「核持ち込み密約」否定に見る自民党政治家の矜持

同盟国アメリカに文書もあり公開もされ、これまで再三にわたり関係者の間で存在が取りざたされてきた「核持ち込み」についての日米間の了解(「密約」という言葉はいかにも悪事を前提にした響きがあり好ましくない)について、麻生総理以下、麻生政権の閣僚たちはあくまで頬かむりを続けるつもりのようだ。まことに情けない。政権末期、自民崩壊前夜のこの時期だからこそ、思い切って前言を翻し、歴史の真実を国民に明らかにしようとの矜持をもった与党政治家はいないのか!

最初に結論を言えば、かかる日米了解(密約)の存在を明らかにすることで、誰も傷つかないし、かえって同盟関係の信頼性を高めることにつながると考えている。むしろ、総理以下与党政治家は、かかる日米了解(密約)が我が国の安全保障にとり当時の国際情勢の中でぎりぎりの戦略的判断に基づくものであったことを堂々と主張し、国民に理解を求めるべきだと思う。

この問題は、2つに分けて考えるべきだ。
一つは、歴史の問題として捉えるということ。つまり、これは、あくまで日本外交史の重要な一頁として刻まれるべき事柄である。したがって、1960年の日米安保条約改定時に、我が国の平和と安全のため、「非核三原則」の例外として核兵器搭載の米海軍艦艇の寄港と領海通過についてだけは暗黙の了解として容認しようと日米政府間で合意した事実を、半世紀近くたった今日認めることに何の躊躇が必要だというのであろうか。多少恥をかくとすれば、かかる了解(密約)はなかったと国会答弁を繰り返してきた歴代政権・外務省関係者だけではなかろうか。それも、国益のため「しら」を切り通したのだから恥ずるところは一つもなかろう。

しかも、1990年代初頭のブッシュ(父)政権における「戦域核の撤去」という決断以来、核兵器を搭載する艦艇による日本寄港・領海通過の可能性は消滅したのだ。つまり、かかる了解(密約)をもたらした背景的事情はもはやなくなったという意味で、一つの歴史的なエピソードとなったのである。さらに言えば、日本政府が「密約は存在せず」と言い張ることにより、すでに関連文書の公開に踏み切っている米国政府との齟齬は決定的となり、肝心の日米同盟にも悪影響を及ぼす。外務省はいったい何のために意固地になっているのか、という疑問が払拭できない。まさに、関係者の面子を守るだけという官僚機構の硬直性を露呈するばかりではないか。

もう一つは、この本音と建前をつなぐ絶妙な「外交上の知恵」を将来的な課題としてどう捉えるかである。つまり、北朝鮮の核とミサイルの脅威が増大する中で、民主党であれ自民党であれ政権を担うにあたり、これまで国是とされてきた「非核三原則」と米国の拡大抑止を実効あらしめ我が国の平和と安全を確保するという死活的な国益とをいかにして両立させるべきかという極めて現実的な「落とし所」の模索である。これは、私たちが政権に就いた暁に、非核三原則の理想と我が国の安全保障をめぐる日米同盟の現実と核不拡散という地球規模の課題解決とを鼎立させる新たな戦略的決断を下さねばならない重要課題だ。しかし、拙速は慎むべきだ。まずは、半年くらいかけて、各情報機関によるインテリジェンス・ブリーフィングなどに基づき、我が国を取り巻く現下の国際情勢を再評価した上でじっくりと結論を出すべきであろう。政権交代とはそういうものだ。

言うまでもないことだが、以上の政治決断を行えるのは、外務官僚などでは断じてなく、政治家たる大臣である。先例墨守の官僚任せではなく、政治家が判断し、かかる了解(密約)が存在したことを認め、この混乱をリセットすべきだ。かりに自民党政治家たちの手では実行できないというのであれば、私たちが国益を賭けて彼らを踏み越え、断固真実を国民の前に公表するまでだ。

[おまけ] ところで、我が国も、諸外国並みに外交文書の公開25年ルールを公式に定めるべきだ。もちろん外交に秘密はつきものだ。しかし、四半世紀たてば、よほどのことがない限りそれは歴史の一頁となるもの。公開するに臆することは何もないはずだ。要は、将来の公開・歴史家による検証・国民の理解に耐え得るような政策判断をすることだ。それが政治家や外交官に課せられた厳粛なる使命だということに尽きる。それを、よりによって姑息にも廃棄するなど切腹ものだ!
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