弔 辞
百瀬兼雄翁のご霊前に謹んで哀悼の辞を捧げます。
昨年、秋にお伺いした時には、お元気でいらっしゃいましたのに、突然の訃報にただただ驚いております。
兼雄翁は、日本社会党結党時に、東筑から参画した三人のうちの一人でした。
兼雄翁は、日本社会党東筑摩総支部書記長として、戦後旧四区の議席を守り抜いてきた下平正一衆議院議員を支え、また長野県議会には林美郎氏を擁し伝統と歴史を刻んでまいりました。社会党は民主的な論争を通じて、その時々の方針を確認してまいりましたが、先鋭化する議論を百瀬兼雄書記長は、時に酒を酌み交わしながら、おおらかにその人望によって、まとめあげてきたことを、往時を知る方からお伺いをいたしました。兼雄翁は、まさに歴戦の闘士であり、日本社会党そのものでありました。
その後、時代の流れの中で日本社会党は社民党に党名を変更、結党六〇年を期して結党期からの党員の表彰を行い、福島瑞穂党首からの表彰を、社民党長野県連合定期大会で行った際、長野までお出かけいただいたのが、今から六年前兼雄翁が八十八歳の時でございます。
その後、かつてのお仲間が、この世から一人去り二人去りしていくなかで最長老の兼雄翁が、後輩を送るための詩を吟じられる姿には寂しさを隠しきれない思いがその背中ににじみ出ておりましたことを思い出します。
兼雄翁は、常に若手の意見に耳を傾け、後押しをしてくれたと感謝する後輩が沢山います。教育長のときも人材の登用には著名人、有力者にとらわれず若手の町民に光をあててくれたこと、また、若沢寺元寺場の調査にあたっては、存在を疑問視する人もいるなかで、積極的に若手の調査員を後押ししてくれたことが今日につながっていると聞きました。
老いてもなお、後進の指導にあたり、私もまた兼雄翁のご鞭撻を受けたものの一人であります。お宅を訪ねるとブドウ棚の下で作業の手を休め、しばし政治談議をいたしました。また波田地区の仲間の皆さんとの、懇親会の席での変わらぬお姿に、皆が信頼を寄せてまいりました。「俺が酒を飲めなくなれば一巻の終わりだ」と、お猪口を持って小首をかしげる姿をもう見ることはできません。
兼雄翁が、九十余年の生涯をかけて訴えてこられた戦争のない社会の実現と、農民や働く者が報われる社会を築くため、その遺志を引き継ぐことをお約束申し上げます。
百瀬兼雄翁、どうか安らかにお眠りください。
二〇一二年一月十一日
社会民主党松本総支部代表
長野県議会議員 中川博司