俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

本能

2016-08-09 09:55:03 | Weblog
 人類は最も本能を失った動物だ。本能を失うことによって人類は「自由」を得た。本能による支配から離脱できれば「学習」を通じて事実を知る。しかし生存に直結した本能から自由ではないから特定の本能によって雁字搦めになった歪な価値体系を築く。
 人類が逃れられない本能は主に3つある。食欲、性欲、群居欲だ。本能から自由になった筈の人類の理性はこれらの本能と対立する。食欲と性欲が理性と対立することは日常的に見受けられる。これらの本能が働けば人類は平気で不合理な選択をする。理性は食欲と性欲を制御できていない。
 余り注目されないが群居欲は授乳・受乳が必須である哺乳類にとって離脱不可能な本能だ。哺乳類は総て強固な群居欲を本能として持っている。人は群居欲を本能として認めようとせず奇妙な論理を使ってでも倫理の中に組み込もうとする。しかし利他性や共感は人が神の資質を受け継いだのではなく、ただ単に今尚群居動物である証しに過ぎない。群居動物的特性は倫理性に基づくのではなくただの本能だ。本能だからこそ合理性に背く。
 痛みに対する恐怖が本能に基づくからこそ耐え難いということに最近気付いた。このことは最近散々書いた。
 本来、理性は自由だ。事実に対してのみ忠実であり客観的な判断を生みだす。しかし意識されない本能があれば理性はその本能の僕(しもべ)になる。理性は群居本能に操られて群居的生存を賛美する。共存や協力が高く評価されるのは倫理的に正しいからではなく、群居を快適にするからこそ「正しい」と評価される。快適な群居に対する無条件の肯定が倫理の根底に潜んでいる。
 性欲が美を歪めるように群居本能が倫理を歪める。理性は本能に対して自由ではあり得ない。理性は事実に対してのみ忠実であるべきだが、実際には本能に隷属して本能の声を代弁することが多い。
 強欲な人は欲に基づいて判断し、愚かな人は事実と願望を区別できずに願望に基づいて判断する。たとえこれらを超越できる聡明な人であっても本能の声に逆らうことは難しい。理性は本能によってコントロールされるが本能を理性によってコントロールすることは難しい。

コメントを投稿