越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

ジム・クレイス『隔離小屋』

2010年07月28日 | 小説
楽天的なディストピア小説
ジム・クレイス『隔離小屋』渡辺佐智江訳(白水社)
越川芳明

 
 最初の数ページを読んだとき、ただちにコーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』(原作は、二〇〇六年刊)を思い出した。
 
 父子が核によって廃墟と化した厳冬の「アメリカ」を南に向かって旅する物語である。

 この小説では、登場人物に名前がつけられていなかった。

 無名性の物語によって、マッカーシーはこの小説を万人に当てはまる寓話となるよう発想したのだ。
 
 一方、イギリス作家ジム・クレイスの九作目になる『隔離小屋』(原作は、二〇〇七年刊)もまた、荒廃した「アメリカ」を舞台にした「ディストピア小説」だ。

 だが、主人公には名前がつけられている。

 マーガレット(なぜかファミリーネームは不明)とフランクリン・ロペスである。

 ディストピア小説は、近未来SFの装いをとりながらも、現実の政治・社会的な要素を取り入れて、あるメッセージを伝えようとする。

 この小説の場合、それは裸の王様である「アメリカ」への警告ではないか。
 
 マーガレットとフランクリンは、終末論的な風景の中をーー人々が飢饉ゆえに故郷を離れざるを得なかったり地殻変動による毒ガスに襲われたりするだけでなく、旅の途中で盗賊団に狙われて、金品のものを奪われたり人身売買のために囚虜となったりするような悪夢的な世界をーー旅する。
 
 とはいえ、この悪夢はあまり怖くない。

 作者が舞台や主人公たちに距離をおいて書いているからだ。

 言い換えれば、「アイロニー」がこの作品の隠し味となっている。

 作者は、まるでシェフが料理の味を複雑にするかのように、秘伝の「アイロニー」のスパイスをふんだんにまぶす。
 
「ここはかつてアメリカだった。・・・それはかつて、地上で最も安全な場所だった」(10)と、作者はプロローグで宣言する。

  いま「アメリカ」は、外套を手縫いで作ったり、弓と矢による狩猟で肉を確保したりしなければならない中世のような荒野に逆戻りしている。

 人々がそこからの脱出に「希望」を見いだすといった設定からして、米国への風刺が明らかだ 。
 
 かつて米国がよそ者に差し出していたのは、「温暖な気候、肥沃な土地、健康によい空気と水、豊富な食料、高い賃金、親切な隣人、整備された法律、自由主義の政府、暖かいもてなし」(41)だった。

 だが、いまそれらはなく、「夢の国」などではない。
 
 他人に不幸をもたらすといわれる赤毛の持ち主のマーガレットは、伝染病の疑いをかけられて、丘の上の「隔離小屋(ペストハウス)」に幽閉される。

 その間に、湖の底が激しく震動して毒ガスが発生。それが風に乗って彼女の住む街「フェリータウン」を襲う。

 街の中心から離れた場所に排除・隔離されたマーガレットだけが唯一命拾いし、伝染病を逃れようとした住民たちのほうが予期もしなかった別の脅威にさらされるという皮肉が見られる。
 
 もう一人の主人公フランクリン・ロペスは兄ジャクソンと一緒に、「フェリータウン」よりずっと西の故郷に母親だけを残し、新天地に向かう船に乗るべく東海岸をめざす。

 六十日以上もかかってようやく「フェリータウン」にたどり着つくが、そこで兄とはぐれて、マーガレットが幽閉されている小屋を発見する。

 彼もまた毒ガスによる死を免れる。

 皮肉なのは、勇敢であることがアダになる兄と違って、フランクリンは大柄なのに臆病で、恥ずかしがり屋とくる。足腰もそれほど強くない。

 彼の「足首から太腿にかけての肉は、足を踏み出すたびに、腸詰めのように、ぐにゃりとなった」(13)
 
 大胆なマーガレットと臆病なフランクリンは一見不釣り合いなカップルだが、通常は弱点とされる互いの性格で互いを補いあって逆境を生き延びることができる。
 
 二〇世紀アメリカ作家のジョン・スタインベックは、十六世紀に到来したヨーロッパ人が新大陸の帝国(メキシコのアステカ)を滅ぼすさいに三つの武器を持っていたと語ったことがある。

 すなわち、「銃器」と「天然痘」と「宗教」だ。
 
 この小説の舞台でも、「天然痘」ではないが、「フラックス」と呼ばれる新しい伝染病が蔓延している。

 「宗教」にかんしても、フィンガー・バプテストというキリスト教原理主義のカルト集団が出てくる。

 マーガレットをはじめとする旅人たちは、「聖なる箱船(アーク)」と名づけられたこのカルト集団のコミューンで、自らの労働と引き替えに住居と食料を与えられる。

 集団の思想の根幹には、鉄への嫌悪があり、鉄がこの世に不幸をもたらすという信念がある。

 手を使った工芸、芸術、料理なども、鉄と同様に「悪」であり、十一人の「無力な紳士」と呼ばれる高潔の士たちは、「水や空気のように生きる」ことを「善」として、手をつかうことすらも忌避して、労働者たちに食事から自慰行為まですべて面倒を見てもらう。

 この小説は、9/11以後の「アメリカの崩壊」(ギンズバーグ)を題材にした寓話だ。

 『ザ・ロード』には救いはなかった。絶望的なまでに荒んだ風景の中を旅する父子にあるのは明日への夢ではなかった。

 むしろ、今を生き抜くという、ある意味で動物本能的な意志だった。

 だが、他の移民の流れに逆らって故郷に舞い戻ろうとする『隔離小屋』の男女には、なぜか明日に対する妙に楽天的な希望がある。
 
 もっとも、その希望がどこから湧いてくるのか、読者には知らされないのだが・・・。

(『週刊読書人』2010年7月23日)

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