那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

「微笑禅の会ネット会報新春特別号」第2部(B)

2015年02月11日 | 微笑禅の会ネット会報

前回は達磨までを伝説的存在としたが、慧可以降は実在したと考えていいようだ。彼の過激な思想はかつての会報で紹介したが、再録する。

8)善惡を超える思想の危険性 http://www.eonet.ne.jp/~sansuian/zen/eka3.html

 空思想の「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」「煩悩即菩提」は、文字面 を受け取れば、煩悩をそのまま涅槃とする悪い現実肯定となる。それを回避しようと、事に即して経験することを強調した慧可であるが、観念によって引き起こされるあらゆる感情を「自心現量 」として斬って捨て、時間的統覚を否定する時、それは因果の撥無になりかねず、さらに分別 による二見を超えることも、一歩を誤れば、善悪双方の肯定になり、全てが許される自由へとエスカレートしかねない。次の説示はそのような危惧を抱かせるのに充分である。

十九「燃し、法仏、法僧に依って行道する時は、善惡好醜・因果 是非・持戒破戒等の見有ることを得ざれ。・・・・若し、人、戒を破り殺を犯し、淫を犯し盗を犯して、地獄に堕することを畏れんとき、自ら己れの法王を見れば、即ち解脱を得ん」。

 たしかに罰を恐れて、戦々兢々としていた心も、壁観に凝住すれば鎮まって安楽となろう。しかし、それは悪を止める力になるだろうか。また、すでに犯した悪はそれで果 たして清算されるのだろうか。さらに殺・淫・盗・妄語には、それによって深く傷付く他者がいる。その他者の問題はどうなるのだろうか。

 達摩の思想には、「我が宿殃にして、悪業の果 の熟するのみ」というように、自分の過去の罪とそれに関わる因果の論理が貫徹されていた。しかし慧可の場合は、宿業や罪という観念は、きっぱり捨てられている。

四一「痴人は亦た言う、我は罪を作れりと。智者が言う、汝の罪は何物にか似たる、と。此れは皆な縁より生じて自性無し。生ずる時に既に我無きことを知れば、誰か罪を作り、誰か受けん。経に云う、凡夫は強いて分別 して、我は貪り、我は瞋恚すという、是の如き愚痴の人は、すなわち三悪道に堕つ、と。また経に、罪性は内に非ず外に非ず、両つの中間に非ず、というは、此れは罪の処所無きことを明かすなり。処所無しとは、即ち寂滅の処なり。人の地獄に堕つるは、心に我を計して憶想分別 し、我は悪を作して我が受け、我は善を作して亦た我が受くと謂うに由る。此れは是悪業なり」。

 罪業の呵責は、たしかに過去に為したことに囚われた心の作用であろうし、その果 である地獄の苦しみを思い描くことも想像に過ぎなかろう。しかし、この慧可のように二見を持つことの方が悪業であるとまで説けば、悪因悪果 ・善因善果は否定されてしまう。次の言葉はそのことを危惧させずにはおかない。

十六「若し禁戒を犯したる時は忙怕せんも、もし怕るる心の不可得なるを知れば亦た解脱を得る」。

 これは文字通りとれば、戒律を無視することにもなりかねない。時あたかも戦乱の時代で、戦いのため、他者を殺し、傷つけ、あるいは物を奪って生きていかざるを得なかった人々が大勢いたに違いない。彼等は慧可の説くところを行じて安楽を得たかもしれないが、果 たしてそれが真の解決であろうか。

 自己(我)を幻とすることは、他者をも幻とすることである。自他を含む仏法のリアリティが慧可には言表されていない。もし敬虔な綿密な仏道としての日常生活を欠落させた時、慧可の説く道は因果 を撥無した無戒非道のあり方に堕さないであろうか。慧可は七仏通戒をも妄想として斬る。

五九「又た経にいう、一切の悪を断ち、一切の善を修めて、成仏することを得、と。答う、此れは是れ妄想して自心に現ずるのみ」。  禅宗が武人の宗教という趣きを呈するとき、その危惧はさらに増す。

 たしかに危険な思想だが、存在と当為、という概念を用いるならば、慧可は徹底的に当為を排除しリアルな事実だけを見つめている。人間以外の動物や草木鉱物には自意識がないために善悪という概念がない。慧可の悟りはその次元で語っているために一見危険のように思えるが、存在(万法)から文化のルールを斬り捨て自然の実相を見た場合、慧可の言葉は純粋理論としては正しい。この視座から見れば、アポリアの壁となった「自然の無関心」や、欄干の上をハイハイする赤ちゃんで例示した評価の差異は乗り越えられる。心も分別も幻に過ぎない(色即是空)のだから・・・。

問題はこの解説者が危惧するように、現実社会でそれが通用するかどうか、罪無くして死んだ人間やその縁者がそれで納得できるか、という感情や道徳(まさに当為と文化)の側面である。つまり人間は生きている以上、空即是色が常に着地点になるからだ。そこで、「無門関」の百丈野狐が意味を持つ。これもかつて会報で解説したが再度解説する。

百丈の野狐

百丈和尚、凡そ参(さん)の次で、一老人有って常に衆に随って法を聴く。衆人退けば老人も亦退く。忽ち一日退かず。師、遂に問う、「面前に立つ者は復た是れ何人ぞ?」

 

老人云く、「諾(だく)、某甲(それがし)は()なり。過去、迦葉仏(かしょうぶつ)の時に於いて曽(か)って此の山に住す」。因みに学人(がくにん)問う、「大修行底の人還って因果に落ちるや?」。 某甲(それがし)対(こた)えて云く、「因果に落ちず」。五百生野狐身(やこしん)に堕(だ)す。

 

「今請う。和尚一転語を代わって貴(ひと)えに野狐を脱せしめよ」。遂に問う、「大修行底の人還って因果に落ちるや?」。

 

師云く、「因果を昧(くらま)さず」。老人言下(ごんか)に大悟。

 

作礼して云く、「某甲(それがし)、已に野狐身(やこしん)を脱して山後に住在す。敢えて和尚に告ぐ。乞うらくは、亡僧(もうそう)の事例に依れ」。

 

師維那(いのう)をして白槌(びゃくつい)して衆に告げしむ、「食後(じきご)に亡僧(もうそう)を送らん」と。大衆言議すらく、「一衆皆安し、涅槃堂(ねはんどう)に又た人の病む無し。何が故ぞ是の如くなる」と。食後(じきご)に只だ師の衆を領して山後の嵒下(がんか)に至って、杖を以って一死野狐を挑出(ちょうしゅつ)し、乃(すなわ)ち火葬に依らしむるを見る。

 

師、晩に至って上堂、前の因縁を挙す。黄檗便ち問う、「古人、錯(あやま)って一転語(いってんご)を祇対(しつい)し、五百生野狐身(やこしん)に堕(だ)す。転々錯らざれば合に箇の甚麼(なに)にか作(な)るべき」。

 

師云く、「近前来(きんぜんらい)、伊(かれ)が与(た)めに道(い)わん」。黄檗遂に近前、師に一掌を与う。

 

師、手を拍(う)って笑って云く、「将(まさ)に謂(おも)えり、胡鬚赤(こしゅしゃく)と。更に赤鬚胡(しゃくしゅこ)あり」。

 

この老人は慧可の思想のお手本どおり、悟れば因果律の束縛から逃れることが出来る、と答えたために狐に身を落とし5百回生まれなおしても人間になれなかったが、百丈和尚が「因果をくらますことは出来ない」と言うのを聞いて大吾したという話である。判断や道徳は幻だから因果律はない、と答えると現実社会では通用しない。しかし、因果律は絶対だというとアポリアを解くことは出来ない。だから「ある」とも「ない」とも答えず、「ごまかせない」と答えたところに妙味がある。

面白いのは若い黄檗が師匠に「もしあの老人が最初から因果をくらますことは出来ない、と正解を出していたらどうなったんですか?」と(わざと)師匠に質問したとき、師匠は「いいことを教えてやるからこっちへ来い」と黄檗を呼んで一発殴り「ここに達磨さんがいたぞ」と大笑いして拍手した、というオチである。

つまり、この野狐の話は百丈和尚の作り話で、因果に落ちるのも危険、因果に落ちないのも危険という両否定、言い換えれば色即是空空即是色の両肯定を面白おかしく説法したのだから、チャチャを入れるなよ、と解釈する以外にない。

善因善果悪因悪果は、逆に非常に危険な因果律である。原理主義の宗教の場合、言うことを聞かない奴(敵対者)は「野垂れ死にするまで攻め抜け」となりかねない。最後には「悪い奴は死ぬべきだ」となり、サリンを撒いたりヤクザに殺人依頼をしたり、あるいは電磁波や超音波などのハイテク機械を使って、人為的に因果律を完成させようとする。

例えば、過去の戦争で「正しいほうが勝った」事実が一度でもあるだろうか?戦争は双方の正義の定義の違いから生まれる以上、善悪は全く関係ない。鉄砲を持ったほうが勝ち、大砲、機関銃を持ったほうが勝ち、飛行機による爆撃が勝ち、結局国際法を無視した都市大空襲と原爆という非戦闘員の大量殺戮をした連合国が勝って、東京裁判で日本の行為は「悪」となった。これがリアリズムである。連合国から見れば、この歴史は「善因善果悪因悪果」の因果律通り、となるが、日本から見ればどうだろう?いうまでもない。現実を直視すれば「「善因悪果悪因善果」のほうが普通だと分かる。

ここで一般論として宗教の意義を整理することにしよう。宗教とは

1.悪いことをするとお天道様が見ていて罰が当たるよ、という道徳を強化するための戒め。条件反射に例えれば、道徳の条件付けの役割を果たしている。(人間は宗教の戒律がなければ共食いまでする野蛮な動物だった)

2.死の恐怖の克服。哲学と宗教の決定的な(構造的な)違いはここにある。永遠の生命を説かない宗教はない。基本的には輪廻転生(天国や浄土も一度だけの輪廻転生思想に分類できる)であり、禅は人それぞれだが、個我を消す訓練により万物と一体になることで乗り越える。あえて誤解される言い方をすれば、見性体験は「梵我一如」の感覚に非常に似通っている。

 

もちろんこれだけでなく、科学が未だ解明していない祈りの効果(解説がややこしくなるので省略する)や、前世や死後の世界の存在を科学によらず、総合的直観力で予測した部分もあり、一部の科学者はそれを実験により解明しつつある。

要するに、因果律の否定はニヒリズムや無秩序な世界を生み出し、その原理主義的肯定は必然的に敵対者への憎しみと殺人に直結する。だから「因果律をバカにしてはいけない」と中庸をとる、というのが「百丈野狐」の公案の優れているところである。とすれば、生悟り、独りよがりの悟りを示す「野狐禅」という言葉は本来は全く逆で、黄檗が見抜いたように野狐は、因果律の本質(嘘でも必要である、ということ)を引き出すための非常に優れた媒介であり、この野狐こそ方便の風を吹かせて如来の蕾を開かせた春風のような存在だと私は考えている。百丈和尚の作り話に登場するキャラクターとはいえ、凡人ではとても野狐のレベルにまで達することはできないからである。

もう直ぐ夜中の1時、明日は用事があるので、続きは遅れるかもしれません。この間にメルマガの紹介があるかもしれないことをお断りします。次回は「才能の問題」について話します。

 



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