なんと、大上段に振りかぶったタイトルであることよ。
しかしながら、今日はこのタイトルしかないのである。
五月ごろだったと思うが、買った本がいくつかあって、年齢のせいか、なかなかすべて読み終わらない。昨日も、けっこう一番新しく買った本を先に読み終えてしまったので、そのことを書いた。
一番長くかかっている本が、かなり恐ろしい題名の本、『「死」とは何か』シェリー・ケーガン著だ。今日、五分の四まで読み進んだ。
面白い。面白い本なのだ。けれども、頭のカロリーを消費するので、なかなかぶっ通しでは読めない。わかりやすく言えば、面白い、面白いけど疲れるのだ。疲れるというのは、重いというよりも、頭を使わされるということだ。
文章の真の意味をつかむために、努力を要すると言えばあたっているだろうか? 題名のとおり、かなり真摯に考えさせられる内容のため、読むのに脳を働かせなくてはならないのだ。とても哲学的なところもある。
しかしながら、講義をもとにした本なので、文章は楽しい。学生や、聴講者に向けて、興味を持続させるような工夫がされている。ユーモアのセンスもたっぷりだ。論理的な思考実験がたくさんされる。
そして内容的にも、このお盆のまとまった休みに読む本にふさわしいとも言えるだろう。
書き終わったところから、1日が過ぎた。
昨日は、あそこまでしか読み進めなかった。
今日、先ほど読了した。ハードな頭のトレーニングを一つ終えたような気分だ。
いろいろな考察や、論理実験が展開されていた。内容について書いてみてもしょうがないので、三点だけ、私の頭の片隅に特に残ったことを。
一つは、私の好きな作家、カート・ヴォネガット・ジュニアの話が出てきて、言及されていたこと。
代表作の『猫のゆりかご』が取り上げられていた。『猫のゆりかご』の中で、ヴォネガットは、ボコノン教という架空の宗教を作りだしたが、それに関係もするのだが、人が死の床っで唱えられるような一つの祈りを思い、書いていた。以下、引用(の引用か)である。
「神は泥を作った。…神は泥の一部に「起き上がれ!」と命じた。…中略。
今や泥は再び横たわり、眠りに就く。
泥にしてみれば、なんと素晴らしい思い出を得たことか!
他の種類の、なんと面白い、起き上がった泥に私は出会ったことか!
私は目にしたもののいっさいをおおいに楽しんだ。…」
私はヴォネガットのファンであるので、驚いたし、真剣な考察の中で、こうした小説の引用が入ると、なんだか、一涼の風が吹いたように感じる。
こうした引用や、またユーモラスな文章が、ところどころの気分転換となる。
二つ目は、このシェリー・ケーガン教授の実際の講義を受けた中で、病気で二年の余命宣告をされた学生がいたことが紹介されていたこと。
その学生は自分が余命二年であることを知りながら、イェール大学で勉強することに人生の意味を見極め、そしてシェリー教授のこの『「死」とはなにか』という講義を受けることになったという。
学生の気持ちももちろんだが、逆にそれに相対して、講義をしなければならなかった教授の気持ちも、察するにあまりある。
実際、彼は「畏れ多い気がした」と述べている。その部分も引用しよう。
「…彼のような立場にある人が、死についての講座を選び、毎週毎週、私が教壇に立って、魂は存在しない、死後の生は存在しない、私たち全員がいずれ死ぬのは良いことだ…と語るのを聴くことにしたのだから。…」と。
この学生のその後のことも、書かれていた。最後の部分だけ言うと、彼は無事に学位を取得した。
私はここらの部分を読みながら、目の周りが熱くなった。
三つめは、結局は、この本を読む意味が集約されるところだ。
「人生は、何もしないには長過ぎるが、何かをするには短過ぎる。」
この小見出しに始まる章のところ、そこが私には一番、この本の中で心に残ったことだ。「死」について考えるということは、同時に「生」について考えるということなのは、言うまでもない。
もちろん、一つの結論が出るわけもないが、それについて考えるのは、時にはいいことだと思う。
この考えるだけでもおどろおどろしいことに関して、こういった本を読み、そしてそれについて考えると言うことは、私にとってはとても良いことだった。
今まで考えたことがなかった、「死」というものについて考えて、わずかだが、それについて理解した(いや、「理解」ということばには語弊があるか。考察して近づいたという意味にとって欲しい。)という気がするし、そのことは恐れを和らげると思う。
そして、「生きる」ということを、前向きに考える原動力ともなるようだ。(誤解のないように言っておくが、私は今生きることを楽しんでいる。後ろ向きに考えているわけではないよ。)
とにかく、生きていこう。自分のできうる限り、幸せに。そして、自分の周りの人たちも少しでも幸せにできたらいいなあ。
しかしながら、今日はこのタイトルしかないのである。
五月ごろだったと思うが、買った本がいくつかあって、年齢のせいか、なかなかすべて読み終わらない。昨日も、けっこう一番新しく買った本を先に読み終えてしまったので、そのことを書いた。
一番長くかかっている本が、かなり恐ろしい題名の本、『「死」とは何か』シェリー・ケーガン著だ。今日、五分の四まで読み進んだ。
面白い。面白い本なのだ。けれども、頭のカロリーを消費するので、なかなかぶっ通しでは読めない。わかりやすく言えば、面白い、面白いけど疲れるのだ。疲れるというのは、重いというよりも、頭を使わされるということだ。
文章の真の意味をつかむために、努力を要すると言えばあたっているだろうか? 題名のとおり、かなり真摯に考えさせられる内容のため、読むのに脳を働かせなくてはならないのだ。とても哲学的なところもある。
しかしながら、講義をもとにした本なので、文章は楽しい。学生や、聴講者に向けて、興味を持続させるような工夫がされている。ユーモアのセンスもたっぷりだ。論理的な思考実験がたくさんされる。
そして内容的にも、このお盆のまとまった休みに読む本にふさわしいとも言えるだろう。
書き終わったところから、1日が過ぎた。
昨日は、あそこまでしか読み進めなかった。
今日、先ほど読了した。ハードな頭のトレーニングを一つ終えたような気分だ。
いろいろな考察や、論理実験が展開されていた。内容について書いてみてもしょうがないので、三点だけ、私の頭の片隅に特に残ったことを。
一つは、私の好きな作家、カート・ヴォネガット・ジュニアの話が出てきて、言及されていたこと。
代表作の『猫のゆりかご』が取り上げられていた。『猫のゆりかご』の中で、ヴォネガットは、ボコノン教という架空の宗教を作りだしたが、それに関係もするのだが、人が死の床っで唱えられるような一つの祈りを思い、書いていた。以下、引用(の引用か)である。
「神は泥を作った。…神は泥の一部に「起き上がれ!」と命じた。…中略。
今や泥は再び横たわり、眠りに就く。
泥にしてみれば、なんと素晴らしい思い出を得たことか!
他の種類の、なんと面白い、起き上がった泥に私は出会ったことか!
私は目にしたもののいっさいをおおいに楽しんだ。…」
私はヴォネガットのファンであるので、驚いたし、真剣な考察の中で、こうした小説の引用が入ると、なんだか、一涼の風が吹いたように感じる。
こうした引用や、またユーモラスな文章が、ところどころの気分転換となる。
二つ目は、このシェリー・ケーガン教授の実際の講義を受けた中で、病気で二年の余命宣告をされた学生がいたことが紹介されていたこと。
その学生は自分が余命二年であることを知りながら、イェール大学で勉強することに人生の意味を見極め、そしてシェリー教授のこの『「死」とはなにか』という講義を受けることになったという。
学生の気持ちももちろんだが、逆にそれに相対して、講義をしなければならなかった教授の気持ちも、察するにあまりある。
実際、彼は「畏れ多い気がした」と述べている。その部分も引用しよう。
「…彼のような立場にある人が、死についての講座を選び、毎週毎週、私が教壇に立って、魂は存在しない、死後の生は存在しない、私たち全員がいずれ死ぬのは良いことだ…と語るのを聴くことにしたのだから。…」と。
この学生のその後のことも、書かれていた。最後の部分だけ言うと、彼は無事に学位を取得した。
私はここらの部分を読みながら、目の周りが熱くなった。
三つめは、結局は、この本を読む意味が集約されるところだ。
「人生は、何もしないには長過ぎるが、何かをするには短過ぎる。」
この小見出しに始まる章のところ、そこが私には一番、この本の中で心に残ったことだ。「死」について考えるということは、同時に「生」について考えるということなのは、言うまでもない。
もちろん、一つの結論が出るわけもないが、それについて考えるのは、時にはいいことだと思う。
この考えるだけでもおどろおどろしいことに関して、こういった本を読み、そしてそれについて考えると言うことは、私にとってはとても良いことだった。
今まで考えたことがなかった、「死」というものについて考えて、わずかだが、それについて理解した(いや、「理解」ということばには語弊があるか。考察して近づいたという意味にとって欲しい。)という気がするし、そのことは恐れを和らげると思う。
そして、「生きる」ということを、前向きに考える原動力ともなるようだ。(誤解のないように言っておくが、私は今生きることを楽しんでいる。後ろ向きに考えているわけではないよ。)
とにかく、生きていこう。自分のできうる限り、幸せに。そして、自分の周りの人たちも少しでも幸せにできたらいいなあ。