那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

微笑禅の会ネット会報平成25年8月号 閑話休題(風評流布の構造)

2013年08月26日 | 微笑禅の会ネット会報

昔行っていた授業のように、途中で雑談を入れます。但し本質と係わる雑談で、中傷や風評被害の構造に触れようと思います。

噂、都市伝説を研究した名著に「オルレアンの噂」があり、作者のエドガール・モランは、wikiによれば

エドガール・モランEdgar Morin、本名Edgar Nahoum1921年7月8日 パリ - )は、フランス哲学者社会学者である。ユダヤ系スペイン人(セファルディム)の出身である。その仕事は諸学問の境界を横断する超領域性で知られている。また、文化人類学者ジャン・ルーシュと共同監督した『ある夏の記録』(1961年)によって、ヌーヴェルヴァーグ映画監督としても知られる。

とあり、実験映画・シネマヴェリテとも絡んで私にとっては興味深い人物です。「『オルレアンのうわさ - 女性誘拐のうわさとその神話作用』、杉山光信訳、みすず書房(初版1973年 をhttp://www5d.biglobe.ne.jp/DD2/Rumor/column/la_rumeur_d'orl'eans.htm より要約して引用します。途中多くの省略があることをお断りしておきます。

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 『オルレアンのうわさ』とは、1969年5月、フランスのオルレアンに流れた女性誘拐の噂の事です。
 オルレアンは、パリの南方100kmほどのところにある、当時人口十数万人の地方都市でした。この街にあるブティックで、女性が消えると言う噂が流れたのは、1969年5月のことでした。最初期のうわさは、若い女性がブティックの地下にあるという試着室に入ると、催眠性のある薬品を嗅がされたり薬物を注射されたりして、前後不覚になったところを誘拐され、外国の売春宿に売り飛ばされていく、というものです。当初は1軒だけだとされていた、女性誘拐を行なっているブティックは、次第に数を増やしていき、最終的には全部で6軒のブティックと靴屋が、この事実無根の風聞の対象とされました。実はこの6軒の店舗うち、5軒までがユダヤ人経営の店であり、残る1軒も、噂の少し前、ユダヤ人の前店主から引きつがれた店でした。

 モランはこの噂が、思春期の少女にありがちな、性的なものへの恐れと憧れの中から生まれた物だとしています。最初期の噂は、『神話』化し、社会問題となった後期型の噂と違い、いかにも根も葉もない世間話といった趣の話でした。噂を生み出した女学生達自身にしても、この話を現実の出来事と考えていたとは言えないようです。

モランは、少女ら以外で最初にこの噂に反応したのは、母親や女教師など、少女達との接点がある大人の女性であったと指摘しています。そのかかわりの構図とは、この噂を否定することで、少女らの性への芽生えを抑圧しようとした、というものです。結果的に、この反応が、それまでほとんど女学生の間にのみ広まっていた無責任な噂話を、より多くの人に広める契機になったようです。

 やがて、この噂が広範に広まるにつれ、ある一つの新しい要素が付加されていきます。それが、『誘拐を行なっているのはユダヤ人である』、という民族差別的な内容でした。当初は、どことなく淫靡な雰囲気を醸し出しているだけだった噂が、ユダヤ人という触媒を得たことで、オルレアンの人々にとってより現実的な脅威として認識されるようになり、急速に拡大していきます。
 やがて、猛威を振るった噂騒動も、発生から数週間が経つうち、急速に沈静化へと向かいます。けれど、噂が完全に消滅したかと言えばそうでもありませんでした。『ブティックから女性が消える』と言う、騒動のきっかけとなった巨大な噂それ自体は瓦解しつつも、この噂が持っていた多種多様なモチーフごとに細分化され、それを発展させた、多くの『ミニ神話』という残滓はなおも生き続けます。
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つまり、噂、風評というのは、その底に噂を広める人にとって「都合のいい願望」と「無意識の欲望の抑圧」によって広まる、と分析したわけです。

私は「創価学会批判の要諦」(2006年7月)をウェブ上に書いて以来、とんでもない犯罪(助役の娘で軍属だった母を従軍慰安婦と決めつけ、私の論文や批評を読みもせず全て価値が無いと断定する工作員の登場、等々)に巻き込まれて名誉毀損訴訟を起こし、妻子の失踪(言論の暴力によるDVシェルターへの保護から妻の両親さえ住所が分からない状態が2年続き、そこから移転後の住所を知って2年以上になります。もちろん接見禁止=保護命令は出ていません)、八王子高齢者支援課による母の保護処分(私が高齢者虐待をしたという100%が作文に基づくもの)、相当重い刑事罰に相当する中傷ブログが立っている、など一般人では経験できない様々な犯罪にあってきました。

この中で、モランが指摘したのと同じ構造が底流にあることが分かっていました。これらの工作員の行動に共通する風評被害の目的が、「私の女性関係のだらしなさ」と「すぐに暴力を振るう」という神話を流布させようとしていること、その筋書きに早くから気付いていました。

特に、「微笑禅の会」の活動にしても「ロータス人づくり企画」の様々な構想にしても、現代の道徳や価値観を糾すという目的が根底にあります。ですから、これを潰すには過去に「悪の論理」に引用したとおり、その主導者のシモネタを流布させるのが一番効果的なわけです。

そしてモランが指摘したように、風説を流す主人公自身が無意識に、自分自身の劣等感(男の嫉妬は凄まじいですからね。怨念の塊になります)と性的欲望を暴露しているのです。具体的に言えば、韓国人の留学生と同棲していた、人妻と付き合っていた、石和のコンパニオンと恋仲になった、キャバクラに通っている、デルヘル嬢の写真を見ている(代表の座を一時譲った人物すらここに拘りました)、そして100%根拠のない「幼女に性的悪戯をした」「デリヘル嬢を買って支払いに文句をつけた」と、どんどんエスカレートしていきました。

こうすることで、こんな人間が禅の指導をする資格はない、こんな人間が道徳教育や世直しをする資格がない、と神話化に方向性を持たせたいのですね。創価中学自主退学にも裏があるはず、早稲田卒業も嘘、修士論文は他人が書いた、大学辞職も本当はクビだった、中央義士会の顧問は経歴詐称(その事情はブログに説明済みです)、等々、嘘も100回つけば事実になる、という悪の論理で確信的に神話化を強めていったわけです。

噂によって自分たちの組織を批判する人間を社会から抹殺するための実に幼稚なシナリオで、もっと推敲して欲しいと思いますが、実はこの単純な手口で充分なのです。つまり「人間は人間にとって狼ですから、噂がその主人公の評判を高めるほうに広がることは絶対にありません」。権力への欲望に囚われて生きるしかない人間は、常に「自分のほうが上位に立つように噂を解釈する」からです。簡単に言えば、人間は「人をけなして喜ぶ本能を持っている」ということです。

滑稽なのは、下半身スキャンダルの内容です。人妻と付き合ってどこが悪いのでしょう。もう姦通罪はありませんよ。キャバクラ遊びは東京では一流企業の接待にも使われます。バブル崩壊以後デリヘル(新風営法により合法)には女優なみの美人が集まり、それを見て楽しむことのどこが悪なのでしょう? 悪い悪いと囃し立てている人間は、本当は自分もそんな体験をしてみたい、また本当は自分がデリヘル嬢を買いたい(或いは買ったことがある)と思っているから、そこばかり気になるわけです。モランが言ったとおり「性的なものへ憧れ」が隠れた悪評を流す人々の深層意識、つまり自分でも気が付かない本音です。

禅の指導者が酒を飲み、女遊びをしてはいけない、などというのは思い込みに過ぎず、己の心境の低さを物語っています。遊びは大いに結構。良寛、一休禅師の人生を調べて御覧なさい。公案にも恋や性愛がテーマになっているものがあります。ちゃんと読んで心境を述べて欲しいものです。もし私に甲斐性があれば、不遇に生きている女性を片っ端から恋人にして幸せにしたいぐらいです。

さらに「よさこい節」の価値観から見れば、どうせやるなら掟を犯して晒し者にされ国外追放するぐらいの恋をせよ、という思想があり、戦前の映画では「狂恋もの」というジャンルがありました。八百屋お七などその典型で、坪内逍遥は恋人に逢いたいために大火を起こしたお七の恋心を絶賛しています。大体、不倫や娼婦や芸者との恋愛をタブーにしたら、日本の芸術の殆どが消えてしまいます。歌舞伎、文学、演劇などなどの名作の大半はこの種のものがテーマです。私は「五行歌」同人で「八王子五行歌会」の代表を務めていますが、大いに恋をせよ、不倫上等、という気風があり、主宰の草壁焔太先生自身が性愛の重要性を力説されています。事実、自分を振り返ると、夜の帝王、キャバレンジャーと言われていた時代が最も精力的に仕事をこなしていました。テストステロンが出なくなると全てにおいて活動的でなくなります。現在の私は意識不明の危篤2週間から蘇生し、リハビリの途中ですから、恋愛に興味がもてず、禁酒も続け、坐禅が唯一のストレス解消法というストイックな生き方をしています。これは正しいようで本当は悪い状態です。趣味道楽は人間を健康に保つ構造的に不可欠な要素ですから、これが消えると生の全体のバランスが壊れます。危篤から蘇った人なら分かる筈ですが、そういう体験をした人は滅多にいないでしょうね。

ともかくこういう訳でオルレアンの噂を分析したモランがズバリと指摘したとおり、噂を流す人々は己の無意識の性的欲望を否認して私に投影し、自分の差別意識(邪魔な存在への殺人願望)を自分で暴露しているわけです。モラン自身がユダヤ系スペイン人だったので、この著作には身につまされる思いがあったでしょう。現在は「都市伝説」の構造を知る上での古典となっています。

ところで、昔のHPに書いた映画批評の中から法廷映画の傑作について書いたものが出てきたでここに復元します。モランの考察と合わせてお読み下さい。

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『12人の怒れる男』(シドニー・ルメット 1957年 白黒)

 


{あらすじ}

スラムに住む18歳の少年が、「父親をナイフで刺し殺した」として第1級殺人罪で死刑に問われる。無作為に選ばれた12人の陪審員たちが、殺人事件に対する評決を下すまでを描いた法廷劇(密室劇)だ。

  はじめはたった1人の陪審員だけが「無罪」を主張していた。それが、議論を重ねるに従って少しずつ「無罪」が増えていく。「有罪に決まっているじゃないか。早く終わらせて帰ろうぜ」。そんな空気が議論を重ねるうちに少しずつ変わっていく。「疑問があるから話し合いたいんだ」。そんな主張が少しずつ受け入れられていく過程が息詰まるタッチで描かれる。

  ドラマは、裁判所でのすべての審理を終えたところから始まる。見知らぬ者同士の12人の陪審員は、株の仲買人、会社社長、建築家、広告会社社員、時計職人、高校のフットボール・コーチなどと職業はさまざまだ。移民もいれば、スラム出身者もいるという具合に階層も幅広い。夕方からの野球のナイター見物を楽しみにしている男もいる。「義務だからここの場にいるが、陪審なんて早く切り上げて帰宅したい」。多くの陪審員はそう思っている。

  評決は全員一致でなければならない。有罪の評決が出れば、少年は電気いすで死刑になることが決まっている。1回目の投票では、ただ1人の陪審員(ヘンリー・フォンダ)だけが「無罪」を主張した。圧倒的多数の11人は「有罪」だった。「無罪の証拠はなかった。目撃者もいる。事実は動かせない」というのが「有罪」の理由だ。これに対し、ヘンリー・フォンダは訴える。「6日間の証言を聞いて、あまりにも明確なので奇妙にさえ感じた。弁護士は十分な反対尋問を行っていない。手抜きをしている。目撃者は1人の女性だけ。あとは物音を聞いた老人と状況証拠だ。この2人の証言が間違っているとすれば?」

  陪審員たちの空気は、明らかにヘンリー・フォンダに冷たかった。なぜ1人だけ、みんなと違うことを言うんだ…。どこにでもいるんだ、そういう奴って…。しかし彼は言う。「人の命を5分で決めてもし間違っていたら? 1時間話そう。ナイターには十分間に合う」

  そして、議論が始まる。「非常に珍しい型」とされた凶器のナイフは、どこにでもあるナイフだったことが分かった。再投票で10対2になった。「無罪」評決に転じた老人が言う。「有罪に確信がないだけで、この方は1人で闘ってこられた。大変な勇気だ。だからこそ彼の賭けに応じたくなった。有罪だとしても、もっと話を聞きたい」。うんざりした表情ながらも、陪審員たちの議論は続けられることになった。

  同じアパートに住む老人と、目撃者とされる女性の証言にはあいまいな点が多いことが、白熱した議論と検証を通じて少しずつ分かってくる。8対4、6対6、3対9…、投票を重ねるに従って「無罪」の評決が増えていく。「なぜ無罪に変えた」「疑いの余地がある。不明確な点も多いし」。裁判所での事件審理自体に疑問を感じる陪審員が出てくる。

  「あの不良が。連中は平気でうそをつく。真実なんてどうでもいいんだ。大した理由がなくても奴らは人を殺す。気にするような人種じゃない。奴らは根っからのクズなんだ」。議論に興奮したのか、少年やスラム住民へのあからさまな中傷を夢中でしゃべった陪審員は、自分の心の中に強くある差別感情と偏見を自ら告白する結果になった。ほかの陪審員たちは絶句して無言で彼を非難する。「偏見抜きで物事を考えるのは難しい。偏見は真実を見る目を曇らせる。事実は私も分からないし知る人はいない。だが、われわれは疑問を感じている。そこが重要な点だ。確信もなく人の命は裁けない」

  最後まで「有罪」を主張し続けた男は、息子と喧嘩別れしてもう2年間も会っていないことで苦しんでいた。自分の息子と被告の少年を心の中でだぶらせて、だから「有罪だ」とかたくなに繰り返していたのだった。男は泣きながら「無罪だ」と言って机に突っ伏した。

  少年に対する評決はついに「無罪」で一致した。12人の陪審員は裁判所の建物を出て、それぞれの家へと帰って行く。 http://www.geocities.jp/ookaminami/angry-men.htmlより引用。



{批評}

この作品も映画研究者としては当然見ておくべきものなのだが、法廷ドラマということで、あまりに退屈そうな作品だとの偏見を持って今日まで見るのを延期してきた。それで退屈覚悟で見たのだが、案に反して、実に面白い。この作品のいい点を列挙しておく。
 この映画は冒頭とラストの数十秒を覗けば、上映時間の1時間半全てが、物語上の経過時間と一致する。その上、場所は陪審員の会議室を一歩も出ない。そういう時間と空間を固定した実験的な構造になっている。
 第二に、いうまでもなく、アクションもラブシーンもない、ひたすら会話が続くだけだが、これが脚本が抜群にうまく作られていて、会話の中で事件の全貌が少しずつ分かる仕掛けになっていると同時に、会話の中で陪審員一人一人の境遇や性格が徐々にあぶりだされるようになる。面白い話は少しも無いのに、ぐいぐいと観客を引き込んでいく作りになっている。
 最初無罪を訴えるのはヘンリー・フォンダだけなのだが、次に無罪に態度を変える老人(何と言う役者か忘れてしまったがさぞかし名優に違いない)が実に上手い芝居をする。私は外国の俳優に関しては無知に近いが、12人の陪審員全員が個性的なキャラクターを演じていて、実に芸が細かい。

限られた空間、上映時間と劇時間の一致、そして会話だけの映画、という極端にストイックは構造をもちながら、一瞬も退屈することなく最後まで魅入らせるルメットの技量は天才的だと言っていい。
 カメラワークは、極端な長廻しがあるかと思うと素早いカットバックがあったり、自由自在。白黒の画面も非常にシャープで魅力的だ。

ルメットの作品としては私は「セルピコ」「狼達の午後」を見ているが共に面白かった。社会派監督だが、この退屈させない技は大したものだ。

ある殺人事件を解明しながら、実は陪審員の心の傷や偏見といったものが、有罪無罪を決定する心の奥に隠れていることを暴露する。そして、民主主義というものは、ヘンリー・フォンダの演じる男のように、納得できないことを見逃さず、徹底して議論しあうことから生まれる、という強いメッセージ性ももっている。

未見の人にはお奨めする。というよりも、この作品は「見なければならない」映画史上の傑作である。

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私はモランの学説を読むよりも、この映画を見ることをお奨めします。私はこの頃「芸術」という言葉を使うことも抵抗を覚えるようになりました。しかし、映画でもこのレベルになるとアンガージュマンになるでしょう。

現実には中々映画のように、真相解明が出来てハッピーエンドで終わることはまずありません。ヘンリー・フォンダが演じるような人物が計画的に無力化、つまり消されていったからです。

モランはユダヤ人に対する差別が、ルメットはスラム街に住む人間への差別が、真実を見る目を曇らせて神話(噂の捏造)を作り上げていくことを喝破しました。被差別階級ですね。ところが私は先祖が武士であり(後村上天皇に仕えた守護大名です。和歌山県海南市からとりよせた公文書があります)、大学教員を延べ13年続け、東京工芸大では「伝説の授業」と言われて先輩から後輩に、この授業だけは受けろ、と言われるまでの名物になりました。だから、「先祖自慢ばかりする」「虚言癖がある」、「クビになった」等々の中傷をしないと気がすまないわけです。

権力を批判するとどういうふうに社会から抹殺されるか、その大掛かりな、典型的な実例をここに書きました。何かの参考になれば幸いです。

八王子高齢者支援課の策略により母は右肩の治療をしないまま一週間以上も嘘の自白の強要をされたために、現在右手の握力が殆どなくなっています。危篤寸前のときに私の子供に電報を打っても何ら連絡がありません。元妻の母親が協力してくれましたが、手の打ちようのない状況に置かれています。

しかし私は全く後悔していません。子供と逢えないまま今殺されても、全然気になりません。何故だと思いますか? 見性体験をしたといっても当然人間ですから心労で危篤にもなったし当然辛いですよ。しかし、フッと微笑が零れるときがあります。自分はこういう使命をもって生まれてきたんだなぁ、大変な宿題をこなさないといけないんだ、と今の苦境が楽しみに変化する時があります。この気持ちを共有できる人がいると嬉しいのですが・・・

今後は、祈りの意味、罰功徳論、遷化された川上雪担老師から受けた点検のより詳しい内容など、思うが侭に書いていく予定です。今回のように重要な雑談になる場合もありますのでご了承願います。以下、月刊五行歌の3月号の巻頭に選ばれた自作です。

夜中 台所の水滴の音で 目が覚める 握力が弱くなった母の 命の音


追伸:そうそう、このブログは「カルトストーカー被害者を救う会」も兼ねているので一言付け足します。マスコミが真実を報道しなくなって何年になるのでしょう。現在ですら電磁波や音波による敵対者への攻撃が妄想だと思っている人がいるようです。格好のブログがあったので貼っておきます。私も昔は信じていない時期がありましたが、100%事実だと分かりました。電磁波や音波で敵対者を殺したり病気にしておいて「仏罰が当たった」という、もっとも卑怯な、遠隔操作によるマッチポンプが日本中で実行されています。以下のブログと、そこにリンクされたブログを熟読して下さい。知性が少しでもあれば誰も反論できないはずです。(思考盗聴はありません。それは本当の盗聴の可能性が強いと思います) 暗黒時代ですね。念の為に「母と私が突然死した場合は必ず司法解剖すること」と遺言を残しておきましょう。 http://kkytea.blog44.fc2.com/blog-entry-132.html

今の政府が健全ならすぐさまこの凶悪犯罪を防止する法案を作るべきです。 

今夜はこれで失礼します。

 



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