長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

マクナイト『福音の再発見』(その8:第8章前半)

2013-08-18 15:34:22 | マクナイト『福音の再発見』

ナルホドその7 著者は自説を支える4本目の脚として、使徒行伝に記録された使徒たちの福音説教に注目する。

新約聖書の検討を通して、著者は次のように指摘してきました。
(1)イエスは福音を宣べ伝えた。
(2)福音書は福音を語る。
(3)パウロは伝承された使徒的福音を伝えた。
これら3本の脚によって、福音についての著者の考え方が支えられていると言います。そして、第8章では、4本目の脚に注目するよう呼びかけます。それは、使徒行伝に記録された使徒たちの福音説教です。

まず著者は、使徒行伝に7つか8つの福音説教あるいはその概要が記されていることを指摘します。そして、それらの説教が、「福音を宣言する説教である」と指摘します。福音とは何かという問題を考える上で、これらの説教の内容を吟味することは基本的な作業になるという著者の指摘は、理にかなったものと思います。「福音の椅子の4本目の脚は、どういうわけかずっと無視されてきた」(157頁)、「部屋の中に象が1~2頭いるのに、皆がむきになってそれを無視しようとしているかのうように」(158頁)という著者の指摘が本当だとしたら、私も「どういうわけだろう」と思わずにはいられません。


どうかな?その6 彼らの説教の中にイスラエルの物語が含まれるのは、文脈化の結果とは言えないのか。


著者は、まず、使徒行伝に記されている福音説教にイスラエルの物語が含まれていると主張します。確かに、使徒行伝に記された福音説教を調べてみると、その多くは、旧約聖書の言葉に触れており(使徒2:13-21、3:22ー23、25)、旧約聖書の約束がイエスによって成就したことを示すものもあり(使徒10:43)、中にはイスラエルの歴史の要約を述べてから、それをイエスに結び付けるものもあります(使徒13:17-23)。しかし、これらの福音説教は、ユダヤ人か、ユダヤ的背景を持つ聴衆たちに語られたものであることを見過ごすことはできないように思われます。使徒2、3章のエルサレムでなされた説教はもちろんそうですし、使徒10章の説教対象であったコルネリオたちも、旧約聖書に親しんでいた人々と考えられます(使徒10:2)。また、パウロが説教の中でイスラエルの歴史を語ったのは、ピシデヤのアンテオケのユダヤ人会堂においてでした。

このことを考えると、使徒行伝に記された説教の中にイスラエルの物語が含まれているとしても、それは、ユダヤ人あるいはユダヤ的背景を持つ聴衆に向かって語られたからであって、いわゆる文脈化の結果であるとは言えないのか、という疑問が生まれます。

この疑問に対して答えを得るための良い方法は、異邦人に向かって語られた説教を調べることです。著者が指摘する7つか8つの説教の中で、明確に異邦人に対して語られている説教が2つあります。1つは使徒14:15-17のルステラでの説教、もう1つは使徒17:22-31のアテネでの説教です。これらの説教において、旧約聖書の引用は見られません。イスラエルの歴史や旧約聖書への言及もありません。

ルステラでの説教では、ただ「天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神」と、創造主なる神について語ります(使徒14:15)。また、「とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです」と、いわゆる一般啓示によってご自身を証しされる神様に目を向けさせています(使徒14:17)。

また、アテネでの説教でも、まず「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神」について語ります(使徒17:24)。続いて、「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました」と、これもまた一般啓示によってご自身を啓示しておられる神様に目を向けさせます(使徒17:26)。

著者はもちろん、これらの説教についても取り上げ、説明しています。「異邦人に対しても、ユダヤ人に対するのと同じ方法で、福音を宣言しただろうか。福音の説明の仕方に、何らかのバリエーションがあっても不思議はないはずだ。実際、違いはあった。たくさんあった」と、異邦人に対する福音説教が、ユダヤ人に対するものとは随分違ったものであったことを認めます。しかし、著者はこれに続けて、「パウロの福音宣教は、確かに聞き手に配慮して調整したものだった」と説明します(173頁)。これは、本来福音にはイスラエルの物語が含まれるものの、異邦人相手の説教でパウロがイスラエルの物語を省略して語ったことを意味するようにも思われます。

しかし、著者は、ルステラでのパウロの説教について、「聴衆が異邦人だからと言って、パウロは聖書に記されたイスラエルの物語がイエスの物語によって完成させるという歴史の流れに言及せずにはおれなかった」と説明します(174頁)。また、アテネでのパウロの説教について、「イスラエルの歴史の概略を説明することで(選びと契約については省略したが)、イエスの物語を語るための状況を整えた」と説明します(175頁)。著者の見方からすればそうなるのかもしれませんが、私には、パウロの説教をありのままに見るよりは、著者自らの枠組みによって多少無理に捉え直しているように思われるのですが、どうでしょうか。


ナルホドその7 使徒行伝に記された福音説教には、イエスの物語が含まれている。


ユダヤ的背景を持たない異邦人にもイスラエルの物語が語られたとする著者の主張には今ひとつ納得できないものを感じますが、他方、使徒行伝に記された福音説教には、イエスの物語が含まれているという指摘には「ナルホド」と思いました。

「ペテロの福音はイエス・キリストの物語全体を語るものであり、そこにはイエスの人生、死、復活、昇天、聖霊の賜物、再臨、神がすべてのすべてになるための歴史の総括が含まれる」(166頁)。著者は、イエスの物語が十字架に限定されていないことに、特に注目する。また、イエスに対する称号としては、「メシヤ」と「主」が最も頻繁に用いられており、その他の称号はこれを補佐するものだと主張します(172頁)。

他方、「異邦人への使徒」であったパウロの説教については、特にアテネでの説教に注目します。ここでパウロは、キリストの十字架に言及しておらず、むしろイエスの復活とイエスによる裁きを説教のクライマックスに置いていることを、著者は指摘します(176‐177頁)。

福音を語る時に、キリストの十字架のみを語って終わってしまうことは、確かに福音の矮小化につながる危険性を持つのかもしれない、と思います。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« マクナイト『福音の再発見』... | トップ | マクナイト『福音の再発見』... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

マクナイト『福音の再発見』」カテゴリの最新記事