長田家の明石便り

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「聖書が告げるよい知らせ」 第二回 造られた人間

2022-01-15 09:19:21 | 聖書が告げるよい知らせ

聖書が告げるよい知らせ

第二回 造られた人間

創世記一・二六‐三一

 

 前回は、神様が天と地、万物を創造されたことをご一緒に見ました。そして、その最後に造られたのが人間であることも見ました。私たちが今、神様の造られた世界と、そこに生きる人間を見るとき、どんな思いがするでしょうか。時には、「すばらしい」と感じることがあります。しかし、時には、「何か間違っている」と感じることもあるのではないでしょうか。

 地震や台風など、いろいろな自然災害を見て脅威を感じることがあります。「神様はなぜこのようなことを許されたのだろう」と考えるかもしれません。あるいは、人間を見てもそうです。人の思いやりに触れたり、助け合う姿勢を見たりして感動することもあります。しかし、争い、傷つけ合う姿を見て悲しくなることもあります。

 こういう中で、聖書が告げる「よい知らせ」の一つは、世界も、その中に生きる人間も、最初からこうではなかったということです。神様は世界をすばらしく造られ、特に人間をすばらしいものとしてお造りになりました。もちろん、聖書は世界の現実、特に人間の悲しい現実から目を背けません。むしろ、私たちに人間の恐ろしい現実を直視させます。しかし、人間は元からそのように造られたのではなかった。ここに私たちの希望の根拠があります。

 

一、はなはだ良かった

 

神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。(創世記一・三一)

 

まず、今日取り上げる聖書箇所の結論部分から見てみましょう。すべての物が造られ、最後に人間が造られました。そのすべてを見られた神様は、「非常に良かった」という評価をされました。それまでの創造のみわざの各段階で、「神はそれをよしと見られた」という言葉が繰り返されています(創世記一・三、一〇、一二、一八、二一、二五)。しかし、最後に人間が造られた後、世界のすべてを見られた神様は、「非常に良い」と評価されました。人間はいわば創造の冠であり、人間の創造によってこの世界は、単に「良い」だけでなく、「非常に良い」ものとなりました。

私たちは、自分を見たとき、自分自身をどう評価するでしょうか。「こんな良いところがある。でも、こんな良くないところもある。」と考えるでしょう。中には「自分の悪い所ばかり目に付く」という人もあるかもしれません。しかし、神様は私たちを元はと言えば「非常に良い」ものとして造ってくださいました。今現在、どんな欠けがあったとしても、あるいは今の自分の状況がどんなにひどいと感じたとしても、私たちには希望があります。神様が造られたそもそもの人間の姿は、「非常に良い」ものだったという、その一点に希望があります。

 

二、神のかたちに造られた

 

 人間が持つひときわユニークな点については、次のように表現されています。

 

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。(創世記一・二七)

 

 神様は動物も植物も、多種多様に造られ、それらは皆すばらしいものでした。しかし、神様がご自分の「かたち」に創造されたと言われるのは人間だけでした。これはどういうことでしょうか。

 神様にも人間のような肉体がある、ということではありません。神様は肉眼では見えない霊なるお方です。「かたち」というのは物質的な形ではなく、その性質を表します。人間が神のかたちに造られたということは、人間がどこか神様の持っておられるような性質を持つ者として造られたということです。

 たとえば、神様は知恵深い方です。ですから人間は知恵を働かせることができます。また、神様は豊かな感情を持っておられます。ですから、人間も感情豊かです。神様は意志的なお方です。ですから、人間も衝動的な本能だけで動くのでなく、多くの場合、自分の意志で右か左か選ぶことができます。

 人格的なお方である神様は人格的な関わりを求められます。相手に対して関心を持ち、自分の思いを伝え、関わりを持とうとします。そのように、人間は神様との人格的な関わりの中で生きることができます。神様の語りかけに応答し、神様に対して語りかける存在です。

また、人と人との間でも、人格的な関わりを持つことができます。「すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」とありますが、男と女は多くの場合、物の見方、感じ方がかなり違っています。違っていますが、互いに惹かれ合い、近づこうとします。相手を大切に考え、その思いをくみ取り、時には自分の大切なものを相手に与えようとさえします。「愛」というのは、そのような人格的な働きの究極にあります。

 神様がいつくしみ深いお方であるように、私たちも神様を愛し、人を愛することができる。そこに「神のかたち」に造られた人間のすばらしさがあります。

 

三、使命が与えられた

 

こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。(創世記一・二六)

 

「神のかたち」に造られた人間は、すばらしい使命も与えられました。世界を治め、地のすべてのものを治めるという使命でした。それは決して、人間が自分勝手に、自分の都合のよいように、すべての物を扱ってよいということではありません。むしろ、神様の代理人のようにして、きちんと管理し、治めていくことです。

 今、世界を見渡すと、自然が破壊され、色々な資源の枯渇が危惧されています。人間は与えられた使命をうまく果たしていないようです。しかし、人間は本来、この使命を十分果たし得る者として期待され、造られたということを思い出す必要があるでしょう。

 

四、神の祝福を受けた

 

神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」(創世記一・二八)

 

 最後に、人間は神様に祝福される存在でした。神様が彼らを祝福された後、「生めよ。増えよ。地を従わせよ。」と命じられたのは、彼らが神様の祝福を身に受けて地に神様の祝福を満たすようにという神様のご計画を表していました。

 今、人間が地に増え広がるにつれ、神様の祝福よりものろいが増え広がるように見えるかもしれません。実際、聖書はそのような人間の恐ろしい一面も指摘しています。しかし、希望があります。人間はそもそもそうなるように神様が意図して造られたのではないということです。むしろ、神様が意図されたのは、私たちを通して神様の祝福が地を覆うようになることでした。

 世界にどれ程の悲惨があっても、希望はあります。人間がどれ程弱く醜い者であったとしても、望みがあります。私たちを愛し、私たちを創造時の本来の姿へと回復してくださる神様がおられる。ここに私たちの希望があります。

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