成り立たない「自存自衛」論
アジア・太平洋戦争(第二次大戦)きょう開戦70年
~侵略戦争の歴史伝える努力を~ しんぶん赤旗2011・12・8
8日は、1941年のこの日、日本陸軍が英領マレーに上陸し、海軍がハワイ真珠湾の米艦隊を奇襲攻撃してアジア・太平洋戦争が始まってから70年となります。
しかし、70年たった現在も、日本が行った侵略戦争と植民地支配を美化する政治家の発言や歴史教科書問題など、歴史を歪めようとする潮流が後を絶ちません。戦争体験者が少なくなる中、侵略戦争の真実を伝える努力が引き続き重要です。
成り立たない「自存自衛」論
侵略戦争を美化する勢力は、アメリカがイギリス、中国、オランダとともに日本を経済的に圧迫(ABCD包囲網)し、強硬な要求を突きつけてきたために、日本は「自存自衛」のためにやむなく開戦したかのように描こうとしています。
しかし、こうした主張は、日米の最大の対立点の一つが日本の中国侵略問題だったことをまったく無視するものです。
1931年に中国東北部への侵略戦争(満州事変)を、37年に中国への全面侵略戦争を開始した日本は、中国の徹底抗戦に直面し、戦争終結を展望できない泥沼に陥りました。中国に権益を持つアメリカ、イギリスなどは日本の中国侵略に反発し、中国を支援しました。
日本は40年、ナチス・ドイツが電撃戦でオランダ、フランスを占領し、イギリスへの空爆を開始したことに幻惑され、日独伊三国軍事同盟を締結。フランスがドイツに降伏したのに乗じて、ビルマから中国に通じる米英諸国の中国援助のルートの遮断と戦争継続のための重要資源を確保しようと、北部フランス領インドシナに侵攻しました。これは米英諸国との対立を決定的にしました。
日本はさらに41年8月には南部フランス領インドシナに進駐しました。
これに対し、アメリカは石油の対日輸出などを禁止し、中国からの日本軍の撤兵を要求しました。ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相は「太平洋憲章」で、第2次世界大戦後の世界が立脚すべき基本原則として、民族自決の原則とともに、いかなる国にも不当な領土の拡大を許さない立場を明らかにしていました。アメリカが日本軍の中国撤兵を求めたのも当然でした。
しかし、日本は「米国の主張にそのまま服したら支那事変(日中戦争)の成果を壊滅するものだ。満州国をも危くする。さらに朝鮮統治も危くする」(東条英機陸相、後に首相)と撤兵を拒否しました。11月5日、昭和天皇が臨席した御前会議は、11月末までに対日経済封鎖の解除が実現できなければ12月初旬に開戦することを決定。アジア・太平洋戦争に突入していきました。
このように、アジア・太平洋戦争は、中国侵略戦争の延長線上に発生した戦争でした。この二つの戦争を切り離して、日本がアメリカの不当な要求に対して「自存自衛」のために立ち上がったなどという見方は成り立ちません。
アジア・太平洋戦争を含む足かけ15年の日本の侵略戦争によって、2000万人を超えるアジア諸国民と300万人を超える日本国民の命が奪われました。
この痛苦の歴史は過去のことと済ますことはできません。野田佳彦首相が12,13日に計画していた訪中を延期したのは、13日が日本軍による虐殺事件=「南京事件」(1937年)の節目にあたるため、中国側が影響を配慮して再調整を申し入れたと報道されています。
歴史の過ちを繰り返さず、アジア諸国民との真の友好を築くためにも、歴史をゆがめる侵略戦争美化論を許さないことが必要です。
共産党以外「バスに乗り遅れるな」
~全政党が大政翼賛会に合流~
(
TPPのことじゃありませんよ。こんな、使い古された扇動文句だったとは。感嘆にゃ
)
アジア・太平洋戦争を推し進める国内体制を支えたのが、日本共産党以外の全政党が合流した大政翼賛会(たいせいよくさんかい)でした。
今日、民主、自民、公明の3党が、アメリカ・財界の要求を忠実に実行するために事実上の「オール与党」体制をつくっていることは、「太平洋戦争直前に、日本共産党以外のすべての政党が解散して、戦争推進の大政翼賛会に合流していった歴史を想起させるもの」(第4回中央委員会総会への志位和夫委員長の報告)です。環太平洋連携協定(TPP)参加を求める勢力が使う「バスに乗り遅れるな」というスローガンもそのころ盛んに使われたものです。
当時、日本共産党は、天皇制政府の厳しい弾圧によって全国的な活動は困難となり、機関紙「赤旗」(せっき)も停刊を余儀なくされていました。しかし、治安維持法で逮捕された党員は獄中でも戦時下の法廷でも、天皇専制と侵略戦争に反対して不屈にたたかいました。
一方、1940年、ドイツがヨーロッパを席巻すると、日本の政界には、ドイツと手を結んで侵略戦争のための国内体制の強化を進める「新体制運動」が始まりました。日本共産党以外の全政党は「バスに乗り遅れるな」を合言葉に自ら解党してこの運動に合流しました。こうして発足したのが大政翼賛会でした(大政翼賛とは天皇の政治を補佐する意味)。
大政翼賛会は、産業報国会、大日本婦人会、部落会、町内会、隣組を指導下に入れ、国民の一切の民主的自由を奪い、侵略戦争への犠牲を強要する国民統制と動員の機関としての役割を果たしました。
1931年 日本軍が中国東北部の柳条湖で鉄道を爆破。軍事行動で「満州」制圧。
32年 日本がかいらい国家「満州国」を建国。
33年 日本が国際連盟を脱退。
37年 北京近郊の盧溝橋で日中両軍衝突。全面戦争へ。
39年 ドイツ軍がポーランド侵攻、第2次世界大戦始まる。
40年 9月 日本軍が北部仏印に侵入。
9月 日独伊三国同盟締結。
10月 大政翼賛会発足。
41年 7月 日本軍が南部仏印に侵入。
11月 御前会議で12月初旬の対米英開戦を決定。
12月 日本軍がマレー半島上陸、ハワイ真珠湾を奇襲攻撃、アジア・
太平洋戦争に突入。
45年 天皇制政府、ポツダム宣言を受諾して連合国に降伏。
アジア・太平洋戦争(第二次大戦)きょう開戦70年
~侵略戦争の歴史伝える努力を~ しんぶん赤旗2011・12・8
8日は、1941年のこの日、日本陸軍が英領マレーに上陸し、海軍がハワイ真珠湾の米艦隊を奇襲攻撃してアジア・太平洋戦争が始まってから70年となります。
しかし、70年たった現在も、日本が行った侵略戦争と植民地支配を美化する政治家の発言や歴史教科書問題など、歴史を歪めようとする潮流が後を絶ちません。戦争体験者が少なくなる中、侵略戦争の真実を伝える努力が引き続き重要です。
成り立たない「自存自衛」論
侵略戦争を美化する勢力は、アメリカがイギリス、中国、オランダとともに日本を経済的に圧迫(ABCD包囲網)し、強硬な要求を突きつけてきたために、日本は「自存自衛」のためにやむなく開戦したかのように描こうとしています。
しかし、こうした主張は、日米の最大の対立点の一つが日本の中国侵略問題だったことをまったく無視するものです。
1931年に中国東北部への侵略戦争(満州事変)を、37年に中国への全面侵略戦争を開始した日本は、中国の徹底抗戦に直面し、戦争終結を展望できない泥沼に陥りました。中国に権益を持つアメリカ、イギリスなどは日本の中国侵略に反発し、中国を支援しました。
日本は40年、ナチス・ドイツが電撃戦でオランダ、フランスを占領し、イギリスへの空爆を開始したことに幻惑され、日独伊三国軍事同盟を締結。フランスがドイツに降伏したのに乗じて、ビルマから中国に通じる米英諸国の中国援助のルートの遮断と戦争継続のための重要資源を確保しようと、北部フランス領インドシナに侵攻しました。これは米英諸国との対立を決定的にしました。
日本はさらに41年8月には南部フランス領インドシナに進駐しました。
これに対し、アメリカは石油の対日輸出などを禁止し、中国からの日本軍の撤兵を要求しました。ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相は「太平洋憲章」で、第2次世界大戦後の世界が立脚すべき基本原則として、民族自決の原則とともに、いかなる国にも不当な領土の拡大を許さない立場を明らかにしていました。アメリカが日本軍の中国撤兵を求めたのも当然でした。
しかし、日本は「米国の主張にそのまま服したら支那事変(日中戦争)の成果を壊滅するものだ。満州国をも危くする。さらに朝鮮統治も危くする」(東条英機陸相、後に首相)と撤兵を拒否しました。11月5日、昭和天皇が臨席した御前会議は、11月末までに対日経済封鎖の解除が実現できなければ12月初旬に開戦することを決定。アジア・太平洋戦争に突入していきました。
このように、アジア・太平洋戦争は、中国侵略戦争の延長線上に発生した戦争でした。この二つの戦争を切り離して、日本がアメリカの不当な要求に対して「自存自衛」のために立ち上がったなどという見方は成り立ちません。
アジア・太平洋戦争を含む足かけ15年の日本の侵略戦争によって、2000万人を超えるアジア諸国民と300万人を超える日本国民の命が奪われました。
この痛苦の歴史は過去のことと済ますことはできません。野田佳彦首相が12,13日に計画していた訪中を延期したのは、13日が日本軍による虐殺事件=「南京事件」(1937年)の節目にあたるため、中国側が影響を配慮して再調整を申し入れたと報道されています。
歴史の過ちを繰り返さず、アジア諸国民との真の友好を築くためにも、歴史をゆがめる侵略戦争美化論を許さないことが必要です。
共産党以外「バスに乗り遅れるな」
~全政党が大政翼賛会に合流~
(
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アジア・太平洋戦争を推し進める国内体制を支えたのが、日本共産党以外の全政党が合流した大政翼賛会(たいせいよくさんかい)でした。
今日、民主、自民、公明の3党が、アメリカ・財界の要求を忠実に実行するために事実上の「オール与党」体制をつくっていることは、「太平洋戦争直前に、日本共産党以外のすべての政党が解散して、戦争推進の大政翼賛会に合流していった歴史を想起させるもの」(第4回中央委員会総会への志位和夫委員長の報告)です。環太平洋連携協定(TPP)参加を求める勢力が使う「バスに乗り遅れるな」というスローガンもそのころ盛んに使われたものです。
当時、日本共産党は、天皇制政府の厳しい弾圧によって全国的な活動は困難となり、機関紙「赤旗」(せっき)も停刊を余儀なくされていました。しかし、治安維持法で逮捕された党員は獄中でも戦時下の法廷でも、天皇専制と侵略戦争に反対して不屈にたたかいました。
一方、1940年、ドイツがヨーロッパを席巻すると、日本の政界には、ドイツと手を結んで侵略戦争のための国内体制の強化を進める「新体制運動」が始まりました。日本共産党以外の全政党は「バスに乗り遅れるな」を合言葉に自ら解党してこの運動に合流しました。こうして発足したのが大政翼賛会でした(大政翼賛とは天皇の政治を補佐する意味)。
大政翼賛会は、産業報国会、大日本婦人会、部落会、町内会、隣組を指導下に入れ、国民の一切の民主的自由を奪い、侵略戦争への犠牲を強要する国民統制と動員の機関としての役割を果たしました。
1931年 日本軍が中国東北部の柳条湖で鉄道を爆破。軍事行動で「満州」制圧。
32年 日本がかいらい国家「満州国」を建国。
33年 日本が国際連盟を脱退。
37年 北京近郊の盧溝橋で日中両軍衝突。全面戦争へ。
39年 ドイツ軍がポーランド侵攻、第2次世界大戦始まる。
40年 9月 日本軍が北部仏印に侵入。
9月 日独伊三国同盟締結。
10月 大政翼賛会発足。
41年 7月 日本軍が南部仏印に侵入。
11月 御前会議で12月初旬の対米英開戦を決定。
12月 日本軍がマレー半島上陸、ハワイ真珠湾を奇襲攻撃、アジア・
太平洋戦争に突入。
45年 天皇制政府、ポツダム宣言を受諾して連合国に降伏。