ハグハグの日々 Ⅳ  ~ 南日本海人、ライダー変身

ご訪問有難うございます。南日本海人、夏山裕のブログです。家族を愛し、人生に感謝して、日々をハグしながら送っています。

目に見えないもの

2010年07月05日 | スペシャル
  休みの日になんの気なしにNHKのテレビを見ていたら、『目に見えない幸せを探す旅―鬼太郎と水木しげるが遠野物語の世界を探訪』という番組をやっていた。
 気持ちが落ち着くような映像で、ソファに寝そべって見ていた。

 東北、遠野地方では、土着神様などへの信仰心が篤く、いろいろな伝説が残されている。あの世と、この世に対する受容の考え方の土壌が寛容であるようだ。
 番組でも、『座敷童』に相通ずるような感覚をもった、ある家の個人的な神様、『オクナイサマ』の信仰が紹介されていた。その家にだけ存在するその神様への信仰であり、ゆえに一つの信仰というものの究極の形を表しているように思えた。
 番組を見終わってから、ふと気が付いた。
 神様や仏様、あるいは、そのほかの偶像や信仰の対象物というのは、人間が、『感謝』を捧げるための『対象物』として存在しているのかもしれないな、と感じた。
 何かを信仰するということは、信じることができる、できないということよりも、信じることによって生み出されてくる気持ち、あるいは満たされる気持ちが重要なのだ、と思ったのだ。
 その満たされる気持ちや生み出されてくる気持ちは、『感謝』である。

 番組内で水木しげるさんも言っていた。「信仰することによって、何か目に見える御利益があるわけではない。だが、何かが、自分たちを守ってくれているのだ、という感覚があるから信仰するのだ」と。その「守っていてくれる」という気持ちが『感謝』につながるのだと思う。また逆に言えば、『感謝』をすることによって、また『守り』を期待できるというような感覚があるのではないか。
 私もよく、何ものかに『感謝』したいな、というときがある。特定の宗教心はないので、その「何ものか」というのがない。目的物がないと、『感謝』の念というのはかなりとらえどころがなくて、いごこちが悪い。
 石の像でもあれば、人はそれに向かって拝むことができる。
 人間の信仰というものは、もしかしたら、そういうものなのではないだろうか?
 『感謝』の念を持って行くための対象物、それが信仰の対象なのではなかろうか。
 番組を見終わって、そういう直感を持った。

 有り難いと思った時、何かに手を合わせたり、何かに感謝を捧げたりしたいと思うのは、人間の心の自然な働きであろうとは思う。
 そうだ、それが信仰なのか!
 御利益というのは、感謝できる、感謝の対象があるということ自体なのだ。そしてそれは、「幸せに生きる」ということと、ほとんど同義だ。
 「幸せだから感謝するのではなく、感謝するから幸せなのである」という言葉があるが、もちろん「幸せだから感謝する」ということも、当たり前に正しい。
 要するにそれは「幸せのサイクル」に入るということだ。

 となれば、『信仰』というものは、『感謝の幸せサイクル』に入るためのものだったのか。

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