「神と共に生きる」
第十五話 キリストの教会
エペソ一・二二‐二三、二・一九‐二二
使徒パウロは、いろいろな教会に手紙を書き送りました。それぞれの教会の信仰者に、イエス・キリストへの正しい信仰をもって生きるよう励ますためでした。それらの手紙のかなりの部分が新約聖書の中に納められています。
中でもエペソ人への手紙は、信仰者が神から与えられている恵みがいかに大きなものであるかを教えます。イエス・キリストへの信仰を持つ者は、「背きの罪の赦し」を受けていること(エペソ一・七)、「御国を受け継ぐ者」となったこと(エペソ一・一一)、「約束の聖霊によって証印を押され」たと書き記し(エペソ一・一三)、このような恵みをしっかり受け止めながら生きることを励ましています。
また、実際的な信仰生活については、「愛のうちに」歩むこと(エペソ五・二)、「光の子どもとして」歩むこと(エペソ五・八)、「神のことば」(聖書)をしっかり握って生きること(エペソ六・一七)、どんなときにも聖霊の助けを頂きながら祈ること(エペソ六・一八)などを勧めています。
そうした中、パウロはこの手紙の中で、特にキリストの教会に焦点を当てています。信仰者は一匹オオカミのように一人で信仰の歩みを進めていくのではなく、他の信仰者と共に生きていく存在だからです。教会とは何でしょうか。教会の一員として生きていくとはどのようなことなのでしょうか。
一、キリストのからだ
また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。(エペソ一・二二、二三)
「教会はキリストのからだ」と言われます。ここには、キリストと教会の一体性が示されています。「かしら」はキリストです。このお方はすべてのものをその足の下に従わせておられるお方、すべてのものの上に立つお方です。この方が教会のかしらであり、教会はキリストのおからだだと言います。
ですから、神様が現在、世界の中にご自分の働きを進めるうえで、その中心にあるのはキリストのからだなる教会です。信仰者はこの教会の一員として、神様の恵みを世に証ししながら生きていきます。
既に教会とのつながりのある方は、そのつながりを大切になさってください。これまで特に教会と関わりのない方は、近隣によい教会がないか探してみてください。聖書を神のことばとして分かりやすく教えてくれる教会があれば、ぜひその教会に継続して集ってください。日曜日ごとに礼拝がささげられていると思いますので、週ごとに他の信仰者とともに神様を礼拝することができます。
教会の正式な会員となるには、バプテスマ(洗礼)を受けます。「からだは一つ、御霊は一つです。主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。」とも言われます(エペソ四・四、五)。異端的な教会でない限り、どこの教会で洗礼を受けたとしてもキリストのからだなる教会の一員となり、名実ともに信仰の歩みをスタートさせることができます。
二、神の民
こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり…(エペソ二・一九)
エペソ教会のクリスチャンたちの多くはいわゆる「異邦人」でした。これは、ユダヤ人ではないということです。旧約聖書には、イスラエルの民が神の民として選ばれ、立てられたことが記されています。しかし、イスラエルの民は次第に神の御心に背き、大国の支配下に置かれることになりました。そのような中で遣わされたキリストを、少なからぬユダヤ人も信じましたが、宣教の進展によって異邦人たちもキリストを信じるようになりました。エペソ教会のクリスチャンたちもそうでした。
パウロは、他の手紙の中で、「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく」と言っています(ローマ二・二八)。イエス・キリストを通して心が変えられ、神の子とされた者たちが真のユダヤ人であり、真の神の民であるということです。「聖徒たちと同じ国の民」とは、ユダヤ人から見れば異邦人のようであっても、キリストを通して真に神の民とされているのですよ、という意味です。
三、神の家族
…聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。(エペソ二・一九)
キリストは神様が天におられる私たちの父であられることを教えられました。神の民として生きるということは、神様を天のお父様として生きることですが、それとともに、同じく神を信じ見上げる仲間たちを神の家族として生きることでもあります。
教会に行かれると、同じ信仰の仲間たちを「兄弟」、「姉妹」と呼んでいるのを見かけることがあります。これは、教会が神の家族であり、天に父なる神様を信じる兄弟姉妹なのだというところから生まれた表現です。
私自身はクリスチャン家庭に生まれ育ちました。ですから、子どもの頃から教会の集いの中に体を置き、「兄弟姉妹」との交わりの中で育てられました。人付き合いの良いほうではなかった私を忍耐強く見守り、陰にあって祈ってくださった多くの信仰の先輩方がいました。一人ポツンとしていると何気なく声をかけてくれたり、その時々に励ましや応援の言葉をかけたりしてくれた信仰の仲間たちがいました。私が今あるのは、こういう方々に支えられてのことだと痛感します。
私たちがこの世に生を受け、生まれてくると、お父さん、お母さんが愛情をもって育ててくれます。また、お兄さん、お姉さんに取り囲まれて育ちます。そのように、信仰の先輩や仲間たちの愛と祈りの中で育つことができる…これもまた神様が備えてくださっている恵みです。
四、聖なる宮
使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。(エペソ二・二〇‐二二)
ここでは、教会が一つの建物にたとえられています。その土台はキリスト・イエスです。そして、この建物には一つの特別な役割があります。「聖なる宮」、「神の御住まい」としての役割です。
旧約聖書では、神を礼拝する場として、神殿が建てられました。しかし、今は、キリストを信じる信仰者の集まりの中に、神様はご自分の臨在を現わされます。私たちは、週ごとに、また機会あるごとに集まり、神様を礼拝し、賛美し、その御顔を仰ぎながら生きていきます。神様もまた、喜んでそのような場にご自分を示してくださいます。
キリストが言われたように、人数の大小はあったとしても、キリストを信じる者たちが共に集うその中に、父・子・聖霊の三位一体の神様が臨在されます。「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」(マタイ一八・二〇)
私たちの信仰の歩みが、神の家族との交わりの中で励まされ、聖なる宮での神様への礼拝を中心にしながら進められますように。
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