長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

マクナイト『福音の再発見』(その10:第9章その1)

2013-08-21 21:28:51 | マクナイト『福音の再発見』

どうかな?その9 福音の宣言は何を成し遂げようとするのか


第9章のタイトルは、「今日における福音の宣言」となっており、内容からいっても、これまでの議論がまとめられていく部分です。ただ、議論としては、8章からの流れを受けていて、使徒行伝に記されている福音説教の内容を踏まえつつ、使徒たちの福音の宣言と現代の教会による福音の宣言との比較がなされています。

「比較その1」では、福音の宣言が成し遂げようとするものについての比較がなされます。

「使徒行伝に見られる福音の宣言は、メシアであり主であるイエスによる救いの意義を宣言するものなので、聞き手にイエスがメシアであり主であることを告白することを求める。一方救い派の福音の宣言は、罪人に自分の罪を認めさせ、イエスを救い主として受け入れることを説得しようとする」(188頁)。

「これは二者択一の問題ではない」と続けています。ですが、このように対比されると、まるで二者択一の問題であるように見えます。私が見る所では、使徒行伝に見られる福音の宣言は、「罪人に自分の罪を認めさせ」るものであり(使徒2:36、37、3:13-15、4:10、10:38-39、14:15、17:30)、「イエスを救い主として受け入れることを説得しようとする」ものでもあったと思います(使徒2:38、3:19、4:12、13:38-39)。もちろん、それは、「イエスがメシアであり主であること」を宣言した上でのことでした。ですから、これらのことはすべて使徒たちが福音説教において行ったことであり、その二つの部分を分離、対立させて考えるのはよくないのではないか、という気がします。

イエスはメシアであり主であり救い主です。福音の宣言が聞き手に対して、そのうちのいずれか(メシアであり主である)だけを告白することを目標とし、そのうちにいずれか(救い主である)を告白することは目標としない、ということはないのではないでしょうか。


どうかな?その10 福音の宣言の枠組みはどのようなものか


「比較その2」では、福音の宣言の枠組みについて比較されます。

「恐らく、使徒行伝を読んでいて最も衝撃的なのは、福音の原動力は救いの物語や贖いの物語ではないことだろう。福音の宣言は、イスラエルの物語によって突き動かされており、実際、イスラエルの物語の中でこそ意味をなすものである。」(189頁)

使徒行伝の中の福音説教における「イスラエルの物語」の位置は、聞き手がユダヤ人あるいはユダヤ的背景を持つ者であるか、それ以外の異邦人であるかによって、大きく変わって来ているということは、すでに指摘しました。そうだとすると、「福音の宣言は、イスラエルの物語によって突き動かされており、実際、イスラエルの物語の中でこそ意味をなすものである」という主張は言いすぎのような気がします。

使徒行伝の中の福音説教が、どのような切り口でなされたかは、聞き手が置かれている状況によるという気がします。エルサレムの人々や、旧約聖書に親しんでいる異邦人(コルネリオのような)に対しては、旧約聖書がその切り口になりました。それ以外の異邦人に対しては、彼らの神観、宗教観が切り口になりました。そのような切り口は、ある意味で、それぞれの福音説教の形式的な枠組みを作ったと言えます。でも、だからと言って、使徒たちの内的原動力になったとは言えないだろうと思います。

おそらく、彼らの内的原動力とは、「この方以外には、だれによっても救いはありません」という確信であり(使徒4:12)、「何とかして、幾人かでも救うため」ではなかったでしょうか(第一コリント9:22)。この原動力が、パウロをして「ユダヤ人にはユダヤ人のようになり」、「律法を持たない人々に対しては(中略)律法を持たない者のように」ならせたとは言えないでしょうか。


ナルホドその10 福音の宣言に神の裁きへの言及は避けられない


「比較その3」では、福音の宣言の中で神の御怒りや裁きをどのように位置づけるかが検討されます。

この点について著者は慎重な態度を見せつつも、裁きへの言及を必要なものとして認めています。まず、「ペテロもパウロも、使徒行伝によれば、伝道するときに神の御怒りに焦点を置いていない。イエスの救いの物語を、地獄に行かずに済む、という形で語ってもいない」と指摘しています(190頁)。同時に、「そうは言っても、(中略)最後の審判は初期のキリスト者の福音伝道の働きから、決してかけ離れたものではなかった。福音の宣言に裁きは避けられない」と指摘します(190‐191頁)。

使徒17:29-31を引用しながら、「人間は最終的には神の前に立たねばならない―これは、使徒行伝の中の説教でたびたび見られるテーマである」と指摘します(191頁)。地獄について説教したことで有名なジョナサン・エドワーズに触れながら、「恐らく、今日、エドワーズのような人は要らないのでなく、もっと必要なのだろう」とまとめています(192頁)。

それだけに偏ることに対しては慎重でありたいですが、私も、神の裁きへの言及は、福音の宣言に避けられない一要素であると感じます。

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