「神と共に生きる」
第十四話 悔い改めと信仰への招き
使徒二〇・一七‐二一
聖霊の注ぎを受けた弟子たちは、宣教の働きを開始しました。その働きは、「エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで」と広がっていきます(使徒一・八)。その中で、特に異邦人に対する宣教者として神に召された人物がパウロでした。
彼は、もともとクリスチャンを迫害していた人物でした。しかし、迫害に息を弾ませていた最中、復活の主キリストの幻を見、回心とともに、宣教の働きに召されます。彼は地中海世界を何度も旅して周り、ユダヤ人だけでなく異邦人にも宣教の働きを広げていきます。小アジア(アナトリア半島)に位置するエペソにも、何度か訪れ、ある時はかなり長期間にわたり滞在もし、宣教活動をしました。その後、別の場所での宣教を終え、エペソの近くを通ったとき、エペソの教会の長老たちを呼び寄せ、懇談の時を持ちます。
彼は小アジアでの宣教活動を振り返って、彼らにこういうことを語ります。
あなたがたは、私がアジアに足を踏み入れた最初の日から、いつもどのようにあなたがたと過ごしてきたか、よくご存じです。私は、ユダヤ人の陰謀によってこの身に降りかかる数々の試練の中で、謙遜の限りを尽くし、涙とともに主に仕えてきました。益になることは、公衆の前でも家々でも、余すところなくあなたがたに伝え、また教えてきました。ユダヤ人にもギリシア人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰を証ししてきたのです。(使徒二〇・一八‐二一)
以前はクリスチャンへの迫害を行なっていたパウロが、逆に迫害を受ける身となりました。しかし、数々の試練の中で宣教の働きを続けました。命がけでパウロが伝えた宣教の内容は何だったでしょうか。
パウロが人々に語ってきた宣教の内容、その結論は、要約すると「神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰」でした。もちろん、彼が語ったことは、多くのことが含まれていました。『使徒の働き』には、様々な場所で彼が人々に語った内容が記録されています。万物の創造者である神様のこと(使徒一四・一五)、神様は私たちがご自分を求めるよう招いておられること(使徒一七・二七)、そのためにイスラエルの中に救い主イエスを送ってくださったこと(使徒一三・二三)、このお方が十字架に死に、よみがえったこと(使徒一三・二八‐三〇)、このお方によって罪の赦しが与えられること(使徒一三・三八)、また、神はこのお方によってやがてこの世界をさばこうとしておられることなどです(使徒一七・三一)。しかし、その結論として彼が語ったことは、「神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰」でした(使徒二〇・二一。使徒一三・三九、一七・三〇も参照)。彼はユダヤ人にもギリシア人にも、世界中の人々のこのことを訴えてきたのでした。これは現代の私たちも聞くべき神様からの招きそのものです。
一、神に対する悔い改め
…神に対する悔い改め…(使徒二〇・二一)
「悔い改め」とは何でしょうか。それは心の態度の転換を意味する言葉です。特に「神に対する悔い改め」ですから、神様に対する心の態度を変えることです。これまで、神様に背を向け、神様を無視して生きてきたのだとしたら、一八〇度向きを変え、神様に顔を向け直し、神様に向かって歩き始めることです。
イエス・キリストはある時、このことについて分かりやすいたとえを語られました。少しばかり脚色を交えてご紹介すれば、以下のようなお話です。
ある人に二人の息子がいました。兄息子は真面目でしたが、弟息子は父親のもとで生きることが嫌になり、自分が相続するはずの財産を譲り受け、遠い国に旅立ちました。しかし、彼はたちまち放蕩三昧の生活に陥り、あっという間に財産を使い果たします。そろそろ仕事でもと考えていると、ちょうどその頃、その地方に飢饉が起こります。彼は食べることにも困り始めます。仕事もなかなか見つからず、ようやく見つけた仕事は人々の嫌がる豚飼いの仕事でした。豚の世話をしながら、彼はあまりにお腹が空き、豚の餌でも口にしたく思ったほどでした。
しかし、その時彼は我に返ります。父親のところには、パンのあり余っている雇い人が沢山いるはず…。それなのに、自分は飢えて死のうとしている。自分がいるべき場所はここではない、雇い人の一人としてでよいから、父親のもとに帰って迎えてもらおうと決心します。
彼は立ち上がって、父親のもとへと向かいます。家が近づくにつれ心配になったのは、どんな顔をして父親が迎えてくれるかということでした。ところが、まだ家までは遠かったのに、彼を見つけて家の方から走り寄る人物がいます。父親でした。おそらく、父親は来る日も来る日も息子がいなくなった方向ばかり見ていたのでしょう。息子を見つけ、走り寄り、抱きかかえ、口づけして迎えます。「私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。」…そう言いかける息子を、父は押しとどめます。汚れて臭くなった着物を換えさせます。いなくなっていた息子の帰りに、喜びに満ちた宴会が始まりました(ルカ一五・一一‐二四)。
私たちは天の父なる神様のご愛のもと、神を愛し、周りの人々を愛しながら、幸せに生きるはずではなかったでしょうか。しかし、この弟息子のように、神様に対して背を向け、神様から遠く離れて生きていたのではないでしょうか。私たちは「我に返る」、すなわち、人間本来のあり方に立ち返る必要があります。それは、今いる所から立ち上がり、神様に向かって歩き出すことです。
神様が自分をどのように迎えてくれるか、心配する必要はありません。神様は私たちがご自分のところに帰ってくるのを今か今かと待っていてくださいます。私たちがどんなに罪深い歩みをしてきたとしても、また、神様に対して無関心であったとしても、あるいは神様に対して反抗的に歩んできたのだとしても、その事実に変わりはありません。私たちが神様に顔を向け、このお方のところに帰っていくなら、このお方は両手を広げ、大きな喜びをもって迎え入れてくださいます。
二、主イエスに対する信仰
…主イエスに対する信仰…(使徒二〇・二一)
パウロは、神に対する悔い改めとともに、主イエスに対する信仰を人々に訴えました。悔い改めと信仰はコインの裏表です。悔い改めは信仰とともに働きます。逆に、信仰は悔い改めなしに成り立ちません。
信仰とは、全人格的なものです。そこには聖書の伝えるメッセージを理解し、信じることも含まれています。すなわち、イエス・キリストが神の御子であり、その死と復活によって私たちの罪を赦し、新しくし、神の国に迎え入れ、永遠のいのちに生かしてくださると信じます。同時に、信仰は人格的な信頼です。イエス・キリストに対する全人格的信頼を持ち、自分の救い、生涯、永遠をこのお方の御手にお任せします。
神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰を言い表すために、たとえば次のように祈ってもよいでしょう。
「天におられる父なる神様。私は今まで、神様に背を向けて生きてきました。しかし、神様が私を愛し、心にかけ、ご自分のところに帰ってくるよう、招いておられることを知りました。私はこれまで知っていて、あるいは知らずに様々な罪を犯してきました。御子イエス・キリストの十字架の死による贖いの故に私の罪をお赦しください。復活し、今も生きておられるキリストを、私の主、救い主として信じます。これから神様と共に生きていきます。神様を愛し、周囲の人々を愛して生きていきたいです。これからの生涯を助け、御心のままに導いてください。イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。」
「アーメン」とは、元来ヘブル語で、「本当に」、「まことにそうです」という意味です。右のような内容があなたの心に沿うようであれば、ぜひ心を込めて祈ってみてください。神様と共に生きる新しい生涯が始まります。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます