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世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

書評 今福龍太『ミニマ・グラシア 歴史と希求』

2008年08月04日 | 小説
瓦礫の視点による<反歴史>の書
今福龍太『ミニマ・グラシア 歴史と希求』(岩波書店)
越川芳明

 本書のタイトルはささやかなる恩寵とも、小さな感謝とも受け取れる。

 著者自身が「自分にとってもおそらくもっとも倫理的な態度のもとに書き継がれたテキストを収めた」と断言する本書は、文化人類学者としてのありきたりの領域を越えて、文学や芸術の分野から「政治的な」発言をしようとする意思に貫かれている。

 それは、おそらく9.11以降の超大国アメリカによる独善的な軍事侵攻やメディア戦略によって、われわれの想像力がどんどんやせ細っていくことに対する著者の苛立ちをバネにしているようだ。

 というのも、世界を善と悪、敵と味方で単純に峻別するような政治言語や、衝撃的な映像を何度も繰り返すことでわれわれの視覚を鈍化させるマスメディアのやり方では、痛みや苦しみの感覚すらも鈍化させることになり、「他者」へのまなざしが失われるからだ。

 それらの平板な言説や映像戦略に対して、著者の取る姿勢は「歴史について思いをめぐらすことは死について思いをめぐらすことである」と語るソンタグにならって、死者の側から現実を見やる「反歴史」の姿勢だ。

 著者は、政治ジャーナリズムが絶対に持ち得ない瓦礫の想像力(ベンヤミン)や植物のヴィジョン(ソロー)や砂漠の思想(ジャベスほか)を援用しながら、世界の陰影を読み取っていく。とりわけ、人類の文明が廃墟を内蔵するという論点は重要だ。それは9.11の事件を事象として捉えるジャーナリズムの視点を越えるものだから。

 たとえば、第二部の「戦争とイーリアス ソローからヴェイユ」と題された、スリリングな論考では、勝者も敗者もなく、戦争や破壊の悲惨さを冷徹に描いた芸術家や詩人による公正な視線が示される。『イーリアス』のホメロス、『ウォールデン』で有名な自然観察者のソロー、ナポレオンのスペイン侵攻を描いたゴヤ、スペイン内戦に参加したシモーヌ・ヴェイユを経て、ヴェイユの同時代人で亡命ユダヤ系ウクライナ人のラシェル・ベスパロフへとたどる<暴力芸術>の系譜。

 そうした異例のジャンル横断の方法論は、著者によって、「即興的な時間錯誤と空間錯誤の方法」(291)と呼ばれるが、まさしくボーダーの想像力に導かれた方法論ともいうべきものだ。

  世界のどんな辺鄙な場所で起こった映像を瞬時に世界中に伝えるマスメディアの「世界同時性の強迫観念」や紋切型の現実像に対峙するかのように、著者は写真、絵画、文章、詩などの異なる分野で、みえざる地下水脈に満々たる水をたたえている芸術家たちを掬いとってくる。芸術家とは、自然や現実を変形する自由を用いて、固有の出来事の表層の下にある人間の普遍性をわれわれに伝えるものだから。
 
 本書で何度も特権的に扱われるソンタグやベンヤミンを別格にして、文学の世界では、フアン・フェリーペ・エレーラ、ギーエン、インファンテ、アレーナス、シモーヌ・ヴェイユ、ソロー、カネッティ、ジャベス、アビー、チャトウィン、ドルフマン、ブロツキー、ジョイス、ハックスリー、パス、石牟礼道子、金芝河など、写真では、東松照明、ジェイコブ・リース、レオ・ブランコ、コミックでは、アート・スピーゲルマン、映画では、カサヴェテス、メカス、絵画では、ゴヤ、レオン・ゴラブ、フェルナンド・ボテーロなどが、時代と国を越えて「反歴史」の歴史を構築すべく参照される。
 
 それらの芸術家たちの作品は、著者がわれわれと分有することを希求する歴史の「恩寵」であり、「感謝」の徴にほかならないからだ。
(『すばる』2008年9月号に加筆修正)

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