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真珠湾攻撃が始まりでない / 「坂の上の雲」で描かれない歴史~戦争熱狂に抗した平民社~

2011-12-11 | 海外通信/外交/平和運動
 成り立たない「自存自衛」論
  アジア・太平洋戦争 開戦70年      しんぶん赤旗2011年12月より


「坂の上の雲」で描かれない歴史   大日方純夫

~戦争への熱狂に抗した平民社~


 NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」の第3部「激闘完結」編の放映が始まりました。「旅順総攻撃」「二〇三高地」「敵艦見ゆ」「日本海海戦」の4回で、まさに戦争の再現です。しかし、このドラマからは消し去られてしまった事実があります。

戦争の禁絶を宣言

 ロシアと戦争せよという声が高まっていた1903年11月、次のように宣言して、ある週刊新聞が創刊されました。
一、われわれは人類の自由を完全にするために平民主義を維持する。出身の高下、財産の多寡、男女の差別を打破し、一切の圧制束縛を除去することを欲す。

一、われわれは人類が平等の権利をうけるために社会主義を主張する。生産、分配、交通の機関を社会の共有とし、その経営処理を社会全体のためにすることを要す。

一、われわれは人類が博愛の道を尽くすために平和主義を唱える。人類の区別、政体の異同を問わず、世界を挙げて軍備を撤去し、戦争を禁絶することを期す。

 社会主義者の幸徳秋水と堺利彦が創刊した「平民新聞」です。初版5000部はたちまち売り切れ、3000部を増刷したといいます。高まる開戦論に対して、彼らは新聞「万朝報」の紙上で非戦論を展開していましたが、同紙が開戦論に転換したため、退社して平民社をつくり、非戦の主張を続けたのです。

口ある限り絶叫す

 1904年にはいると、日本とロシアの間には、戦争の危機が迫りました。1月17日付「平民新聞」は、全紙面に戦争反対の記事を掲げ、「吾人は飽くまで戦争を否認す」と主張しました。戦争は道徳上の罪悪、政治上の害毒、経済上の損失であり、戦争によって社会の正義は破壊されるとして、戦争への熱狂からさめよと、「愛する同胞」に呼びかけました。

 しかし、こうした叫びも空しく、2月、日露は開戦しました。「平民新聞」は、平和を乱した責任は政府にあるが、戦争の災禍を負担するのはすべて平民だとして、今後も、口あり、筆あり、紙ある限り、われわれは戦争反対を絶叫すると、決意を表明しました。そして、われわれの仲間であるロシアの平民も、きっと同じ立場をとるに違いないとのべたのです。

 さらに、「自動機械」となって、人を殺すため、あるいは人に殺されるために戦場に行く兵士に、次のように呼びかけました。
 諸君の田は荒れ、老親は取り残され、妻子は飢えに泣く。諸君の生還は保障の限りではない。しかし、諸君は行かざるを得ない。行け。行って諸君の職分を尽くせ。だが、ロシアの兵士も人の子、人の夫、人の父であり、諸君と同じ人類である。どうか彼らに対して残虐な行いのないように。

 また、戦争に狂喜する人びとに対しても、戦争が何をもたらすのか、冷水を頭からかけてよく考えよと警告しました。戦争による膨大な公費は子孫を苦しめ、増税は国民を苦しめ、戦争は軍国主義の跋扈、軍備の拡張、投機の勃興、物価の騰貴、風俗の堕落をもたらす、というのです。

活動の歴史的意義

 3月、「平民新聞」は「予露国社会党書」(露国社会党に与うる書)を発表しました。
 諸君とわれわれは同志であり、断じて戦うべき理由はない。愛国主義と軍国主義は、諸君とわれわれの共通の敵だ。
 手紙はこう書いて、敵国ロシアの社会主義者に対して連帯を呼びかけました。

 この手紙は英訳されて世界各国の社会党に送られ、大きな反響を呼びました。ロシア社会民主労働党の新聞「イスクラ」は、これに答える一文を発表して、日本の同志の「一致連合の精神」を称えました。また、8月、オランダのアムステルダムで開催された第2回インターナショナルの第6回大会では、日本代表とロシア代表が壇上で握手をかわし、参加者はこれに拍手喝さいしました。
 
 平民社の活動に対する当局の妨害・圧迫は厳しく、「平民新聞」もしばしば処罰や発売禁止の対象となりました。しかし、戦争への熱狂の中で、敢然とこれに抗した平民社の活動の歴史的な意義は極めて大きいと言えます。国家を越えて人類を見つめ、戦争を越えて未来を見すえる。それは、なお私たちの課題であり続けています。それこそが、私たちにとっての「坂の上の雲」ではないでしょうか。

(おびなた・すみお 早稲田大教授)



12・8と東南アジア全面侵攻   根本敬

 ~真珠湾攻撃が始まりでない~



 大学生の多くは12月8日の真珠湾奇襲で「太平洋戦争」が始まったと思っている。多くの日本人もそうであろう。しかし、事実は違う。日本の海軍機動部隊による真珠湾奇襲の約65分前に、陸軍を中心とした部隊がマレー半島のコタバルに上陸し「アジア・太平洋戦争」は始まっている。これはこぼれ話的な細かい事実などではない。この戦争の特質を一番よく表している重要な史実なのである。それは二つの点で説明できる。

深くつながる作戦

 第一に、マレー半島への上陸のほうが真珠湾奇襲より先だったことは、この戦争が日本による東南アジアへの全面侵攻と占領を目的としたものだったことを象徴している。まずはイギリスの東南アジアにおける拠点シンガポールを陥落させることが軍事的に重視されたので、マレー半島に上陸し南下作戦を展開したのである。その際、大きな戦力を持つアメリカ太平洋艦隊が早々にやってきて日本軍の侵攻作戦を邪魔したら困るので、事前に鹿児島湾などで飛行士の訓練を十分に積んだうえで、オアフ島の真珠湾を奇襲したのである。この二つの作戦は相互に深くつながっており、どちらがより重要かといえば、作戦上(軍事上)は真珠湾奇襲かもしれないが、歴史上はコタバル上陸のほうだといわざるを得ない。

 第二に、アメリカへの宣戦布告が真珠湾奇襲に間に合わなかったことが「だまし討ち」だったとして議論されることがあるが、たとえ遅れてしまったとはいえ、宣戦布告をしようとした事実が存在する(「日米交渉打ち切り」というあいまいな表現を用いたが)。しかし、マレー半島上陸のほうは「何の断りもなく」行われ、あたかも「植民地だから勝手に侵略してもよい」と日本側が思っていたかのごとくである。ここには東南アジアに対する蔑視があったとはいえ、まさに戦争が「東南アジアへの侵略」だったことをよく表している。
 
 こうした事実からわかるように、この戦争を「太平洋戦争」と呼ぶのはきわめて一面的である。「太平洋戦争」と呼んでしまったら最後、「日米の戦争だった」という記憶が独り歩きし、その結果、アメリカの「物量に負けた」「レーダーに負けた」「合理主義に負けた」といった解釈だけが重要視されることになる。しかし、戦争は東南アジアへの全面侵略と占領が目的で行われたのだから、正確には「アジア・太平洋戦争」と呼ぶべきである。もちろんその際に中国での戦争も継続していたことを忘れてはならない。

民衆に負けた史実

 このことに気付くとき、私たちは12月8日を「真珠湾奇襲の日」としてだけでなく、「東南アジアへの全面侵攻開始の日」として正しく記憶することができよう。それによって、日本がアメリカの「物量」や「レーダー」や「合理主義」に負けただけでなく、東南アジアの民衆の日本軍に対する反感とナショナリズムにも負けたのだという史実を認識することができる。

最近、ビルマ(ミャンマー)の民主化進展が話題になっているが、同国で民主化運動を指導するアウン・サン・スー・チーは「ビルマ独立の父」アウン・サン(1915~47)の娘である。アウン・サンがビルマ国民に尊敬される理由は、彼が英国に象徴される帝国主義と戦い、かつ日本軍に象徴されるファシズムとも戦ったからである。娘のアウン・サン・スー・チーが生まれた1945年6月、父アウン・サンは日本軍に対する武装蜂起を指導していた。戦争はまさに「アジア・太平洋戦争」だったのである。

(ねもと・けい 上智大学教授)


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