長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

マクナイト『福音の再発見』(その14:第10章後半)

2013-08-27 17:43:47 | マクナイト『福音の再発見』

ナルホドその13 「聖書の物語の民」となる


第10章の後半は、福音の文化を造り出すためのいくつかの示唆が記されます。第一に、「物語の民となる」。「神の物語の民」となる、「聖書の物語の民」となる、ということが言われます。

福音を聖書の中でどのように位置づけるかという問題は、今後の課題として残すとしても、聖書全体を読みながら、その流れの中に自分自身を置き、考え、生きていくということは大切だと感じました。


ナルホドその14 教会暦も福音の宣言の一つ


著者は、私たちの生活を「福音化」させるのに有効なものの一つとして、教会暦を指摘します。一年を通じて、イエスの物語を意識し、自分の生活の中で常にイエスの物語との接点を持ち続けることができるという点で、確かに著者が言う所の「福音の文化」形成に役立つかも、と思いました。


ナルホドその15 教会の物語の民となる


福音の宣言における「イエスの物語」の中心性を指摘してきた著者ですが、この部分で「イエスの物語」の継承としての「教会の物語」にも注意を向けさせます。「これらの書(使徒行伝から黙示録)を適切に読むとは、イエスの物語は今なお継続しているものであり、それを新しい文脈の中に新たに適用させたものとして読むことを意味する。」(221頁)「もっと大勢の人達が、先達のキリスト者について知ろうとすべきだ。それが福音文化を立て上げる上で助けになる。」(221頁)示唆に富む指摘と思いました。


ナルホドその16 対抗する物語を生み出す


この世が提供する様々な物語に取り囲まれている私たちが、福音の物語を真実の物語として宣言することによって、それらの物語に対抗することができると、著者は指摘します。


ナルホドその17 洗礼と聖餐はそれ自体福音の宣言である


これも、ナルホドです。


ナルホドその18 神の物語を自分のものとする


最後に、著者は、福音の文化が自分自身を福音の物語の外に置いたままでは始まらないことを指摘します。関連していくつかの指摘がなされます。

・私たちが福音のビジョンに対して信仰と悔い改め、洗礼によって応答する側面と共に、もう1つの側面として私たちの応答が神の御霊の賜物によって促され、導かれているという側面がある。神の霊が人間に信仰を呼び覚まさせ、その目覚めが、新しく造り変えられた人生へと私たちを導く。福音の文化を生み出すためには、私たちがまず回心することが求められる。

・私たちは一人ではない。福音を自分のものとして受け止めるとは、聖書の物語を神の民についての物語として受け止めること。教会を、その醜い部分も含めてすべて、神の民として受け入れる。福音の文化は教会の文化である。

・福音の物語を自分のものとして受け入れるとは、神に聴き、神と語るという、神とのコミュニケーションの人生に召されることでもある。(祈り)

・福音を自分のものとして受け止めるとは、愛と思いやりの心をもって他者に仕えることによって、福音の文化を作り出すことでもある。

この辺のまとめ方には、私もスンナリ同意できそうです。

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