my daughter Nazuna's drawing of her great grand mother
立春ですね。冬至からずっと毒だしで、やっとすっきりしまして、お便りしています。新年明けてから、もうめがねなしの暮らしをしているのです。鼻もすっきりとし、ますますスローにやっています。
また日本に訪問したいとわくわくしてきて、昨年4月のできごとを少し書きました。もし時間があったら読んでみて下さいね。
第140話 会ったことのない祖母テイさんあらわる
8年ぶりに父の顔を見た。どんなにふけて、よぼよぼになっているだろうと心配だった。少しむくんでいたけれど、だいじょうぶそうで、「おう」とかるく挨拶した。
ベッドの上のなが細いテーブルには、市会議員選挙の候補者の顔写真が写ったわら半紙が乗っていた。病院内の投票場で投票してきたんだという。父はわたしに裏を見せて説明した。看護師さんたちの名前や交代時間が父の震えたような字でびっしり書いてあり、一生懸命じぶんのおかれている状況を把握しようとしてたんだなあと、私は感心した。私の勤めるリハビリの病院でもセラピストが患者さんにケアラーの名前を覚えさせようとしているが、父はそれを自分でしてたんだ。
病棟のかたすみにあるダイニングテーブルについて父は病院食、母、私、なずなはおにぎりとおかずのかんたんな夕食のあと、わたしは、その朝母が父のいつももっていた小さなかばんの中から出してきた3枚の写真を父に見せた。一枚目の写真は父が農家に奉公に出ていたときのその村の青年団の写真だ。2枚目は父の母親テイの写真。三枚目は一番末の妹節子と父、テイが写っている。
父は写真を見て13歳から21歳まで7年間農家で奉公したといった。
この郊外に新しくできた病院の窓から、夜の空と明かりが見えていた。その窓の外には、父が70年前に過ごした農家の村があるのだ。
私は父に、どうしてソノキの農家に奉公に行くことになったの? と聞いた。
向かいの家の渡辺さんが自分の本家の農家を紹介してくれて、家の裏の川から貸し舟にのって、栗の木川を通って、鳥屋野潟を越えてつれていってくれたんだよ。
その渡辺さんは沼垂小学校の校長先生だった。住んでた借家の裏の細い川は製紙工場のヘドロで、そりゃあくっさかった。
私は13歳の背の低い男の子が細い小舟に乗せられて、見知らぬ土地に行く心細さを想像した。想像の中で鳥屋野潟は霧がかかっていた。
奉公先の渡辺の家では、子守をして、孫ばあさんと一緒の部屋で寝ていたんだ。そこから曾ノ木尋常高等小学校に行った。
渡辺にはめかけがいて、そのめかけは家のすぐ裏の家に住んでいたんだ。
そこのうちの息子が、おれより5歳年上で、代をついだが、おれは、そいつとけんかをして、ほかの農家に移ったんだ。
それは夏の暑いなか、お盆の食事をしているときに、それが庭の石に水をまけ、というんだ。おれがじょうろで水をまいたら、そんなんでなくて、バケツでもっと水をまけというもんだからけんかになったんだ。
次に行った家は、妻が死んで、神道寺から三人娘の一人が嫁に来た。それは顔にあざのある嫁であった。 おれは何で顔にあざのある女をもらうんかなあと思った。
そこでは3年「はなんぼう」をした。牛に鋤を引かせるんだ。牛使いは当時そんなにいなかったんだ。草を刈って、押し切りで切って、牛にやるんだ。
父は若い男女の農業青年団の白黒写真を指差し「長谷川よし子。死亡した。」「この小林のせがれは、大食いで死んだ」と話した。
父の昔語りを聞いている間、ナズナは祖母テイの写真を見ながら、ペンでドロ-イングをしていた。
亀田織の縞の着物がだんだんとはっきりとし、目の光がすこしづつ強くなり、まるで、時間の霞のなかから、テイさんが現れてきて、目の前に座っているかのようであった。少し曲がった口が、独特の表情を表していた。
私は、テイさんが私となずなをイギリスからよんで、この家族のひとときをつくったんだなと感じた。
間美栄子(2016年2月3日)
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