どうかな?その11 福音の宣言が解決する問題は個人的なものであるのか
「比較その4」では、福音の宣言が解決すると考えられる問題の性質についての比較がなされます。特に、それを個人的な問題として捉えるか、それ以上のものとして考えるかに焦点が当てられます。
著者がこの項で結論としてまとめている言葉は、以下のようなものです。「救い派がしたがるように、福音を個人の救いだけに縮小してしまうなら、聖書の物語の織物を破いてしまうようなものであり、聖書すら不要になる。私には、そうとしか言いようがない」(200、頁)。すなわち、福音の宣言が解決する問題は、決して個人の救いだけに限定されるものではないことが強調されています。
結論は明確であり、強烈なものですが、この結論に至る論理の展開は多少複雑です。4つのポイントにまとめながら、その論理を追ってみたいと思います。全体として、私自身は、福音が個人の問題を扱うだけではないということについては同意しますが、同時に私の中には、「福音は、まずは個人の問題を扱うものとして語られるべきではないのか」という意識があります。各ポイントについて、私の意見を付け加えながら書きますので、その分著者の議論の流れが分かりにくくなりますが、ご容赦ください。
(1)使徒行伝における福音説教からの考察
著者は第一に、使徒行伝における福音説教がどうであったかというところから検討を始めます。使徒行伝における福音説教が救いの約束を与えるものであることは著者が既に指摘したところです。その内容は、「赦しと、聖霊の賜物と、回復のとき」というものであったことを振り返りながら、「(福音の宣言が解決するという)その問題とは、罪と、神の力の不在と、新しい創造の必要だろうか」と問いかけます(192頁)。そして、これらの問題を決して過小評価してはならないと言いつつも、「しかし、これらのテーマを単なる個人主義に縮小してしまうなら、大きな思い違いをすることになろう」と続けます。
その一つの例として、使徒5:31に「イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために」と記されている点を指摘します。ここから、「神の民が真の神の民となる必要がある」という、個人主義的問題を超えた、神の民としての問題があると示唆します。
以下、福音の宣言が解決する問題を個人主義的にのみ理解してはならないとする著者の主張が展開されていきます。しかし、その論理を追う前に、私として注目しておきたい点は、使徒行伝における福音説教の内容から考えると、福音の宣言が解決する問題は、とりあえずはむしろ個人的なものとして理解されるような種類のものだったという点です。
「それぞれ罪を赦していただくために・・・(中略)そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」(使徒2:38)「あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために」(使徒3:19)、「罪の赦しが受けられる」(使徒10:43)、「あなたがたに罪の赦しが宣べ伝えられているのは」(使徒13:38)、「信じる者はみな、この方によって解放されるのです(別訳:義と認められる)」(使徒13:39)
これらの表現すべてを、個人の問題を越えた「神の民」の問題として理解することは難しいでしょう。これらの福音説教の表現を見るならば、福音の宣言が解決すると約束されていた事柄が、まずは個人的な問題であったと理解した方が自然なのではないかと思います。
(2)福音におけるイスラエルの物語の重要性からの考察
著者がまず指摘するのは、福音におけるイスラエルの物語の重要性についてです。「イスラエルの物語がイエスの物語によって完成し、それが福音だと言うのなら、福音が解決すべき問題も、イスラエルの物語の骨組みと輪郭の中に見いだすべきであり、私の物語の中で私の必要を満たすだけでは不十分なのである」と言います(193頁)。
ここで前提とされている部分についても、私としては判断を保留したい面があります。福音にイエスの物語が必須であり、重要であるという点については、私としても「ナルホド」と思う所が多々ありますが、福音との関わりにおいてイスラエルの物語がどの程度必要なものなのかについては、「どうかな?」と思う部分の方が、今のところは大きいです。
もちろん、聖書の全体的な理解のためには、イスラエルの物語をきちんと踏まえることが必要だという事は確かなことですが・・・。
(3)イエスが差し出して下さった解決策からの考察
次に、著者は、イエス様が差し出して下さった解決策からの考察をします。すなわち、イエスは、共観福音書の表現でいえば、「神の国」を、ヨハネの言葉でいえば、「永遠のいのち」を差し出して下さったと指摘します。これらの表現は、この地上に神の御国がないという問題、あるいは、この地上に神の豊かな命が欠如しているという問題があることを示すと言います。
たとえば、「永遠のいのち」という表現については、「これも、私は死後に神と共に永遠に生きるという、個人的ないのち以上のものである」と指摘します(193頁)。
聖書において、「神の国」にしても、「永遠のいのち」にしても、単に、「死後行く所」、「死後永遠に生きること」以上のものであることは確かです。この点については、「既に」と「未だ」の両面から、その終末論的構造をきちんと把握することが必要であることは、聖書神学の領域において周知のことでしょう。また、それは個人の問題にとどまらず、共同体としての「神の民」に深く関わるテーマであることも確かです。
しかし、イエス様がサマリヤの女性に「永遠のいのち」を差し出された様子、ニコデモに「神の国」を差し出された様子を見るならば、それらがまず、「あなた」に関わるもの、サマリヤの女性やニコデモ自身に関わるものとして差し出されていたことは間違いないと思います。また、使徒行伝に見られる福音説教の様子を見ても、「神の民」という共同体の問題以前に、聞く一人ひとりに対する個人的な語りかけとして語られているように思えます。
おそらく、「神の国」にしても、「永遠のいのち」にしても、私たちがそれを自分のものとするためには、個人的なものとして差し出されることが必要なのかもしれない、と思います。「神の国」自体、「永遠のいのち」自体は個人の問題をはるかに超えた豊かな内容を意味してはいますが、私たちがその恵みにあずかるためには、どうしてもそれを他人ごとではなく、自分自身の問題、すなわち個人の問題として受け取る必要があるという気がします。
ですから、福音を語る側では、イエス様がもたらしてくださった「神の国」や「永遠のいのち」の豊かさを理解し、味わい、その中に生きつつも、福音を語るに際しては、それらをまず「個人」に対して示し、「あなたも神の国に」、「あなたも永遠のいのちを」と招くのが、福音宣教の基本になるのではないでしょうか。
「神の国」に入り、「永遠のいのち」にあずかるのは、神様の前での一人の罪人としてであり、しかし、「神の国」に入り、「永遠のいのち」にあずかってみれば、それは単なる個人の救いにとどまらない、広くて深い新しい世界に入れられたと知る・・・そういうことなのかな、と思います。
(4)福音における基本的解決からの考察
さて、ここまでの著者の議論は、序論のようなもので、実は、メインとなる考察がここから始まります。(1~3は、三つ合わせてもわずか1、2頁で記されているのに対して、4については、8頁にわたり記されます。)ここでの考察方法は、「根本的な解決という観点から『問題』を考え直すならば、どうなるだろうか?」というものです(193頁)。すなわち、「福音における基本的な解決とは、イエスがメシアであり主であることだ」ということを土台として、そこから逆に問題を捉え直してみよう、ということです。
「イエスがメシアであり主である」ということがどんな問題の解決になるのか、イエスの物語で完成されるイスラエルの物語に問いかけてみれば・・・ということで、それが194‐200頁に記されています。
できるだけ、背景となる聖書の個所を確認しつつ要約してみますと・・・
a.創世記1章の創造の説明は、世界を壮大な神殿(宮)として描写するものである。神は人間をご自身の宮に置かれる。しかしそうするとき、神は人間をご自身のエイコン、つまり神のかたちを担うものとされる。人間の責任は、神、自分自身、他者との間に関係を持つことであり、また神とともに支配する者として、神の宇宙的神殿における神の御臨在の仲介者として、世界と関わることである。(創世記1:26-30)
b.堕落は、単に神の命令に背いた罪の行為だとか道徳的過失だというものではない。それは、私たちに与えられた、王として、祭司としての基本的な役割に対する裏切りである。私たちは神の園における簒奪者だった。(創世記3章)
c.しかし、神は、壊れたエイコン(神のかたちの担い手)のまま永遠に生きる機会を私たちから取り上げることで、私たちを赦される。そして、神は私たちをエデンの東にある世界へと、同じ役割を持って送り出された。しかし、私たち人間は、繰り返し、適切に治めることに失敗し、適切に仲介することに失敗し、何度も簒奪者となった。
c-1.アダムとエバ、また続く人々は、与えられた役割を果たすことに失敗する。(創世記3‐11章)
c-2.神は、「王と祭司」の国を建てるためにアブラハムをお選びになる。神がアダムに任命した役割は、アブラハムとイスラエルに譲渡された。(創世記)
c-3.それから神は、モーセに重要な役割をお与えになる。出エジプトの中核にあったのも、民が「王」となり「祭司」となるという任務だった。(出エジプト記)
c-4.しかし、イスラエルもまた祭司の王国になることができなかった。そこで神は、違う道筋を描き、王の役割をサムエルとサウル、そしてダビデの家系に限定させた。ダビデはまあまあだったが、その後、ソロモン以後は堕落していった。度重なるイスラエルの失敗により、神はついに、イスラエル人の唯一真の代表として、イエスを送ることになさった。(サムエル記、列王記)
d.イエスはメシアである。また、唯一真実の神のエイコン(神のかたちを担う者)である。神が与えた任務は、アブラハム、イスラエル、モーセへと譲渡され、それからダビデへと渡り、イエスにおいて完全に遂行された。
新約聖書は、エイコンとして、メシアとして、全ての主としてのイエス・キリストについての良い知らせを宣言している。(ピリピ2:6-11、コロサイ1:15-20、第二コリント3:18-4:6)
e.イエスが任命された、メシアとして、王としての働きは、イエスだけが完全に成し遂げたものだったが、驚くべきことに、今度は神の民である私たちを、もう一度その働きに任命しておられる。(黙示録5:9-10、20:6)
著者は、聖書全体の中からこのような枠組みを描き出し、だからこそ、「イエスこそメシアであり主」という福音の宣言が必要とされていると指摘します。最後に著者は、福音を伝えることについて、3つの要約を記します。
・福音を伝えることは、イエスこそ主としてふさわしいお方であると宣言する。
・福音を伝えることは、偶像礼拝から立ち返り、救い主なる主のもとで生きることを人々に求める。
・福音を伝えることは、主イエスのもとでイエスと共に調停し、治めるという役割に私たちを置くことである。
このような考察の結論として、著者は、「福音を個人の救いだけに縮小してしまうなら、聖書の物語の織物を破いてしまうようなものであり、聖書すら不要になる」と締めくくります。
ここには、聖書の中から取り出されたいくつかのキーワードがあります。「エイコン」「役割(任務)」「簒奪者」「王と祭司の国」です。その一つひとつについては、「ナルホド」と思わせる所が多々あります。また、これらの視点が、聖書に対する首尾一貫した見方を提供する点も、「ナルホド」と思わせる所の一つです。
ただ、そう思いつつも、同時に感じるのは、やはり要約されすぎた言葉は、魅力に欠ける面が否めないということです。「首尾一貫した理解」を与えてくれる一方で、そのストーリーから洩れこぼれたものが沢山あるような気がします。おそらくは、凝縮されすぎた福音の「4つのポイント」が、そのポイントがいずれも聖書的でありながら、ある面、福音の豊かさを表し切れないのと同様かもしれません。
おそらく聖書の福音は、本来、上記のような著者のストーリーと、いわゆる「救い派」がしてきた福音のポイントの両方をすっぽりと包みこんでなお余るような、豊かな内容を持ったものと考えるのがよいのではないだろうか、という気がします。
福音の宣言が解決するのは、「個人的問題」か、「個人を越える問題か」という問い方も、福音が解決する問題はその両方を含んでいるというのが、本当のところではないでしょうか。
「個人の問題だけではない」という点では「ナットク」ですが、全体的に「個人の問題(救い)の軽視」につながりかねない論調に対しては、「どうかな?」と、一歩距離を置きたくなる・・・当面の私の心情的立ち位置と言えるかもしれません。
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