憲法九条は戦争犠牲者の血の塊である。
中国戦線・沖縄戦の実相、本に
証言の元日本軍兵士 近藤一さん(91)に聞く
今年91歳の近藤一さん=三重県桑名市在住=は、元日本軍兵士です。その体験を若い世代に伝える語り部の活動を30年近く続けています。
このほど証言と活動の記録、『最前線兵士が見た「中国戦線・沖縄戦の実相」―加害兵士にさせられた下級兵士』を出版しました。多くの元兵士が沈黙してきたなか、体験を語る思いを聞きました。
近藤さんは日本が侵略した中国の戦線と太平洋戦争末期の沖縄戦を体験しました。徴兵は1940年12月、20歳のときでした。太平洋戦争が始まる前年です。入隊した部隊は中国山西省に駐屯。八路軍と呼ばれた。中国共産党軍の「討伐」が任務でした。
中国で日本軍は
「部隊がやったことは村々の襲撃、略奪、暴行、殺人でした。あるで乳飲み子を抱えた30歳前後の女性を拉致し、連日乱暴するため一緒に行軍させました。逃げ出さないよう女性は裸です。一人の兵士が赤ん坊を邪魔だと谷底に投げ捨てると、女性は後を追って身を投げました」
44年8月、近藤さんの部隊は中国から沖縄に移りました。翌年4月、沖縄本島に上陸した米軍の戦力は54万人余り。日本軍は現地召集を含めわずか10万人余り。近藤さんは銃弾を受け右鎖骨を骨折。小銃を撃てない状態でしたが、1ヵ月足らずで戦闘に復帰しました。
「米軍戦車の火炎放射を浴びた日本兵は全員火だるま。火がゴムのように体に張り付いて消えません」。米軍に追い詰められ、最後の突撃をしようと駆け出し、石につまずきました。取り囲んだ米兵は、舌をかんで自決しようとした近藤さんの口に布を押しこみ、傷口に消毒液をかけました。
「なんという相手と戦争をしたのか。モノは豊富、さっきまで敵でも捕虜には寛大。自分たち日本軍は中国で捕虜をすぐ殺していたのに・・・。価値観が変わりました。戦争への反省の始まりでした。
生き残った私が
近藤さんが沖縄戦の体験を語り始めたのは、生活が落ち着いてきた約30年前です。「生き残った私が語らなければ、戦争で無念の死を余儀なくされた人たちが浮かばれない」との思いからです。
中国戦線の体験を語るのは、それからさらに十数年たってからです。自衛隊の海外派兵や米軍への戦争協力が問題になっていました。
「沖縄戦だけでは戦争の本当の姿が伝わらない。中国で日本軍が何をしたのかを語るべきではないか、と。中国でしたことを話すのは苦しいですが、戦争の犠牲者が私の背中を押しているようでした」
沖縄戦の日本兵は日本本土の決戦準備のために米軍を引き付けておく「捨て石」でした。中国戦線の日本兵は中国人たちに多大な被害を与える「鬼」でした。戦争を引き起こした天皇絶対の国家への憤りを隠しません。
「あの時代の教育で中国人や朝鮮人への差別観を植え付けられました。さらに軍隊は人間を殺人マシンに仕立てたのです」
「二度と戦争をしてはならない。そのために憲法九条を守りたい。九条は戦争犠牲者の血の塊です。やがて社会人になる若者たちに戦争の姿を知って、反対するおとなになってほしい。これからも体が許す限り語り続けたい」
(聞き手・隅田哲)
『最前線兵士が見た「中国戦線・沖縄戦の実相」』は近藤さんと私立同朋高校教員の宮城道良さんの共著。近藤さんの証言に加え、その証言を高校の授業に生かす実践なども書かれています。
学習の友社 TEL03(5842)5641
こちらもどうぞ↓
『軍隊は国民を守らない』平和憲法コスタリカとリオ条約ー世界で軍隊を取材・朝日記者伊藤千尋さん①
中国戦線・沖縄戦の実相、本に
証言の元日本軍兵士 近藤一さん(91)に聞く
今年91歳の近藤一さん=三重県桑名市在住=は、元日本軍兵士です。その体験を若い世代に伝える語り部の活動を30年近く続けています。
このほど証言と活動の記録、『最前線兵士が見た「中国戦線・沖縄戦の実相」―加害兵士にさせられた下級兵士』を出版しました。多くの元兵士が沈黙してきたなか、体験を語る思いを聞きました。
近藤さんは日本が侵略した中国の戦線と太平洋戦争末期の沖縄戦を体験しました。徴兵は1940年12月、20歳のときでした。太平洋戦争が始まる前年です。入隊した部隊は中国山西省に駐屯。八路軍と呼ばれた。中国共産党軍の「討伐」が任務でした。
中国で日本軍は
「部隊がやったことは村々の襲撃、略奪、暴行、殺人でした。あるで乳飲み子を抱えた30歳前後の女性を拉致し、連日乱暴するため一緒に行軍させました。逃げ出さないよう女性は裸です。一人の兵士が赤ん坊を邪魔だと谷底に投げ捨てると、女性は後を追って身を投げました」
44年8月、近藤さんの部隊は中国から沖縄に移りました。翌年4月、沖縄本島に上陸した米軍の戦力は54万人余り。日本軍は現地召集を含めわずか10万人余り。近藤さんは銃弾を受け右鎖骨を骨折。小銃を撃てない状態でしたが、1ヵ月足らずで戦闘に復帰しました。
「米軍戦車の火炎放射を浴びた日本兵は全員火だるま。火がゴムのように体に張り付いて消えません」。米軍に追い詰められ、最後の突撃をしようと駆け出し、石につまずきました。取り囲んだ米兵は、舌をかんで自決しようとした近藤さんの口に布を押しこみ、傷口に消毒液をかけました。
「なんという相手と戦争をしたのか。モノは豊富、さっきまで敵でも捕虜には寛大。自分たち日本軍は中国で捕虜をすぐ殺していたのに・・・。価値観が変わりました。戦争への反省の始まりでした。
生き残った私が
近藤さんが沖縄戦の体験を語り始めたのは、生活が落ち着いてきた約30年前です。「生き残った私が語らなければ、戦争で無念の死を余儀なくされた人たちが浮かばれない」との思いからです。
中国戦線の体験を語るのは、それからさらに十数年たってからです。自衛隊の海外派兵や米軍への戦争協力が問題になっていました。
「沖縄戦だけでは戦争の本当の姿が伝わらない。中国で日本軍が何をしたのかを語るべきではないか、と。中国でしたことを話すのは苦しいですが、戦争の犠牲者が私の背中を押しているようでした」
沖縄戦の日本兵は日本本土の決戦準備のために米軍を引き付けておく「捨て石」でした。中国戦線の日本兵は中国人たちに多大な被害を与える「鬼」でした。戦争を引き起こした天皇絶対の国家への憤りを隠しません。
「あの時代の教育で中国人や朝鮮人への差別観を植え付けられました。さらに軍隊は人間を殺人マシンに仕立てたのです」
「二度と戦争をしてはならない。そのために憲法九条を守りたい。九条は戦争犠牲者の血の塊です。やがて社会人になる若者たちに戦争の姿を知って、反対するおとなになってほしい。これからも体が許す限り語り続けたい」
(聞き手・隅田哲)
『最前線兵士が見た「中国戦線・沖縄戦の実相」』は近藤さんと私立同朋高校教員の宮城道良さんの共著。近藤さんの証言に加え、その証言を高校の授業に生かす実践なども書かれています。
学習の友社 TEL03(5842)5641
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