不満)を映し出すという。この二人に限らず、ほかの市民たちもまた現状に不満であり、フラストレーションの塊である。ソ連時代を懐かしみ、「昔は、毎年サナトリウムへ無料で行けたものなのに、ゴルバチョフとエリツィンのせいで生活は最悪だ」と不平を漏らす。だが、彼らにその時代に戻りたいかと問えば、きっと厭だというだろう。

冒頭に、バンドネオンの歌が流れる。「われらの時代は、過ぎ去る鳥のように・・・」もとに戻ってこない。過去は美しく飾られる。だから、誰もが「ノスタルジー」にひたりたがる。

ペトロフも例外ではない。作品の中で時間的なねじれがあり、彼はインフルに罹った息子を妻に反対されながらも新年の祭りに連れてゆく。そこでも妄想が出てきて、自分が子供の頃、雪むすめの冷たい手に触れた思い出にひたる(しかし、小説家を志す、ペトロフの友達のセリョージャの記憶として映像化されていて、ここでもどちらの話なのか判然としない)。そこに、雪むすめを演じるマリーナの物語がそこに挿入されて、旧ソ連時代の新年の祭りに接続される。

ロシア帝国時代からつづく新年の「ヨールカの祭り」について一言触れておこう。ヨールカというのは、西洋ではクリスマスに飾るモミの木のことである。ピョートル大帝(1672-1725)が世界創造紀元をキリスト紀元に改め、元日を1月1日としたことに由来するようだ。いわば、スラブ文化のヨーロッパ化・キリスト教化を象徴する行事である。

そして、スラブ文化の中には、もともとジェド・マロースという名の「霜」のお爺さんが子供たちにプレゼントを持ってくるという、西洋のサンタクロースに似たおとぎ話があった。白髭のお爺さんには、青と白の毛皮のコートを着たスネグーラチカという雪むすめ(雪の妖精)が付き添っていた。

しかし、ロシア革命以降のソ連では、サンタクロースの登場するキリスト教のクリスマス行事はブルジョワ的だとして廃止される。ヨールカの木と雪むすめの新年の行事だけが生き延びたという。ペトロフ(そして、セリョージャ)の、雪むすめの冷たい手の思い出は、そうしたソ連時代を思い起こさせる出来事なのだ。

そして、現代のシーンで登場する雪むすめにはギャグが効いている。長い金髪の雪むすめの仮装をした中年女性の車掌がいるからだ。ソ連時代にはほとんど無料同然で乗れたはずの公共交通だから、切符を買い渋る客がいるらしく、彼女は車内を動きまわってしつこく切符の点検をおこなう。そして「運賃免除だったら、パスを見せて。拝見、はい、免除のクズ人間ね」などと毒ある皮肉を言い放つ。

ロシア帝国時代からペレストロイカを経て、現代までをリアリズムの手法で撮るとすると、長大な歴史物語になるだろう。しかし、本作は現代ロシアを視点に据えて、新年の風習をSF的な時間操作(モノクロで展開する旧ソ連時代のマリーナの物語の挿入)で、とてつもない時間を行き来できるのだ。

舞台となっている地方都市に注目すると、それがもっとわかる。エカテリンブルグという、首都モスクワから遠く1600キロ離れている、ウラル地方では最大の都市である。この名前はピョートル大帝の妻のエカチェリーナ皇后に由来している。

ソ連時代の幕開けを象徴する出来事もここで起こった。ロシア帝国のニコライ二世一家は、この都市のイパチェフ館にボルシェヴィキによって監禁され銃殺されている。その後、この都市はボルシェヴィキの指導者の名前をとって「スヴェルドロフスク」と呼ばれるようになる。

さらに、この映画の中で、ロシア連邦初代大統領のエリツィンはソ連時代を懐かしむ市民たちによってやり玉に挙げられるが、実はこの都市の出身者である。そして、1991年のロシア連邦の成立とともに、この都市の名前もエカテリンブルグに戻されている。

セレブレンニコフは、ウクライナ侵略を試みるプーチンのロシアには批判的な映画作家である。
アメリカのコーエン兄弟やタランティーノなどを彷彿させる、社会批評を忘れない上質のエンターテイメント映画だと言える。
(「すばる」2022年4月号)
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