那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

「微笑禅の会ネット会報」新春特別号第2部(A)

2015年02月10日 | 微笑禅の会ネット会報

先ず会報が遅れたことをお詫びします。

多分この会報は今日一日では終わらないと予想されるので、夜中までに書いた段階で次回に回すことをお断りいたします。

①因果論の限界について

私が大学院の修士課程を修了して10年ほど郷里愛媛に妻子を連れて帰っていたとき、隣町に心療内科が出来ました。私は中学1年のときに太宰治の「人間失格」を読んだのをきっかけに重い不眠症になっていたため、高校を卒業してからは酒を飲まないと眠れなくなってアルコール性肝炎で苦しみ、その代わりに睡眠導入剤を処方されていましたが、地元の内科で処方されたハルシオン(金色)も効かなくなりました。冷蔵庫に数ヶ月分のハルシオンを寝かせて(横流ししたら一錠2千円で売れたそうです。売ればよかった、というのは冗談です)、また飲酒を始めたときその心療内科が開業したと聞いて受診したわけですが、医師は私の顔を見ただけで「鬱病です」と答えました(ベテランになると表情だけで病名が分かるそうです)。そこで薬の処方と共に4年間カウンセリングを受けました。

偶然、ユング派のカウンセラーの方で、非常に面白く効果的な治療をしてくれました。その人が最初に「私は因果律は無視し、結果的に鬱病が治る方法を使います」と言われたので、何故ですか?と聞き直したら「もしお母さんの眼の前で子供が車に轢かれて死んだとします。お母さんが鬱病になって、何故私の子供は死んだのですか?と聞かれたら、傘を差して歩いていたら風が吹いて車道に飛んでいったので、それを拾おうとしたときに車が走ってきたからです、と答えてもお母さんの苦しみは無くならないでしょう?」と答えられました。

これは非常に含蓄のある言葉です。以前のネット会報でも問題にしたように、フクシマの原発事故で多大な犠牲者が出ました。そこにはチンピラもあどけない赤ちゃんも、善人も悪人も様々な人間がいたのに、その人間の善悪に関係なく一気に津波が巻き込み亡くなられました。

私なりに解釈すると、善因善果悪因悪果の仏説は「自然の無関心」の前にあっけなく崩壊したわけです。車に轢かれた子供も、お母さんが「なぜそのときに風が吹いてきたのですか?」と聞いたら、「自然は人為に無関心だからです」で終わってしまいますね。因果関係を直線的に辿っていくとここで議論はストップします。アポリアの壁です。

ところが仏教は因果論を前提に成立しています。そもそも故・中村元博士によれば、釈迦は我々が思っているような人物ではなく後世に作られたイメージであり、教えも「執着するな」程度のことしか残していないわけですから、「聖徳太子はいなかった」というレベルで論じれば「お釈迦様はいなかった」と言ってもいいでしょう。大乗非仏説を持ち出すまでも無く、また「テーラワーダ仏教(初期仏教・上座仏教)」の教えさえ、伝説を元に展開しているに過ぎません。この仏教協会は日本人への愚民化運動ではないか、と考えたくなるほど無執着を説くので、だったらさっさと自殺すれば?と突っ込みたくなります。

余談はさておき、仏教の面白いところは大乗非仏説にもビクリともしなかった、つまり、教義が開放系になっているために、後世の僧侶の内証(悟り)がより優れていれば、全てを釈迦の教えとして自在に取り込んでいく力があったことです。ですからこれから使う仏教用語は現実の釈迦が説いたものではありませんが、所謂三身論を用い全てを仏説として述べることにします。

此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す」からあの煩瑣な縁起説が展開していきました。法華経で言えば十如是がこれに当たります。余りに有名ですが、天才翻訳僧・鳩摩羅什が幾つかの文献を元に創作した部分です。漢訳だと以下の通り。

仏所成就。第一希有。難解之法。唯仏与仏。乃能究尽。諸法実相。所謂諸法。如是相。如是性。如是体。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等。

ラフに現代語にすれば

「私が最後に分かったことはとても難しく悟った者同士にしか理解できない。宇宙の真理とは、あるモノがある性質を持ってある形をとってある潜在能力を元に動き始めたとき、それが原因となり、さらに副次的原因を巻き込み、ある結果が生まれ、また副次的結果に広がる。この一連の因果の連鎖は全て一つである」

とでもしておきましょう。これを天台大師は「空・仮・中」の三諦(さんたい)から解釈するために日蓮宗では如是相以下を3回読み直します。

では、これが完全な因果律か、思考実験をしてみます。目の前で赤ちゃんが橋の欄干の上をハイハイしている。危ない、と思ってその子供を橋から下ろしてあやしてる人がいたとします。普通なら親に感謝され、それを見ていた他人に、よくやった、と褒められるでしょう。しかし、偏屈な親だったら「余計なことをするな。運動神経を鍛えているんだ」と文句を言われるかもしれないし、見物している人の中には「フン、偽善者め」と罵られるかもしれません。だから「因果」ではなく、「因縁果報」という副次的な要素を残している、と私は考えます。

以前私は「稲を植えて麦が育つか。ヒマワリの種を蒔いてバラが咲くか」と語っていましたが、水害や冷害にあえば何も育ちません。突然変異もあるでしょうし、放射能の影響でとんでもない奇形植物が生えてくるかもしれません。

ここから禅の話に移ります。禅の系譜も非常に曖昧で一応「伝説時代」として

釈迦摩訶迦葉阿難陀-商那和修-優婆毬多-提多迦-彌遮迦-婆須密多-仏陀難提-伏駄密多-波栗濕縛-富那夜奢-阿那菩底-迦毘摩羅-那伽閼刺樹那-伽那提婆-羅睺羅多-僧伽難提-伽耶舎多-鳩摩羅多-闍夜多-婆修盤頭-摩拏羅-鶴勒那-獅子菩提-婆舎斯多-不如密多-般若多羅-菩提達磨

となっており、インドから中国へ禅宗を伝えた達磨は釈迦から数えて28代目、5世紀から6世紀の人物とされていますが、150歳で亡くなったとか、座りすぎて手足が腐った(普通なら化膿して長寿は無理でしょう)など、歴史学としての真実性は疑われています。

 

さて12時を過ぎました。続きは明日にします。

 

 



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