越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

青山ブックセンターで、「オマージュ津田新吾」

2010年01月29日 | 小説
青山ブックセンター本店(表参道)で、「オマージュ津田新吾」展をやっているとのことです。

津田新吾さんは、昨年夭折した優秀な編集者(文学、人文科学系)です。

病気で辞められるまえは、「ユリイカ」や「現代思想」といった雑誌を出している青土社の編集者でした。

吉増剛造、今福龍太、管啓次郎、野崎歓、堀江敏幸をはじめ、津田さんのかかわった本は、まるで魔法使いの秘伝の粉をまぶされたかのように、まぶしく輝くだけでなく、管さんの言葉ではないですが、どの本も「本の島々」のように、津田さんを架橋にして、どこかで繋(つな)がっているようでした。

津田さんとは一緒に本は作れませんでしたが、「現代思想」がチェ・ゲバラ特集を組んだときに、声をかけていただきました。ちょうどメキシコへの取材旅行が入り、成田に行く前にぎりぎりで原稿を送り、ユカタン半島のメリダでゲラを受け取ったのがおもいだされます。

また、『現代詩手帖』に連載していたときにも、気にかけてくださっているようで、なにかの機会に会ったときに、実際に連載のコピーを手にして、書き込みすぎた文章を指摘していただきました。たったの一カ所ですが、するどい指摘でした。

文章を書くときには、津田さんの言葉を思い出します。書きすぎるな、という。

青山ブックセンターの記事に、詳細が載っています。
http://www.aoyamabc.co.jp/12/12_201001/541_2_3_4.html





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

特別シンポジウム  都市と文学--「マイナー文学」の表現をめぐって

2010年01月17日 | 小説
明大大学院文学研究科 特別シンポジウム
都市と文学--「マイナー文学」の表現をめぐって

日時:2009年1月22日(金)午後6時分~8時40分 
明大駿河台キャンパス、リバティタワー19階 119HI教室
               (予約不要、入場自由)

司会:越川芳明(明大教授、アメリカ文学)
講師:斉藤修三(青山短大教授、アメリカ文学)「ディフラシスモの街--East LAとチカーノ」
   久野量一(法政大准教授、ラテンアメリカ文学)「ガルシア=マルケスとバランキーリャ」
   浜崎桂子(立教大准教授、ドイツ文学)「もうひとつのベルリン―「飛び地」から
                            「首都」になった都市の片隅で」
パネリスト:中村俊彦(明大大学院博士後期、英文学)
      太田翼(明大大学院博士後期、日本文学)
      徳植隆真(明大大学院博士後期、ドイツ文学)
(概要)
 東京を日本の首都たらしめているのは、実はコリアンタウン新大久保に象徴されるような異文化の存在であり、日本文学を活気づけるのは、必ずしも日本語を母語としない人びとの創りだす、いわゆる「マイナー文学」だ。
 3名の講師には、都市(ロサンジェルス、コロンビアのバランキア、ベルリン)のバリオ(スラム地区)を創作の根っこに活躍している文学者の<越境>をめぐる「表現」について語っていただき、日本語とは何か、日本文学とは何かについて考えるきっかけにしたい。
 3名のパネリストには、それぞれの専門分野から、同様のタイトルに関して提言と質問をしていただく。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

書評『エクスタシーの湖』2

2010年01月12日 | 小説
 『エクスタシーの湖』の書評が、文芸誌『新潮』2月号(264-265ページ)に載りました。評者は、小説家の円城塔氏。

 『Xのアーチ』で一つのピークを迎えたエリクソンがいったん『アムニジアスコープ』で疲弊し、『真夜中に海がやってきた』とこの小説によって、世紀ごえに成功したという趣旨。

 「濃密な文体と描写をひたすら追いかけるうちに速度の中に巻き込まれ、歴史とともに噛み砕かれる。そこにあるのは快楽だ」と、結論づける。

 さらに『東京新聞』と『中日新聞』にも、栩木(とちぎ)玲子氏による書評が載りましたので、こちらは全文、転載いたします。

 「切実な愛と喪失の恐怖描く」
 [評者]栩木 玲子氏 (法政大教授・米文学)

 ロサンゼルスの真ん中にできた穴から水がわき出し、街を呑(の)み込み、若き母クリスティンはその湖が幼い息子カークを奪いに来ると信じて怯(おび)える。そして恐怖の根源を突き止めるため、湖の底をめざしてダイブし、息もたえだえに再浮上すると息子は銀のゴンドラから忽然(こつぜん)と姿を消していた。

 こうして読者は、およそ九十年にわたる黙示録的迷宮世界に誘い込まれる。息子を失ったクリスティンは、ルルという別人としてSMの女王/湖畔の予言者となり、革命の英雄ワンや、生まれてくるはずだったカークの双子の妹ブロンテ、死にゆく建物の声を聞くことができる女医などと不思議な縁を結び、航跡を交わらせてゆく。

 SF、ファンタジー、北米マジックリアリズム…そのいずれでもあるようなないようなこの小説はジャンルの枠からもするりと身をかわし、生々しいビジョンを炸裂(さくれつ)させる、と思いきや、やがて読者は気づくはずだ。奔放に見えるスタイルもストーリーも孤独と喪失のテーマをより鮮烈に伝えるため…つまりは全(すべ)てが意図されていることに。

 たとえば本書に特徴的な活字レイアウトさえ、一見野放図に思えて実はテーマに貢献する巧みな演出だ。水源にある<十三個の喪失のホテル>を一部屋ずつめぐるときのページの余白は、喪失がもたらす心の余白だろうか。一方、本書三分の一から終盤まで、見開き左側の活字群をタテに貫くクリスティンの独白は孤独な登場人物たちの物語とハーモニーを奏で、ともに混沌(こんとん)と闘っている。

 無意識がもたらす夢のような、でもきっちり設計された作品世界から伝わるのは、身を切るように切実な愛と、それを失うことの底なしの恐怖や哀しみだ。定型破りの向こうには、小説ならではのカタルシスが随所に用意されている。現実をなぞるのではなく、超越することによってこそ得られる結末が、優しくも美しい。


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長野県天龍村坂部(さかんべ)の赤鬼

2010年01月06日 | 音楽、踊り、祭り
正月の4日から5日にかけておこなわれる坂部の冬祭りに行ってきました。

朝の5時頃に、赤鬼が出てきて、それを二人の男がたいまつで退治するという演し物もあり、厄除けの意味があるようです。

皆様がことし一年つつがなく過ごせますように。ぼくはインフルエンザが治りました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする