第八十四話 アレクセイと泉
地震と津波、原発のニュース、こちらでも見ています。被害の状況やなくなった方の数など知らされるたびにとても悲しくなり、ずっといろいろ考えています。
私はなずなが生まれてから、地震がこわくてしかたありませんでした。山がぱっくりと割れて崩れて幼児のなずながそこに飲み込まれていくという悪夢を見て、うなされたこともあります。子供が生まれて、ほんとうに大切なものが初めてできたとき、たった一つ失いたくないものは命、ということを感じていたんでしょう。
地震があるとわかっていながら55も原発がある日本は、お金のために命をかけているのか?また、その方向をどうにも転換できないのが日本人なのか?それは諦念観なのか、せつな的に生きるのか?
津波で消えてしまった町のウエブを見てみました。そこには町の憲章が掲げてあり、海と山のある豊かさを誇った言葉が書かれていました。
だれも諦念していたのでも、せつな的に生きていたのでも、お金のために生きていたのでもなく、よく生きようとしていた住民の人たちの生活が垣間見えます。
チェルノブイリのあと、すべての村が廃村になり、みんな出て行ってしまった後も、そこにとどまりつづけた老人たちと、たった一人の若者アレクセイの物語、ドキュメンタリー映画「アレクセイと泉」を思い出しました。http://www.youtube.com/watch?v=QuIkhdTXBOY&feature=related
その村には放射能に汚染されていない水がこんこんとわきつづける泉があったのです。それは地下に蓄えられた、自然が長い時をかけて作り出した水でした。
「母なる大地は どこでも聖なる場 みんな地球の子 みんなの子 大地は人のものでなく ひと大地のもの」
この歌は、スコットランドにあるフィンドホーンで習い歌った歌です。フィンドホーンは美しい「聖地」のように思われるかもしれませんが、そこはただのごく普通の海に面した小さな村の、空軍基地がすぐ隣にあるキャラバンキャンプ場なのです。メディテーションをしていても、頭の上では空軍機のキーンというすさまじい音がしてくる。平和を祈る人と戦闘機を操る人。戦争と平和が隣合わさっている。
原発と「聖なる場」も隣り合っている、大地はどこでも聖なる場だから。
原発を作り、自然を畏れ敬うことを忘れてしまった人間たちは、ふたたび大地とつながることが出来るでしょうか。
いつか不思議とみどりがよみがえる、アレクセイの泉のようなところがいくつも生まれてくることを信じています。
( 間美栄子 2011年 3月15日 http://blog.goo.ne.jp/nefnefnef)
P.S. 東京で4月「アレクセイと泉」上映されるそうです。http://www.mmjp.or.jp/pole2/426_timetable.pdf