那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

微笑禅の会ネット会報平成27年12月号(補筆:2)

2015年12月06日 | 微笑禅の会ネット会報

ブログを読む前に集団ストーカーに興味のある方は次のurlを押してください。http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531

 

私の人生を変えた決定的な出来事について一つ書き忘れてことがあるので付け加えておきます。

私が郷里で学習塾に成功し年に純益が1000万ほどあったときに、以前からしばしば誘われていましたが、大学院の指導教授から、「君を絶対に教授にするから早稲田大学の非常勤講師として赴任するように」と言われました。薄給の非常勤講師になって妻子を養っていくことは地方在住の人間にとって過酷なことですが、いま住んでいるマンションを買う頭金ほどの蓄財があったため、そのマンションに自分たち家族も済めばギリギリの生活ぐらいはできる、と考えた末にこのマンションを買い、妻子を連れて上京することになりました。

ところが、その指導教授は、依怙贔屓といってもいいほど私を買ってくれたのですが、おかしな癖があり、周りから嫌われている人物から先に就職を斡旋していきました。現場の映画製作者から「小役人の典型的な人物」と称される教え子を文科省の役人にしたり、ろくな研究論文も書いていない日大芸術学部からの学歴ロンダリング組を私よりも先に正教員にしたり、またコネで立命館大学に正教員として選ばれることが分かっている相手のアテウマにされたこともあります。二人とも私の後輩で日大からの学歴ロンダリング組でした。これらの就職の斡旋のすべてに私の指導教授が直接関与していたわけではありませんが少なくとも最初の道筋を付け、その経緯はご存じだった筈です。

彼らと比べ、私の研究論文、評論、その他の対外的活動と比較すればどう見積もっても私の50分の1未満の実績しか挙げていなかったのは事実です。私のHPの下のほうに私の執筆リストがまとめて掲載されているので疑われる方はご覧ください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/

そこで研究論文を書くと「査定」といって論文を認める作業があるのですが、私の後輩が私の論文を査定するというおかしな状態に置かれてしまいました。しかし4年間はその状態に我慢しました。

読者の中には私が大学教員としての適性を欠いていたのではないかと邪推する方もおられるでしょうが、それは逆立ちの論理です。私が東京工芸大学に赴任して3年目のオリエンテーションの時、50人ほどの教室は一杯になり、さらに通路にまで学生が行列を作るほどになったため、大学の中で一番大きな教室に移動することになりました。また東京工芸大学が私の改革案を飲まず、さらに退職金まで払わないために結果的に個人訴訟をする準備までに進んだのですが、その旨を授業中に述べたところ、最後のレポートに学生たちは、「先生が辞めたら東京工芸大はただのバカ大学になってしまいます」とか「なぜ〇〇先生が教授で那田先生が非常勤講師なのか理解できない」等々書いています。それは今でもダンボールに保存しています。また学生から絶大な支持を受けていることは以前に書いた微笑禅の会ネット会報に書いているので、次のurlをクリックしてジックリと呼んでください。私が大学をクビになったとか、学生に相手にされていなかったなどという風評被害に終止符を打っておきます。http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/5af6faaf861af9149a0105a2b9452adb

また私が早稲田大学を3年で辞めたのは最初の契約通りのことであり、受ければ誰でも合格する早稲田大学専門学校(ここには映画の専門家がおらず、理工学部の教授たちの天下り先になっていました。最初のオリエンテーションを受け持ったのも私です)、また理工学部では頭の固い学生たちの思考を柔軟にするというミッションを受けて確か二年ほど集中授業を行いました。これらを合わせると早稲田で教えた期間は6年間になります。東京工芸大学では7年間教えましたが、これは低賃金で長年に渉って働かせることを禁止する労働基準法違反になります(今は派遣法が施行されたのでこの限りではありません)。

話を元に戻します。不思議なことに私が作っているHPに、まさにこのブログのように、創価学会を批判したり、また蓮実重彦を批判すると、それを読んで私の指導教授にわざわざご注進する人物がいました。それを読まれた指導教授は、電話一本で済むことなのに、私の住む八王子から指導教授の研究室(もちろん早稲田大学の中にあります)に呼び出して、「こういうことを書いていると君の出世の妨げになるから書かないように」と助言されました。それは指導教授の親心だとは十分理解しています。

しかし私はこう思いました。そもそも私よりも私のブログを読んで指導教授にチクル相手が悪いのではないか、また思ったことを黙っていないと正教授になれないとしたら、それは言論の封殺であり、知識人こそ世のため人のために命を捨てて正論を吐く立場にあるはずだ、そこまでして猟官運動はしたくない。だったらいっそのこと私はアカデミズムの世界から身を引こう、と考えました。

理由はそれだけではありません。個人情報になるので敢えて触れませんが、このことを一番喜んだのは私がお世話になっている心療内科(私は重い不眠症です)の医師と私の母親でした。心療内科の医師は「これまであなたの話を聞いていて一番のストレスは指導教授からのプレッシャーだった。それはいいことをした」(個人情報の部分は伏せてあります)と言われ、母親は「あの人は男性にしてはヒステリックすぎる」と漏らしました。

というのは「世界映画大事典」(日本図書センター刊行)の原稿を頼まれたのですが、私は当時学習塾の仕事で忙しかったのと、完璧主義という性格のため、原稿の締め切りを伸ばし伸ばしにしていました。指導教授からは原稿の材料になる資料を指摘してもらいましたが、それはとっくに所有していました。それでは物足りないと思って原稿が書けなかったのです。そういう事情は話していたのですが、指導教授が電話口で「君は一体やる気があるのか、それともないのか!」と叫ぶように言われたことを母は聞いていたからです。そこで私は寝る間も惜しんで原稿を書き終えましたが、なんと私が原稿を提出してから、最後の原稿が揃うのにあと10年もかかったのです。

こういうことが積もり重なって私は指導教授に絶縁状を書きました。同時に指導教授の細君は実験映像作家で、私の批評を楽しみにしてくれていましたが、夫と絶縁して細君と交友するわけにはいかないので、その旨も絶縁状には付け加えました。

普通から見れば、なんともったいないことを、と思われるかもしれませんが、これは私の性格ですので治しようがありません。この話は私の後輩たちの間で「弟子が師匠を破門した」と語り草になっていると聞きます。

私にはたとえ殺されようが筋を曲げることのできない遺伝的な体質のようなものがあります。

以上、書き忘れていたことをここで補筆する次第です。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。