アートセラピストのイギリス便り

アートセラピスト間美栄子のシュタイナー的イギリス生活のあれこれを綴った友人知人宛のメール通信です。

第134話 ルーマニアのコマネチがオリンピックで金メダルをとったとき、あなたはどこでなにしてた?  

2015-04-08 21:20:58 | Weaving of the light

 



ルーマニアのコマネチがオリンピックで金メダルをとったとき、あなたはどこでなにしてた?

 

1976年夏。わたしは13才。白い体操着を着たやせっぽちの小さなコマネチが白い子猫のように跳ね踊る姿を、自宅のテレビで見ていたわ。

 

畳に座って、夕ご飯の食卓には、ごはんと味噌汁、焼き魚に漬け物。お父さんと、お母さんと、おにいちゃんと、みんな眼がテレビに釘付けになった。お母さんが、「すごいねーえ」って声を上げた。

 

居間の窓には網戸がはめ込まれてて、夜風が入ってきてた。扇風機も風を送ってた。ブラウン管のテレビは居間の真ん中でデーンと場所を占めてた。

 

わたしは、鳥屋野中学1年生で、毎日部活の卓球で明け暮れていたよ。どこまでも広がる、海のように波打つ緑の稲穂の田んぼの中を走っていたわ。

 

コマネチは、竜のように弧を描いてうねるカルパシアン山脈の、山のなかの小さな村から出てきたんだって。6才のコマネチが外で友達とふたりで手押し車して遊んでるところを見つけられたんだってさ。

 

採点掲示板の設計では、10.00満点はありえなかったのに、それが平行棒と、平均台で2回も起きたんだから、世界は白い妖精コマネチの起こした奇跡にあっとおどろいたんだったね。

 

 

ウクライナでチェルノブイリが爆発したとき、あなたはどこでなにしてた?

 

1986年4月26日。わたしは23才、現在のナズナと同じ年だった。

新潟の下町の海のそばのぼろアパートに一人で住んでいたわ。OLで働いていたけど、片思いの人がいて、あんまり元気がないころだった。豆腐やさんのおじいさんが天秤棒で「とうふー、とうふー」って歩いて売りに来ていたから、どんぶりを持って買いにおりてってさ、冷やっこ食べてたわ、いつも。

 

風の谷のナウシカの絵をプラカードに描いて反原発のデモ行進もしていたけれど、ナズナが生まれる5年も前だもの、たぶん、本当の「いのち」の意味はわかっていなかったんだね。

柏崎原発に核が初搬入されるとき建物の外で、「ハンターイ」って声を上げてたけれど、誰も止めることなんてできなかった。わたしはそれで、がっかりして、どこかもうあきらめてしまってたんだ。きっと。

 

そして、チェルノブイリが人為ミスで爆発した。

チェルノブイリが人為ミスで爆発して以来、ソビエト連邦は変わっていったんだったわ。ルーマニアのレボルーションでは、自由を求めた1000人もの若者が殺されたんだって。ベルリンの壁は崩壊して、コミュニズムは終わった、そんな時代の転換期だったね。

 

当時日本はバブルだったもんね、みんなお金が有り余ってて、遠い国のウクライナでチェルノブイリが爆発しても「関係なーい」だったのかな。そのころトルコ産のナッツは食べてはいけないとかいわれてたね。

 

 

FUKUSHIMA原発事故がおきたとき、あなたはどこでなにしてた?

 

2011年3月11日。そのときわたしは48歳。わたしはイギリスでリハビリテーションの病院で、アートセラピストとして働いていたわ。

朝、いつものように自転車で、白鳥や雁がすむ湖の脇のフットパスを通ってサイクリングしてた。病院に着いてカギをあけてアートルームに入ろうとしたら、同僚のオイルトミストのキャサリンが、「日本がTUNAMIで大変なことになってる」って青い顔して教えてくれた。

 

あわててウェブみて、FUKUSHIMA原発がやられたことがわかった。

「みずが。みずが。水が危ない…」混乱したわたしの頭の中にはそんなことばが繰り返していたわ。

 

それからすこし自分のブログに原発のこと書いたりしたけど、ひとりぼっちで、誰もそのことを話しできる人が周りにいなくて、だんだん気持ちが落ち込んでった。2年もしたら、どんな言葉もむなしく感じられて、もうブログにもなーんにも書く気持ちさえなくなっちゃってた。夜ひとりでワインを飲んだり、DVDを見たり、ひどいときには、ebayで中古の洋服を100枚もオークションで落としてさ、アディクションだった。ゾンビみたいに、はあ?気持ちってなあに?みたいに、こころを麻痺させてた。

 

どうしょうもできなかった。

 

2015年4月 チェルノブイリから29年、あなたはどこでなにしてる?

 

わたしは、今、52歳。もう更年期障害も終わって、体が落ち着いたのかな。新年明けてから、気分がすこしづつ変わってきて、2月からずっと、毎朝目が覚めると、窓の外に見える裏庭の樫の木の2羽のマグパイの巣作りを眺めるようになっててね。ある朝、あっ、てわかったの。今日いま生きているわたしたちのDNAは地球が生まれてから、一回も死んでいないんだって。どんなときも、繁殖できるまでは必ず生き延びて、次の世代にDNAを手渡し続けてきた。何万年もの間どんなに厳しいときも性交に成功できてきた強い生き物の子孫なんだって、おもった。

 

それで、樫の木の枝のように広がっていく、わたしの母方父方の親族のファミリーツリーを調べてたら、両家とも家族のなかの男の子や男の人たちが、死んじゃってることがわかって、「これはホラーだ…」と恐ろしくなって、悪いKarmaはいま、わたしが溶かないと、とあせった。

 

今日の朝、眼が覚めたとき、祖先の人たちの死や病気や、苦しみ、悲しみは過去からの悪いKarma というより、たぶん反対に、そのことをみることが出来る未来の子孫たちへの贈り物、メッセージ、Blessings、なのだろうと思ったの。

 

一本の大きな樫の木のように、地球上のすべての人はつながってて、そのつながりを大切にすることができたら、そして、素直な気持ちを伝え合ったら、わたしたち、また元気を出して、みんなで生きていけるかもしれないって思ってる。

 

コマネチの名前は、ナディアコマネチ。「NADIA」は「希望」という意味なんだって。

そのうちに奇跡が、また起きるかもって、わたし思ってる。

 

 

 

 

未来の子孫たちがこの物語を作って、わたしたちを呼んでいる、Callingが聞こえる?



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