那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

担任の教師を1週間登校拒否にした話

2015年12月05日 | 思い出の記

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久しぶりに「思い出の記」を書くことにします。

私が入学した愛媛県立野村高校は、今は単なる〇〇校になっているようですが、私が在籍した当時は「山の中の進学校」として新聞に載るほど有名でした。様々な高校の教員が研修に訪れたほどです。

当時は普通科、畜産科、生活科、という3つの科に分かれていて、私は普通科の4組でした。1、2組は就職するクラス、3組は私立大学を受験するクラス、4組は国公立大学を受験するクラスでした。

高校に入学して以来、私はいわゆる「番長グループ」に目をつけられ、例えば革靴を履いているとか(校則では禁止でした)、ガクランのホックを外して第一ボタンを外しているとか、私は近視だったので先輩にガンをつけたとか、等々の理由で、体育館の地下にある更衣室に呼び付けられて説教をされていました。最後のほうには慣れてしまい、「はい、分かりました、例の更衣室ですね」と言って、とうとう10回目の呼び付けの時に、学生証を出すように言われたので素直に出したところ写真を剥がされ、「これからお前は俺たちの仲間だから安心しろ」と言われました。

愛媛県西南部の高校が連帯して「血友会」(怖い名前ですね)という組織を作っており、その一員になったわけです。一月に500円ずつ出し合い、仲間がバイクの事故で入院した時などにお互いに支えあっていました。私の学生証の写真を剥がした先輩は柔道部のキャプテンで副番長でした。番長グループといっても小さな盆地ですから、全員顔と名前を知っており、一度も殴られたことはありません。その副番長も子供の頃から顔を知っていました。そこで番長は誰かと聞いたところ、私の家からすぐ近くにあるKさんという美術部の部長で、小柄な人でした。あんなおとなしそうな美術部の部長がなぜ番長なのかさらに聞いたところ、小学生の頃の逸話として、誰かと喧嘩になったときに、普段は物静かなKさんが別人のようになって椅子を振り上げ相手を叩きのめしたために、副番長になった先輩たちが必死で止めたそうです。すると「うるさい」と叫んで両手で仲間を振り払ったときの力の強さは尋常ではなかったと聞きます。だから、あの人は放っておくと人を殺しかねないので、いわば護衛兵として、柔道部のキャプテンなどガタイのいい先輩たちが副番長になっていた様子です。

そこで、近所に住んでいるKさんの家に挨拶に行くことにしました。今度血友会に入った那田です、というと、Kさんはコンパスを使った抽象画を描いている途中だったために、「これを描き終わるまでの間、タバコでも吸って待っていてくれる?」と優しそうな声で言いました。Kさんが描き終わったとき、その絵を見せながら、「この右上の部分は青がいいか紫色がいいか迷っているんだが、那田君はどう思う?」と聞かれたので私は「紫色がいいんじゃないですか」と答えたところ、「やっぱりそうか、じゃぁ紫色にしよう」と言って、紫色で塗り終えた後、「これからは仲間だから何かあれば私に言えば大丈夫だよ」と言われたことを思い出します。

ところで私はかなり優秀な成績で入学したらしく、高1のときは京都大学文学部を受験するように言われ、高2のときは東北大学文学部に入学するようにと言われました。しかしそのころ私は重い鬱病にかかっていたため、全く家で学習が出来なくなっていました。そこで高3の時に神戸大学部の経済学部を受験するように言われました。

今の人にはわからないでしょうが、当時は一期校、二期校という区別が国公立大学にはあり、私のいた高校の教師たちは、どうしても一期校に生徒を入学させようとしたものです。

そこで私はホームルームのとき(順番で10分ほど自分の意見を述べる機会を与えられていたと思います)、担任の教師の目の前で、壇上から「これから紙を全員に配るから、本音を書いてほしい、もちろん匿名で」と言ってクラス全員に紙を配り、その回答を読み上げたところ、ほぼ全ての同級生が担任への不満をこぼしていました。

つまり、生徒本人の希望よりも、野村高校を有名にするために一期校に入れることを金科玉条のように守って、私の例のように、全く関心のない経済学部に入れようとしていることにクラス中が不満を持っていたわけです。例えば、本当は将来小学校の先生になりたかった親友も一期校に入れるために教員免許の資格の取れない大学を進められていて、そのことを紙に書いていました。

それらを読み上げた後、担任の教師は一週間の間、高校に来なくなりました。生徒の登校拒否ではなく、教師のほうが登校拒否をしてしまったのです。

後年、私が大学生になって担任の教師の家に仲間と遊びに行き、一緒にマージャンを打ったところ、私が張っていた国士無双に担任だった教師が振り込んでしまい、「つくづく那田は私の天敵だなぁ」とこぼされ、「あの時は本当に教員を辞めようと思った」と告白されました。この先生は後に某有名高校の校長になって赴任されました。今はもう退職されていることでしょう。

マージャンを打ったあとは、仲間と高校のプールに飛び込み(酒を飲んでいたにも関わらず)遊んだことも思い出されます。

その他、中学3年の時に仲間が町内会館を借り切って、不良仲間で深夜までドンチャン騒ぎをした思い出や、高校になって過去に喧嘩をしたことのある野球部の先輩に呼び出され、黒い革の手袋を水に浸して決闘に行ったことなど、相当にふざけた青春時代の思い出が多々ありますが、それはなるべく早くこのブログに書くことにします。