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ロベルト・ボラーニョ『野生の探偵たち』

2010年07月27日 | 小説
放浪詩人の書いた「21世紀文学」
ロベルト・ボラーニョ『野生の探偵たち』
越川芳明


 今年の春、ふらっと立ち寄ったトロントの書店で購入したのがロベルト・ボラーニョのスーパー・メガノベル『2666』の英訳本ペーパーバック(2009年刊)だった。

 著者紹介の欄を覗いてみれば、2003年に50才の若さで亡くなっているが、すでに何冊もの英訳本が出ているではないか。

 このたび見事な日本語訳が出た『野生の探偵たち』は、ガルシア=マルケスやコルタサルなど、中南米の一流の作家たちに贈られるロムロ・ガジェゴス賞を受賞している。日本語版は、上下二巻で900頁を超す大作だ。

 ボラーニョは1953年に南米のチリで生まれた。思春期に家族と共にメキシコに移住し、世界各地を放浪したあと、居を定めたスペインのバルセロナ郊外で亡くなっている。そうした遍歴から窺われるのは、「根なし草」の放浪癖だ。

 放浪は何かを発見するための手段というより、それ自体が人生の目的と化している。ボラーニョにとって、放浪とは詩であり、詩は放浪である。
 
 『野生の探偵たち』にも、放浪詩人ランボーに端を発し、1920年代にメキシコで起こったシュールレアリスムの前衛詩運動に愚直なまでに入れ込むグループ<はらわたリアリスト>が登場する。いわば、メキシコの「ビート世代」(アレン・ギンズバーグ、ゲーリー・スナイダー、ジャック・ケルアック、ウィリアム・バロウズなど)ともいうべき若者たちだ。
 
 なかでも、アルトゥーロ・ベラーノとウリセス・リマの二人はその中心をなす。作家ボラーニョの分身ともいうべきベラーノは彼と同じチリ出身で、70年に誕生したアジェンデ民主政権を支持すべく、メキシコから自発的に革命家として赴くが、ピノチェトの軍事クーデターに遭い警察に逮捕される。たまたまピノチェトの体制に入っていたかつての級友の手引き九死に一生を得る。その後も、メキシコ北部からヨーロッパ、アフリカ各地を放浪し、ドラッグや無頼の生活のせいで、すい臓炎をはじめいくつもの内臓を患いながら、最後はアフリカで消息を絶つ。
 
 一方、相棒のウリセス・リマも、パリ、ウィーン、バルセロナ、イスラエルを放浪しているが、面白いのは、ニカラグアにメキシコ詩人の使節団の一員として出かけたときに失踪したエピソード。メキシコと中央アメリカをつなぐ川を端から端まで歩いていたらしい。彼はそのとき数え切れないほどの島を見つけたが、中でも二つの島が印象的だったという。一つは「過去の島」で、そこは退屈そのもので、想像の重みで沈みそうだった。もう一つは「未来の島」で、島人たちは攻撃的で、共食いしていた。ボラーニョの小説では、ブルース・チャトウィンを思い起こさせるそうした放浪者による<世界ヴィジョン>が、まるで熟練の手品師の妙技のように、惜しげもなく披露される。
 
 この小説は、語りの構造に特徴がある。単純に言ってしまえば、ABAのサンドイッチ形式だ。パンの部分にあたるAは「青春小説」、中身にあたるBは「政治小説」とも読める「青春小説」。二種類の小説が解け合うポストモダンのハイブリッド性が、21世紀文学の先端をゆくこの小説の妙味だ。
 
 具体的には、第一部と第三部は、フアン・ガルシア=マデーロという十七才の大学生一年生の日記形式。1975年の12月から翌年の1月の約2ヶ月にわたって、大学をサボってのメキシコ・シティの喫茶店めぐりや性のイニシエーションなどが語られるが、いわば、メキシコ版『キャッチャー・イン・ザ・ライ』ともいえる様相を呈する。
 
 貧乏学生フアンが古本屋めぐりをして、世界の文学作品を万引きするくだりが出てくる。面白いのは、盲目の女性店主に、万引きはだめよ、と釘を刺されたり、また別の店では、金がないので古本屋をまわって万引きをしていると正直に告げると、同性愛者の老店主に詩集を贈られたりする。このようなエピソードが示唆するように、ボラーニョはおそらく独学で、広範な文学的教養を獲得したのだ。
 
 一方、第二部では50人を超す証言者が登場し、それぞれの観点から自分の身の上を絡めて、二人の詩人ベラーノとリマについての情報を語る。ここの部分がこの小説の白眉だが、1976年から約20年にわたって、メキシコ、カリフォルニア、ヨーロッパ(フランス、スペイン)、中東、アフリカなどで、さまざまな階層の、さまざまな思想の持ち主による証言がなされる。オクタビオ・パスやレイナルド・アレナスをはじめ、実在・架空の詩人や作家が実名や偽名で大勢登場する。ソル・フアナを師と仰ぐフェミニスト詩人たちがマッチョな<はらわたリアリスト>に冷水を浴びせる。自己満足のロマン主義に陥らないそうしたパロディの才能が、まるで真っ暗な闇に輝く星の光のように、まぶしくきらめく。
 
 同時に、チリやニカラグアなど中南米へのアメリカ合衆国の軍事介入とか、独裁政権によって抹殺される知識人たちといったラテンアメリカ特有の問題とか、1968年のメキシコ警察・軍隊による弾圧事件(トラテルコ事件)の中で、大学のトイレに閉じこもったウルグアイ人の女性詩人のエピソードなど、中南米の「政治」のモチーフがちりばめられている。
 
 ロベルト・ボラーニョは、オクタビオ・パスなどに象徴される「権威」からは意識的に距離をおいていたので欲しがったかどうか分からないが、もし生きていれば、ノーベル文学賞の最有力候補間違いなしの文学者だ。
 
 本書は、遺作『2666』(2002年)と共に、移民が常態と化し、国境がゆらぐ21世紀の現状を扱うこれからの若い日本の作家たちが目指さねばならない作品である。村上春樹の『1Q84』などで大衆を煽ってマスターべーションをしている日本の御用学者たちが読んだら、世界の水準を知ったほうがいい。

(『図書新聞』2010年7月31日)
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