見渡せば日本国内の映画興行収入ランキングはアニメ作品が大半を占め、わずかな実写作品(ここに洋画が入ってくることはなくなった)も元を辿ればマンガ原作。昨今、“映画”の定義は大きく様変わりした。TV版からのファンが初日に押しかけて爆発的なオープニング記録を作り、配給側も度々の入場者特典でブーストをかけて興収を上積み。“映画”を専門としてきた批評家が迂闊に論じることも叶わない市場構造であり、かつて社会現象を引き起こし、シリーズの人気を不動のものとした1982年作『機動戦士ガンダムⅢめぐりあい宇宙編』の23億円を大きく上回る『SEED FREEDOM』の成功に、筆者はまったくもって理解が及ばない状況である。
2002年に始まったTVシリーズ『機動戦士ガンダムSEED』、04年の続編『SEED DESTINY』に続く20年ぶりとなる最新作が、世界観やキャラクターのみならず、稚拙な作劇まで損なうことなく保持していることに驚かされた。放映当時“平成世代の新たなファーストガンダム”として大いに人気を博した本シリーズだが、リアルタイムで観ていた当時の少年少女たちは今回の劇場版を正視できるのか?相も変わらず登場人物がテーマや心情をセリフで語り(劇中時間では『DESTINY』から2年しか経過していない)、シーンごとに場所を説明する字幕スーパーが意味もなく現れ続ける。20年の間に1本でもマトモな映像作品を見てきた観客なら、キャラクターが時に押し黙ることで心の内を物語り、編集によってここが何処なのか類察できるはずだ。まるで観客を無能と思い込んでいるかのような演出ぶりや、荒唐無稽なSF考証の数々に「これがハードSF“ガンダム”の名を冠したシリーズなのか?」と我が目を疑ってしまった。観客はただノスタルジーのためだけに劇場に押し寄せたのか?スクリーンにも観客席にも20年という時間の重みと蓄積が皆無なのだ。
うるさ型の古参ファンを黙らせるために、“ファーストガンダム”からギャン、そして角を付けた赤いズゴックを登場させるのは『SEED』シリーズの常套手段。億面もなく音楽からカット割まで拝借し、過去の遺産を食い潰すその邪悪さは重力に魂を引かれたオールドファンである筆者には耐えられないのである。
だが、“何でもあり”こそがガンダムではないのか?ほぼ同じ年月でファンダムを築き上げてきた『スター・ウォーズ』がフランチャイズの拡大に失敗し続けている今、それぞれの作品が大きく異なり、駄作もあれば傑作もあるガンダムシリーズの自由さは他に類を見ない(何より全ての作品を無理に観る必要が全くない)。ならば“映画”というアートフォームに属する唯一のガンダム作品が『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』であることをここに記しておきたい。
『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』24・日
監督 福田己津央
出演 保志総一朗、田中理恵、石田彰
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます