今日も元気で頑張るニャン

家族になった保護猫たちの日常を綴りながら、ノラ猫たちとの共存を模索するブログです。

ノラたちとの共存を目指して 番外編・2 「動物愛護の精神を問う」(餌やり議論の本質)

2019年10月31日 | シリーズ:ノラたちとの共存を目指して
三度目の殺人という数々の賞を取った映画の中で、被告が弁護士に「自分の知らないところで自分の命が勝手に裁かれる」と言うシーンがあります。これは映画の舞台でもある裁判に対する問題提起というのが一般的な解説ですが、自分には「一方的な理由で人の命を裁く(奪う)」ことの不条理さを追求したのだと思えました。何故なら裁判は、万人に平等なルールに基づく限り"一方的な理由"とは言えない。ただし判決は真実が明白であることが前提というのも、この映画のテーマのひとつでした。

では相手が人でない場合はどうか。人でなければ一方的な理由で命を奪えるのか。人間は他の生物に対して神として君臨することが許されるのか。相手が人でなくても、裁判のように"平等なルールに基づく"必要があるのではないか。必要最小限の食べる、直接身を守る行為は別として、これまで当ブログで何度も述べてきた動物駆除行為、例えば外来生物の駆除、開発で街中に出てきた猪の駆除、奄美でのノラ猫の駆除、これらはもし裁判を行ったなら、本当に悪いのは誰なのかということです。罪もない動物たちの命を一方的に裁くこのと理不尽さを、私たちはもっと感じるべきなのではないでしょうか。

ニャー

動物愛護という言葉。特に最後の一文字は随分上から目線です。このシリーズが目指すのはこの余計な一文字を削って、人間愛と同じような意味での"動物愛"。でも押し付けるわけでも推奨するわけでもありません。自発的に芽生えなければ意味がないからです。それに食べることや身を守るなどの、動物としての人間の基本的な営みは認めましょう。動物愛の対象は"心"あるものと考えて脊椎動物とします。他にもセミやカニなど愛すべき動物はたくさんいますが、蚊やダニなど愛されない動物も含めて別の問題として考えます。また鳥や魚、爬虫類や両生類などは個人的には含めるべきだと思いますが、議論が拡散しすぎるのでここでは除外します。

今年の2月に、NHKBSで「家族になろうよ」というワンニャンとの共生をテーマにした1日がかりの番組がありました。そのときのゲスト出演者石田ゆり子さんが番組の終わりの方でさりげなく発したひと言「餌をやるなと言うのは餓死させることを推奨すること」が印象に残っています。当ブログで2度にわたって書いた「エサをやるなは殺せと同じ」と同じだったからです。餌やり問題に関しては3年前に書いた「エサやりおばさん」以来、「ノラたちの幸せを願って」カテゴリーやこのシリーズの中で延々と書いてきました。まさに当ブログの真髄と言うべきテーマです。

リン(左)とちび太

電車や公共の場で具合が悪くて倒れてしまった人が傍にいたら、私たちは声をかけたり救急車を呼んだりします。でも関わりたくないという顔で通り過ぎてしまう人もいる。別に悪意はなくても、忙しかったり恥ずかしかったり理由はいろいろあるでしょう。だからと言って残念だとは思うが責めることはしません。道端で餓死しそうな子猫が鳴いていても知らん振りで通り過ぎてしまうのも同じ。これらはその人が持っている人間愛、動物愛の強さの問題なのです。この愛が少なければ殺人や動物虐待を犯してしまうかもしれないし、ちょっと強ければ倒れた人を助けたり道端の子猫に食べ物を与えたりするわけです。

多くのアンケートで、「ノラ猫に餌をやるべきでない」という回答が70%を超えています。これは行政や猫保護ボランティア団体による啓蒙活動の結果です。心の通わない役人は別として、ノラを救おうと立ち上がったはずのボラさんたちまで「餌をやるな」と主張するのは何故だろう。彼らはそのHPやブログで、無秩序にノラに餌を与えると繁殖が盛んになって不幸なノラ(とその迷惑行為)が増えると警告する。最近もあるブログで、環境省の資料として1頭のノラ♀が3年後には2000頭になるのだと図解付きで紹介していた。だとすれば今頃地球上の陸地には足の踏み場もないほどノラがいることになるのだが、そんなことはお構いなし。こういった"善意の無知"が横行し、さらには自分たちのやり方だけが正しいと主張するその活動は、最早動物愛とは別物だと思います。多頭飼育崩壊の現場から猫を救い出したり殺処分直前のワンニャンを引き取る行為はとても尊いし頭の下がる思いだが、一向に改善しない状況に疲弊しているように感じるところが自分が最も懸念するところなのです。

キー(下)とクウ:オレたち久し振りの登場だい!

このシリーズでこれまでも述べたきたように、ノラへの餌やりを禁止することは法律違反であり罰則もあります。だから役所もボラ団体のブログも、実は餌やり自体を禁止してはいません。土地の管理者の許可を得なかったり掃除をしなかったりすることを咎めているのです。しかしそれが読者に伝わっていない。餌をやるなという言葉だけがひとり歩きしている。そのことに多くのボラさんが気付いてないように思います。毎日毎日目先のことに追われているうちにおろそかになってしまった初心。ノラを救うために一番大事なことは、1人でも多くの人に動物愛を育んでもらい、ノラのために何をすべきかを学んでもらうことなのに。

ノラに食べ物を施すのは不妊手術とセットだと主張するボラさんがいます。それが、手術をするお金のないお子さんは餌をあげてはいけないという意味になることに気付かない。動物愛というのは理屈じゃないんです。かわいそうだから食べ物をあげる。それでいいんです。あとは周りの大人たちが考えればいい。とにかく動物愛を育むことに最優先で取り組んでほしい。その上で先に述べた動物駆除の問題を考える。すると、一方的な理由で命を裁いていたことに気付くはずです。

外来生物にしても奄美のノラ猫にしても当県のキョンにしても、はたまた市街地に出てきた猪や熊にしても、勝手に湧き出して増えたわけではない。辿り行けばそれが密輸やブリーダーによる過剰繁殖や身勝手な遺棄や開発にあることは明白だ。まずは犯人を罰し再発を許さないルール作りと監視の強化が先決だろう。当の動物たちだけに責任を押し付けるのは、動物愛の欠落に起因する"一方的な理由で命を裁く行為"なのです。逆に動物愛があれば、人間の撒いた種なのだから動物たちに迷惑をかけないように解決を図る方向に向かうはずだと思います。

シロキ(奥)とチキン

さて、次回はいよいよノラの幸せを形而上学的に考察するという、本シリーズの核心的な部分に入ります。

「ノラたちとの共存を目指して」:予告編(期日未定)
その1  資料編「現状と動向調査」(追記:餌やり、地域猫問題)
      2017.2.27
その2  現場編「ノラを守るのに理由は要らない」(報道されたボラさんたち)
      2017.5.31
その3  エサやり問題・続編「裁判事例の検証・他」(司法が肯定したもの、否定したもの)
      2017.8.31
その4  一服編「ノラだからこそ・・かわいい!」(ニャー&みう+テンちゃんの日常)
      2017.11.30
その5  闘魂編「許さない、虐待に不法投棄に暗闇ビジネス」
      2018.4.29
その6  原点回帰編「再確認・人間性とは?」(食肉、動物駆除と保護活動)
         2018.8.31
その7   形而上学編「ノラの幸せとは」(シャッポやソトチビの行動に想う)
その8   地域猫問題・続編「殺処分ゼロに向けて」(目的達成のために必要なこと)
その9   理想追求編「殺処分ゼロの先にあるもの」(対等の精神と真の共存)
番外編
その7  番外編1 「罪と罰」(法の実行と刑罰の妥当性)
                     2019.3.29
その8  番外編2 「動物愛護の精神を問う」(餌やり議論の本質)


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