那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

二つ年上の先輩と喧嘩をした思い出(苛められっ子必見)

2015年12月08日 | 思い出の記

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私は小学校の低学年までは苛められっ子でした。学校の帰り道に帽子を取られたり、背中を飛び蹴りで汚されて、よく家に帰って泣いていたものです。母親は気が強いので「その相手を見つけてもう一回喧嘩をし直して来い」と言われましたが、私は成績のいい優等生で毎年学級委員長を務めていたせいもあり、そういう子供は苛めの格好の対象になるのでしょう。

私の性格が変わったのは小学校4年生から近くにある警察道場で剣道を習い始めたからです。母親は「男は勉強より度胸」とよく言っていたので、私を警察道場へ通わせたのでしょう。

小学校6年生の時に、遊び仲間が評判の悪い中学生に泣かされた、と聞き、雪の中を遊び仲間と走って、その中学生を小学校の校庭で見つけました。

最初はみんなで彼を取り囲み、一斉に飛び掛かる予定でしたが、誰一人として彼に喧嘩を売るものがいません。そこで私は「年上のくせに弱いもんを苛めたらいけんじゃろが」と言うと、その中学生が私に向かって「お前一人だけ来い」と言うので、私は仲間が見ている前で喧嘩を始めました。相手が二三度殴ってくるのを頬を逸らして受け流し、相手の顔面に向かって思い切り殴りつけたところ、相手は鼻血を出して涙を流しました。それを見ていた高校生が仲裁に入った後のことです。

友人たちは、それぞれ握手をしながら「お前がそれほど勇気があるとは知らなかった。一緒に飛び掛からなかった俺らが悪かった」と謝りました。

その後、家の近くにある銭湯に行ったところ、その中学生と偶然に出会い、お湯がぬるかったので私に向かって「お前が熱いお湯を出せ」と命令するので、私は「ぬるいと思うならお前がやれ」と言い返しました。

私が高校1年生のときです。原因がなんだったのかは忘れてしまいましたが、野球部に入っていたその先輩に高校の校庭に呼び出されました。私は呼び出される前の夜からいろいろと作戦を練っていました。結局、皮の手袋を水に浸して殴ると効果が何倍にもなるということを知り、当日はその通りにして、彼の前に現れたところ、彼は私の手袋を見て、「今日はもういいから帰れ」と逃げました。

子供の頃の苛められっ子がそれほどまでに変化したのです。

最近虐めの事件が頻繁に報道されています。苛められっ子にここでアドバイスします。苛めっ子は黙っているとカサになって掛かってくるので、例えば鉛筆を削る小さなナイフをポケットに入れておき、苛められたときは相手の喉元にナイフを突きつけて「今度虐めたら殺すぞ」と大きな声で怒鳴ってみてください。必ずその日から苛めはなくなります。

ことわざにも「窮鼠猫を噛む」という言葉があるように、いざとなったら敵がどれほど強くても気合さえ入っていれば絶対に勝ちます。

私は私立探偵として子供のイジメと集団ストーカーを専門にしています。このブログに書いたことを全国の苛められっ子に捧げます。


中学生時代、町内会館を借り切ってドンチャン騒ぎをした思い出

2015年12月07日 | 思い出の記

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私が創価中学を自主退学したのは中学3年の夏休みが終わった後でした。そのころ野村中学は男子生徒は全員丸刈りにする、という規則がありましたが、校長が気を利かせてくれ、もう少しで高校生になるのだから私だけは長髪のままでいい、と言ってくれました。しかし私は頭にハゲでもできているのかと思われるのが嫌だったので自ら進んで丸刈りになったものです。

私が野村中学に転入するとき、私のことを知らない昔の友人たちは「東京もんがくるらしいけんでやしちゃる」(東京に住んでいた人間が来るらしいから足腰立たないように叩きのめしてやる)と言って待ち構えていたそうです。ところが私だと分かりデヤス機会を失ってしまい、しかも友人たちのほとんどは不良になっていました。また後年、一浪して東大に入ったIという友人は、それまでトップの座を守り続けていたのに、私が戻ってくるとトップの座を奪われるのではないか、と心配したと聞きます。

しかし、その心配は無用でした。私の親友のほとんどは不良だったために私もまた彼らと一緒になって遊ぶようになったからです。

例えば、今は大型トラックの運転手になっているDという男はことあるごと我が家に安物のジントニックを持ってきて飲み明かしていました。二日酔いになったDが父親のネクタイを頭に巻いているのを母が見て、まるで時代劇のバカ殿様のようだと笑いあったこともあります。Dとは夜中に煙草を吸いながら散歩したことがあります。途中でパトカーに見つかるとヤバイので、私より小柄なDを女装させ、まるでカップルが歩いているかのように装ったこともよく覚えています。また私の遠縁に当たるOという教員の息子に家に毎週のように出かけ、しかもベランダから彼の勉強部屋までよじ登り、ビールを二人で一ダースほどは飲んでいました。彼はある女の子と交換日記を交わしていたのですが途中でネタ切れになり私が代筆したこともよく覚えています。彼の母親は書道家としても有名でした。

あるとき「木落(こおとし)」という辺鄙な地区の町内会館を仲間が借り切り、不良仲間が酒とつまみを持ち込みで集まることになりました。Dの兄は不良高校生として名前が知られていました。彼は一升瓶をぶら下げてその飲み会に差し入れに来ました。仲間が大喜びしたことはいうまでもありません。

ウラバンという言葉は使っていませんでしたが、私は実質的なウラバンの立場にありました。例えば誰かが「あいつをでやしちゃる」というと、その事情を聴いて、「それならでやしてこいや」と認めたり、逆にでやされると知った知り合いが相談しに来ると、「それなら今回だけは許すから相手にキチンと詫びを入れていくように」と指示する役目が私でした。

ウラバンを張るのはただ喧嘩が強いだけでなく、成績が良く酒が強くないと務まりません。その飲み会のときは全員が酒を浴びるほど飲んで中には表に出て吐いている者もいましたが、私が酒が強かったのでその男の背中をさすったり、毛布を掛けて寝かしつけたりなどの世話を焼いていました。また私はフォークギターを持参して即興で仲間のために歌を歌ったことも思い出します。

誰が町内会館を借り切ったのは覚えていませんが、やがて大人たちの噂になったものの、全員がトボケで答えなかったので野村中学からのお咎めはありませんでした。

思い出したことがあります。仲間たちが持ち寄ったドリンクを全て一つの器に入れて回し飲みしたことです。ビール、日本酒、ウィスキー、ジン、コカコーラー、ファンタ、何もかも全てを混ぜると実に美味く、私は今でもあの味が忘れられません。ウィスキーといってもレッドならまだ高級品で、ホワイトという安物があったのですが、今は知っている人はほとんどいないと思います。またタバコも「労働者タバコ」と言われたハイライトが主流で、私は「カンピー」と呼ばれる両切りの缶に入ったタバコが好みでした。これは俗に「肺がんタバコ」と言われ、タバコを吸って障子に吹き付けると白い障子が真っ黒になったものです。高校生になってセブンスターが発売されたときは感動したものです。

前に予告した野球部の先輩(私は野球部にいたことはありません。ただ2つほど年上という意味で使っています)の話や、後にヤクザになった帝京第五高校のMの話など、近いうちにこの「思い出の記」に書いて、私がどれほどデタラメな人間だったか、私の子供たちのために残すつもりです。これで今回の「思い出の記」を終えることにします。


微笑禅の会ネット会報平成27年12月号(補筆:2)

2015年12月06日 | 微笑禅の会ネット会報

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私の人生を変えた決定的な出来事について一つ書き忘れてことがあるので付け加えておきます。

私が郷里で学習塾に成功し年に純益が1000万ほどあったときに、以前からしばしば誘われていましたが、大学院の指導教授から、「君を絶対に教授にするから早稲田大学の非常勤講師として赴任するように」と言われました。薄給の非常勤講師になって妻子を養っていくことは地方在住の人間にとって過酷なことですが、いま住んでいるマンションを買う頭金ほどの蓄財があったため、そのマンションに自分たち家族も済めばギリギリの生活ぐらいはできる、と考えた末にこのマンションを買い、妻子を連れて上京することになりました。

ところが、その指導教授は、依怙贔屓といってもいいほど私を買ってくれたのですが、おかしな癖があり、周りから嫌われている人物から先に就職を斡旋していきました。現場の映画製作者から「小役人の典型的な人物」と称される教え子を文科省の役人にしたり、ろくな研究論文も書いていない日大芸術学部からの学歴ロンダリング組を私よりも先に正教員にしたり、またコネで立命館大学に正教員として選ばれることが分かっている相手のアテウマにされたこともあります。二人とも私の後輩で日大からの学歴ロンダリング組でした。これらの就職の斡旋のすべてに私の指導教授が直接関与していたわけではありませんが少なくとも最初の道筋を付け、その経緯はご存じだった筈です。

彼らと比べ、私の研究論文、評論、その他の対外的活動と比較すればどう見積もっても私の50分の1未満の実績しか挙げていなかったのは事実です。私のHPの下のほうに私の執筆リストがまとめて掲載されているので疑われる方はご覧ください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/

そこで研究論文を書くと「査定」といって論文を認める作業があるのですが、私の後輩が私の論文を査定するというおかしな状態に置かれてしまいました。しかし4年間はその状態に我慢しました。

読者の中には私が大学教員としての適性を欠いていたのではないかと邪推する方もおられるでしょうが、それは逆立ちの論理です。私が東京工芸大学に赴任して3年目のオリエンテーションの時、50人ほどの教室は一杯になり、さらに通路にまで学生が行列を作るほどになったため、大学の中で一番大きな教室に移動することになりました。また東京工芸大学が私の改革案を飲まず、さらに退職金まで払わないために結果的に個人訴訟をする準備までに進んだのですが、その旨を授業中に述べたところ、最後のレポートに学生たちは、「先生が辞めたら東京工芸大はただのバカ大学になってしまいます」とか「なぜ〇〇先生が教授で那田先生が非常勤講師なのか理解できない」等々書いています。それは今でもダンボールに保存しています。また学生から絶大な支持を受けていることは以前に書いた微笑禅の会ネット会報に書いているので、次のurlをクリックしてジックリと呼んでください。私が大学をクビになったとか、学生に相手にされていなかったなどという風評被害に終止符を打っておきます。http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/5af6faaf861af9149a0105a2b9452adb

また私が早稲田大学を3年で辞めたのは最初の契約通りのことであり、受ければ誰でも合格する早稲田大学専門学校(ここには映画の専門家がおらず、理工学部の教授たちの天下り先になっていました。最初のオリエンテーションを受け持ったのも私です)、また理工学部では頭の固い学生たちの思考を柔軟にするというミッションを受けて確か二年ほど集中授業を行いました。これらを合わせると早稲田で教えた期間は6年間になります。東京工芸大学では7年間教えましたが、これは低賃金で長年に渉って働かせることを禁止する労働基準法違反になります(今は派遣法が施行されたのでこの限りではありません)。

話を元に戻します。不思議なことに私が作っているHPに、まさにこのブログのように、創価学会を批判したり、また蓮実重彦を批判すると、それを読んで私の指導教授にわざわざご注進する人物がいました。それを読まれた指導教授は、電話一本で済むことなのに、私の住む八王子から指導教授の研究室(もちろん早稲田大学の中にあります)に呼び出して、「こういうことを書いていると君の出世の妨げになるから書かないように」と助言されました。それは指導教授の親心だとは十分理解しています。

しかし私はこう思いました。そもそも私よりも私のブログを読んで指導教授にチクル相手が悪いのではないか、また思ったことを黙っていないと正教授になれないとしたら、それは言論の封殺であり、知識人こそ世のため人のために命を捨てて正論を吐く立場にあるはずだ、そこまでして猟官運動はしたくない。だったらいっそのこと私はアカデミズムの世界から身を引こう、と考えました。

理由はそれだけではありません。個人情報になるので敢えて触れませんが、このことを一番喜んだのは私がお世話になっている心療内科(私は重い不眠症です)の医師と私の母親でした。心療内科の医師は「これまであなたの話を聞いていて一番のストレスは指導教授からのプレッシャーだった。それはいいことをした」(個人情報の部分は伏せてあります)と言われ、母親は「あの人は男性にしてはヒステリックすぎる」と漏らしました。

というのは「世界映画大事典」(日本図書センター刊行)の原稿を頼まれたのですが、私は当時学習塾の仕事で忙しかったのと、完璧主義という性格のため、原稿の締め切りを伸ばし伸ばしにしていました。指導教授からは原稿の材料になる資料を指摘してもらいましたが、それはとっくに所有していました。それでは物足りないと思って原稿が書けなかったのです。そういう事情は話していたのですが、指導教授が電話口で「君は一体やる気があるのか、それともないのか!」と叫ぶように言われたことを母は聞いていたからです。そこで私は寝る間も惜しんで原稿を書き終えましたが、なんと私が原稿を提出してから、最後の原稿が揃うのにあと10年もかかったのです。

こういうことが積もり重なって私は指導教授に絶縁状を書きました。同時に指導教授の細君は実験映像作家で、私の批評を楽しみにしてくれていましたが、夫と絶縁して細君と交友するわけにはいかないので、その旨も絶縁状には付け加えました。

普通から見れば、なんともったいないことを、と思われるかもしれませんが、これは私の性格ですので治しようがありません。この話は私の後輩たちの間で「弟子が師匠を破門した」と語り草になっていると聞きます。

私にはたとえ殺されようが筋を曲げることのできない遺伝的な体質のようなものがあります。

以上、書き忘れていたことをここで補筆する次第です。


担任の教師を1週間登校拒否にした話

2015年12月05日 | 思い出の記

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久しぶりに「思い出の記」を書くことにします。

私が入学した愛媛県立野村高校は、今は単なる〇〇校になっているようですが、私が在籍した当時は「山の中の進学校」として新聞に載るほど有名でした。様々な高校の教員が研修に訪れたほどです。

当時は普通科、畜産科、生活科、という3つの科に分かれていて、私は普通科の4組でした。1、2組は就職するクラス、3組は私立大学を受験するクラス、4組は国公立大学を受験するクラスでした。

高校に入学して以来、私はいわゆる「番長グループ」に目をつけられ、例えば革靴を履いているとか(校則では禁止でした)、ガクランのホックを外して第一ボタンを外しているとか、私は近視だったので先輩にガンをつけたとか、等々の理由で、体育館の地下にある更衣室に呼び付けられて説教をされていました。最後のほうには慣れてしまい、「はい、分かりました、例の更衣室ですね」と言って、とうとう10回目の呼び付けの時に、学生証を出すように言われたので素直に出したところ写真を剥がされ、「これからお前は俺たちの仲間だから安心しろ」と言われました。

愛媛県西南部の高校が連帯して「血友会」(怖い名前ですね)という組織を作っており、その一員になったわけです。一月に500円ずつ出し合い、仲間がバイクの事故で入院した時などにお互いに支えあっていました。私の学生証の写真を剥がした先輩は柔道部のキャプテンで副番長でした。番長グループといっても小さな盆地ですから、全員顔と名前を知っており、一度も殴られたことはありません。その副番長も子供の頃から顔を知っていました。そこで番長は誰かと聞いたところ、私の家からすぐ近くにあるKさんという美術部の部長で、小柄な人でした。あんなおとなしそうな美術部の部長がなぜ番長なのかさらに聞いたところ、小学生の頃の逸話として、誰かと喧嘩になったときに、普段は物静かなKさんが別人のようになって椅子を振り上げ相手を叩きのめしたために、副番長になった先輩たちが必死で止めたそうです。すると「うるさい」と叫んで両手で仲間を振り払ったときの力の強さは尋常ではなかったと聞きます。だから、あの人は放っておくと人を殺しかねないので、いわば護衛兵として、柔道部のキャプテンなどガタイのいい先輩たちが副番長になっていた様子です。

そこで、近所に住んでいるKさんの家に挨拶に行くことにしました。今度血友会に入った那田です、というと、Kさんはコンパスを使った抽象画を描いている途中だったために、「これを描き終わるまでの間、タバコでも吸って待っていてくれる?」と優しそうな声で言いました。Kさんが描き終わったとき、その絵を見せながら、「この右上の部分は青がいいか紫色がいいか迷っているんだが、那田君はどう思う?」と聞かれたので私は「紫色がいいんじゃないですか」と答えたところ、「やっぱりそうか、じゃぁ紫色にしよう」と言って、紫色で塗り終えた後、「これからは仲間だから何かあれば私に言えば大丈夫だよ」と言われたことを思い出します。

ところで私はかなり優秀な成績で入学したらしく、高1のときは京都大学文学部を受験するように言われ、高2のときは東北大学文学部に入学するようにと言われました。しかしそのころ私は重い鬱病にかかっていたため、全く家で学習が出来なくなっていました。そこで高3の時に神戸大学部の経済学部を受験するように言われました。

今の人にはわからないでしょうが、当時は一期校、二期校という区別が国公立大学にはあり、私のいた高校の教師たちは、どうしても一期校に生徒を入学させようとしたものです。

そこで私はホームルームのとき(順番で10分ほど自分の意見を述べる機会を与えられていたと思います)、担任の教師の目の前で、壇上から「これから紙を全員に配るから、本音を書いてほしい、もちろん匿名で」と言ってクラス全員に紙を配り、その回答を読み上げたところ、ほぼ全ての同級生が担任への不満をこぼしていました。

つまり、生徒本人の希望よりも、野村高校を有名にするために一期校に入れることを金科玉条のように守って、私の例のように、全く関心のない経済学部に入れようとしていることにクラス中が不満を持っていたわけです。例えば、本当は将来小学校の先生になりたかった親友も一期校に入れるために教員免許の資格の取れない大学を進められていて、そのことを紙に書いていました。

それらを読み上げた後、担任の教師は一週間の間、高校に来なくなりました。生徒の登校拒否ではなく、教師のほうが登校拒否をしてしまったのです。

後年、私が大学生になって担任の教師の家に仲間と遊びに行き、一緒にマージャンを打ったところ、私が張っていた国士無双に担任だった教師が振り込んでしまい、「つくづく那田は私の天敵だなぁ」とこぼされ、「あの時は本当に教員を辞めようと思った」と告白されました。この先生は後に某有名高校の校長になって赴任されました。今はもう退職されていることでしょう。

マージャンを打ったあとは、仲間と高校のプールに飛び込み(酒を飲んでいたにも関わらず)遊んだことも思い出されます。

その他、中学3年の時に仲間が町内会館を借り切って、不良仲間で深夜までドンチャン騒ぎをした思い出や、高校になって過去に喧嘩をしたことのある野球部の先輩に呼び出され、黒い革の手袋を水に浸して決闘に行ったことなど、相当にふざけた青春時代の思い出が多々ありますが、それはなるべく早くこのブログに書くことにします。