アートセラピストのイギリス便り

アートセラピスト間美栄子のシュタイナー的イギリス生活のあれこれを綴った友人知人宛のメール通信です。

第135 話 曲馬団のまかない - 1874年 (明治7年) 新潟

2015-08-11 20:12:58 | Weaving of the light

 レストランイタリア軒をはじめたイタリア人シェフピエトロさん

 

 

1874年 (明治7年) 新潟。

開港五港のひとつとして、明治元年に開港した新潟は文明開化のムードが高まっていて、外国人商人たちも集まってきていた。そこにフランス人を座長とする曲馬団がやってきた。

イタリア人青年ピエトロは曲馬団のまかないとして、遠い異国の地にいた。

昔のサーカスはいったいどんなだっただろう?

私とナズナがイギリスのコッツオルズの小さな町ストラウドに住んでいたころ、ある女の人が昔のサーカスを再現したいといって作った曲馬団が、ちいさなテントでサーカスを公演したのを見に行ったことがある。その女の人は白い馬にのって、曲芸を披露してくれた。馬のひずめがザッザッと砂をけった。空中ブランコもみせてくれた。素朴な観客たちと一体となったひと時はナズナたち子供たちだけでなく、大人にも夢や思い出を与えてくれたものだった。

イタリア人コックピエトロは新潟で病気をしてしまい、ほかのサーカスの団員たちは彼をおいていってしまったという。残されたピエトロを、曲馬団の雑用係としてやとわれていた新潟の女おすいが親身に看病した。あとにのこされたピエトロはそれから県令の援助も受けて営所通で牛なべ屋を始めた。

ところが6年後、六千戸の家々が燃えつくされた新潟大火でピエトロの店が燃えてしまう。

ピエトロはイタリアに帰ろうと思うが、周りの人々に説得され、異郷の地に留まる。めおととなっていたおすいのアイデアで 新しい店を「イタリア軒」となずけ、西堀通りに洋館を建て、洋食レストランをはじめたのだった。

レストランイタリア軒は繁盛した。数十年がたったころ、川向こうの蒲原町からきた12歳の少年松太郎がピエトロのキッチンに弟子入りした。ピエトロは、少年の実家が沼垂で梨の商いを営んでいたので、「ペーア、ピーア」と呼んではかわいがった。

レストランイタリア軒は「新潟の鹿鳴館」とも呼ばれるほどに栄えていたが、ピエトロはイタリアに帰りたかった。新潟の砂浜で海の向こうに沈む太陽とまっかな夕焼けを眺めながら、遠い遠い西の故郷のことを思っていたのかもしれない。還暦のころにはついに故郷に帰ることができ、8年後故郷の土に永眠した。

少年松太郎はピエトロの恩を厚く感じたのだろう。やがて青年となった松太郎は独立して自分の洋食屋をはじめ「ピーア軒」となずけた。いまもレストランピーア軒は、ちんちん電車の通りにある。

 

このピーア軒の松太郎さんが早くに実父を失くした私の父信二郎のおじであり父親代わりで父を導いたひとで、レストランで使う肉の仕入れ先の、ある肉屋が取り持つ縁で、私の母との結婚をすすめた人であったので、「もしピエトロ青年が病気をしなかったら、そして、もし置いてきぼりにならなかったら、ワタシもナズナもいまこの世にいなかったのだろうなあ」とわたしはおもつたりするのだつた。



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